2008年10月13日

ABAの限界について(3)

さて、前回は、つい1世紀ほど前までは「世界の真理を解明する隙のない方法論」だと思われていた古典的な科学観(ニュートン物理学などが想定していた世界観)が、いくつかの現代科学の「革命」によって、根っこからひっくり返されてきた歴史について簡単に触れました。

繰り返しになりますが、私は理系な人ではないので、かなり文系的に創作しているところもあると思いますので、その辺りはご容赦のうえ読み進めてきていただければ幸いです。

さて、ひるがえっていよいよABAについてです。

ABAは、古典的な科学観と現代的な科学観、どちらに立脚した方法論かといえば、これは明確に「古典的な科学観」によって立つ方法論だといえます。そもそもABAは、「(古典的な意味での)厳密科学としての心理学」を打ち立てようとしたワトソン・スキナーの流れをくんでいるわけですから、当然といえば当然です。
だとすれば、古典的科学観がそうであったように、ABAの方法論にも「限界」がありそうだ、ということが分かってきます。
ここでは、以下の2点に着目して、ABAの「限界」だと私が考える点を整理しておこうと思います。

1.還元主義(ヒトの活動を、個々の行動に分割して働きかけ、あとでそれを集めれば「全体」に効果が出るという考えかた)

2.観察と行為の独立性(働きかけることと、その「働きかけの姿」を観察することは、相互に独立しているという考えかた、あるいは、「働きかけの姿」を外部から観察して何かを語ることができる、という考えかた)


まず1.について。

療育というのは、子どもの「発達」に対して働きかけることですが、この「発達」というのが「複雑系の極み」であることは、論を待たないでしょう。
まず、「脳」そのものが典型的な第一級の複雑系であり、「発達」が物理的な現象としては脳の神経ネットワークの形成・成長だということがあげられます。
さらに、現象的にみれば、発達というのは子ども・親・その他さまざまな環境といったものの「相互作用」そのものであり、さらにその「相互作用」が時系列に累積していく、つまり「相互作用の相互作用(の相互作用の相互作用の・・・)」という姿をしていることから考えても、その相互作用を切り捨てて行動を細分化し、個々の行動を強化して後でくっつければ「全体」として期待どおりの「発達」につながる、と考えるのは、これまでの「複雑系の科学」の歴史と照らし合わせて考えたとき、あまりに楽観的な考えかただと思われます。

もちろん、「問題行動を解消する」といったように、「古典科学的な方法論」に乗せやすい療育のテーマも存在しますし、そういったものについてはABAは絶大な成果をあげるでしょう。でも、だからといって、ABAが子どもの発達すべてをカバーして、あらゆる領域に対して同じくらい絶大な成果をあげられるとはいえないのです。

さらに、一見ABAが効果を上げているように見える「問題行動への対応」などについても、厳密にみると問題が内包されています

例えば、「パニックする」という問題行動をみたとき、それをABAによる働きかけの対象とするためには、「自分の頭をたたいた回数」「自席から離れている時間」「大声を出した回数」といったように、客観的に観察でき、定量化できる指標としてその問題行動を「再定義」し、その定量化された指標を増やしたり減らしたりすることを目標に働きかけを行ないます。
でも、これらヒトの現象としての「活動」は、本当に定量化できる行動として「再定義」できるのでしょうか? あるいは、それが常にできるという保証がどこにあるのでしょうか? 働きかけの過程で、当初の「指標」の妥当性が失われるということはないのでしょうか?

つまり、「パニック」は「パニック」以外の何物でもないのではないか。それを「頭をたたく回数」と「大声を出す回数」に「再定義」して、そのうえで働きかけるとするなら、それは既に「パニックに対して働きかけている」ことにはならないのではないか(あるいは、途中までは有効であったとしても、療育による相互作用が積み重なっていくうちに、「パニック」の本質が変質して有効性が失われることはないのか。そうなっていないことをどうやって証明するのか)。そういうことです。

指標化することは、ある現象を「地」と「図」に分けることでもあり、これはABAで「客観的に観察」するためには避けて通れないプロセスなのですが、それによって「ありようの全体」を見たり、働きかけたりすることができなくなってしまっている可能性があるわけです。
これもまた、ABAが還元主義的方法論であり、一方で療育の対象となる「子どもの発達」や「問題行動」が本質的に複雑系であることによる「ABAの限界」です。

次に、2.の「観察と行為の独立性」ですが、これは、「療育的働きかけを行なう」ことと、「その療育的働きかけの効果を観察する」ことが、相互に独立しているという考えかたです。そうでなければ、働きかけの効果を「客観的に測定する」ことができないので、ABAの生命線の一つとなる考えかただと言っていいと思います。
何を当たり前な、と思うかもしれませんが、私はこれも、厳密には成り立たないと思っているのです。

療育的働きかけとは、例えば親と子の相互作用です。
相互作用なので、働きかける「前」と「後」で、もちろん子どもにもその働きかけの「影響」が出ていますが、実は親の側にも「影響」が出ているはずです。つまり、働きかける「前」と「後」とで、働きかける人間(親)も厳密には「同じ」ではありません。ですから、働きかけの「後」に、その効果を「観察」した場合、その「観察」の結果は、「働きかけが子どもに与えた影響」と、「働きかけが親に与えた影響」とが組み合わされたものになります。

もちろん、観察する対象を限定して、例えば「一定時間内に自分の頭をたたいた回数」のように極力客観的な指標のみを取り扱うことで、このような親の側の相互作用の影響を排除することも可能でしょう。実際、ABAでは「観察する指標は客観的なものだけにする」ことを重視します。

でも、療育的働きかけにとって、働きかけを行なう側の相互作用による変化、影響は、「扱いにくいから無視すればいい」というような些細なものだと言い切れるでしょうか? 私は、そうは思いません。むしろ、療育的働きかけを通じて、親の側がどんな風に変わっていくのかは、その後の療育と子どもの変化に決定的な影響を持つはずだ、と考えます。つまり、ここにも複雑系が存在し、ABAはそれが「複雑系」であるがゆえに、捨てざるを得ないという構図があるわけです。
これは、観察だけを担当する第三者を置けばいい、という話ではなくて、ABAが掬いきれない部分に本質的に重要なものが存在しているのではないか、という議論です。

・・・さて、話が発散気味なので一気にまとめてしまうと、古典的な還元主義の科学観をベースに「療育」という行為を客観的に定義するABAの考え方は、

・子どもの発達は複雑系であり、本質的に還元主義にはなじまない。

・療育自体が相互作用であり、療育者自身が療育によって変わっていくという要素を無視すべきでない。


という2点から、自ずと限界があると言わざるを得ない、というのが私の立場です。

もちろん、その「限界」の中では、ABAは絶大な効果をあげてくれます。これは、ニュートン物理学が、日常的な現象のほとんどを説明してくれるのと同じです。
でも、その「限界」を超えた領域があり、その領域ではABAといえども有効ではない(少なくとも効果的だとはいえない)ことも、忘れてはならないでしょう。
さらに言えば、その「限界」は、こと自閉症療育に関する限り、意外と近くにある(日常の療育程度でも、簡単に「限界」を超えてしまう)というのが、私の認識です。

ただ、その「超えた」部分について、既存のABA以外の療育法が「答え」を提供しているかといえば、残念ながら答えはノーです。そういう意味では、ABAの優位性は揺るぎません。でも私は、この「超えた」部分について何かソリューションを見つけたいと思っていて、これが今の私の最大の関心事になっています。

いま、そのヒントが得られるかもしれない、と思っているキーワードが「オートポイエーシス」なのですが、この辺りの議論は、私のなかでも、まだまだこれからです。


↑オートポイエーシスに関連する書籍
posted by そらパパ at 21:44
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