2010年02月08日

ライブ・自閉症の認知システム (8)

このシリーズ記事は、先日、石川にて行なわせていただいた講演の内容を、ダイジェストかつ再構成してお届けするものです。


Slide 8 : 自閉症=「一般化」の障害であるという仮説

さて、先ほどのスライドの後半のお話のなかで、カンのいい方はもう気づかれたと思います。
私たちの脳の中に「一般化」という認知のしくみがあるおかげで、私たちは「ことば」を使うことができ、安定した世界を感じることができ、他人のこころを理解して社会性のあるふるまいをができるわけです。
だとすれば、その「一般化」というプロセスが、何らかの理由でうまく働かなかったとしたら、どうなるでしょうか?

まず、たくさん「いぬ」についての経験を重ねても、それらはうまくまとまっていくことがなく、個別でばらばらのままになってしまいますから、いつまでたっても、それらが1つに集まって「いぬ」ということば、概念につながっていく、ということがありません。
ですから、ことばや抽象的な概念の獲得が困難になります

そして、昨日の家と今日の家、昨日の学校と今日の学校は別の空間として認識されてしまうことになって、世界を安定したものとしてとらえることができません。
世界が安定しないということは、いま自分がどういう世界のなかのどこにいるのかを知る手がかり、基準となる世界の枠組み、座標軸が手に入らないということでもありますから、いま自分がどういう状況にあって、何をすればいいのかも分からなくなってしまう、ということになるわけです。
何とかそういった枠組みをある瞬間つくりだせたとしても、ちょっとでも状況が変わったらまた元の木阿弥です。

そんななかで、少しでも安定した世界を作り出そうと思えば、もう「全体が同じ」という世界観はあきらめてしまって、すごく細かい「部分」に存在する「同じもの」を見つけて、そこに「安定」を見出していくほかありません。そのために、特定の家具の配置にこだわったり、なくなったものを必死に探したり、変化を極端に嫌って同じ行動パターンにこだわることになるでしょう。
当然、行動パターンや興味の対象も、ごく狭いものに限定されてしまうはずです。

さらに、他人とかかわっても、そのかかわりを一般化して何かを学習する、ということにつながっていかないため、「ヒトならでは」の行動原理を発見することができません。
ヒトの行動原理が分からないということは、ヒトとモノの区別がつかないということにつながります。
もちろん、他人の「こころ」を理解するための知識を学ぶことも非常に困難になります。
そしていうまでもなく、いわゆる「場の空気」のような、高度な社会性を身に付けるのは大変なことになります

もうお分かりだと思いますが、いま紹介したものは、いわゆる自閉症の三つ組の障害、対人関係の障害、ことばやコミュニケ-ションの障害、こだわりや興味の限定と極めて似ているというか、同じだと言ってしまっていいと思います。
つまり、自閉症のさまざまな障害というのは、「一般化」という脳のシステムの障害という、たった1つの仮説をおくことで、すべてきれいに説明できてしまうということになります。それだけでなく、それらの行動上の障害が起こっている背景として、自閉症の人がどんな認知の世界に生きていて、どんなことに困っているのかも、かなりの程度想像できるわけです。
もちろん、説明ができそうだからといってそれが正しいということになるわけではありませんが、うまく説明できるということは、うまく「理解」して「応用」できる可能性が高い、ということは言えるでしょう。

他にもいくつか、一般化というスキルが障害された場合におこりうる事態を考えてみましょう。
どれも、自閉症の症状として思い当たるものであることが分かります。

まず端的に言えそうなこととしては、学習の汎化がうまくいかなくなるだろう、ということがあります。
汎化学習というのは、ある特定の場面で学んだスキルを、ちょっと違う別の場面でも応用できるようにする学習のことですが、そもそもなぜ私たち自身がそういった「応用」を利かせられるのかと言えば、それは私たちがこの「一般化」というスキルを持っているからなのではないでしょうか。
ですから逆にいえば、「一般化」ができない脳にとっては、状況が少しでも違えば、それはまったく別の新しい状況ということになるわけですから、過去に経験したことを応用して新しい場面に適用することはとても難しくなります。
それが、学習の汎化がなかなかすすまないという風に外からは見えることになるわけです。

それから、ことばのなかでも、直接経験することができず、「一般化」されることによってのみ正しい理解に到達できるようなことばについては、理解することが非常に難しくなるでしょう。

たとえば、さっきから取り上げている「いぬ」ということば、概念であれば、目にも見えますし、まあ100匹の犬を経験すれば、とりあえずその100匹を見たときには「いぬ」と言えるようになるかもしれません。
でも、「きちんと」とか「ちょっと」ということばになると目に見えません。
さまざまな場面で使われる目に見えない「きちんと」を繰り返し経験し、しかも、その経験そのままではなく、「一般化」することではじめて、「きちんと」ということばのニュアンスを取り出して理解できるわけです。

お分かりいただけるでしょうか。
「いぬ」の場合は、一般化ができなくてもとりあえず「実体」はあるんですが、「きちんと」の場合は、一般化されない限り、実体は現れてこないのです。「いぬの絵」は描けますが、「きちんとの絵」は描けないのです。
ですから、一般化ができなければ、「きちんと」ということばを理解することはとても難しくなるわけですし、ましてや、初めて経験する場面で「きちんとやれ」と言われたら、もうわけがわからないでしょう。その「きちんと」にはまったく「実体」はなく、「一般化」によってのみ生み出される「この世にないもの」を指しているからです。

また、「足が棒になる」という比ゆ表現は、「足が実際に棒になる」ということばどおりの意味の部分はあえて捨ててしまって、「足が棒になったかのような疲れた感じ」という意味だけを残したことばです。
これも直接経験することが不可能ですし、ことばどおりに解釈することはかえって理解を妨げてしまいます。やはり、ここにも「実体」はありません。

「時間」も目に見ないので同じですね。
おそらく、時間というのは「足が棒になる」みたいなのよりも、さらに理解が難しいものなんじゃないかと思います。
なぜなら、先ほども申し上げたとおり、一般化ができない認知システムでは、この「世界」というのが安定して見えてこないからです。時間の認知というのは、空間の認知が安定してきてはじめて生まれてくるものではないでしょうか?

また哲学の話になってしまいますけど、時間が「実在」するかどうかというのも、実はとても難しい問題です。
先ほどの「こころ」と同じで、「時間」というのも、この世界をわかりやすく納得して生きていくための方便として、一般化が得意な私たちが勝手にでっちあげただけのものかもしれません

ですから逆に、一般化という能力が阻害された自閉症の人は、「一般化」によって初めて生み出されるような概念、端的にいえば「こころ」とか「時間」、そういった枠組みありきではなく、そういう枠組みを前提とせずに最適化された、そういう認知、世界観の中で生きている可能性も考えられるわけです。

(次回に続きます。なお、今回の記事の内容は、下記の拙著にて詳しく取り上げています。)
 

posted by そらパパ at 21:52
"ライブ・自閉症の認知システム (8)"へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
子どもが自閉症かもしれない!どうしよう!という親御さんへのアドバイスはこちら
孫が自閉症らしい、どうしたら?という祖父母の方へのアドバイスはこちら

fortop.gif当ブログの全体像を知るには、こちらをご覧ください。
←時間の構造化に役立つ電子タイマー製作キットです。
PECS等に使える絵カード用テンプレートを公開しています。
自閉症関連のブックレビューも多数掲載しています。

花風社・浅見淳子社長との経緯についてはこちらでまとめています。

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。