2008年07月07日

療育と「万能感の錯覚」

療育に対する親としての意識、スタンスに関連して私が最近思うことに、「万能感の錯覚」というのがあります。
この話題は、実は「適応という視点」のシリーズ記事とも若干関連性があるのですが、話題としては独立していると感じたので、独立した記事として書いてみることにしました。

このことを考えるようになった直接のきっかけは、かなり前にレビューした「発達障害だって大丈夫―自閉症の子を育てる幸せ」を、たまたま書店で久しぶりに目にして、レビュー記事のコメントのやりとりで、「なぜこの本の著者の堀田あけみさんは心理学の専門家なのに、療育に対してすごく醒めているように見えるのだろうか」といった議論があったことを思い出したことだったりします。



かくいう我が家も、家族で取り組んでいる療育の「量」は決して多くないです。我が家の毎日の子どもへの接しかたを誰かが見たとすると、おそらくそれは「熱心に療育に取り組んでいる」姿には見えないんじゃないか、と思います。

私が堀田さんのエッセイに共感したのは、この辺りの「療育に対するちょっと醒めた距離感」が、自分とけっこう近いように感じたからだ、ということもあります。レビュー記事の表現で言えば、「親としての肩の力の抜きかた」が近い、という言い方もできるかもしれません。
少なくとも、堀田さんも私(我が家)も、「心理学を勉強している」のに、「ものすごく熱心な療育をやっているわけではない」という共通項がある(と私は感じている)わけですが、これは実は接続詞が間違っていると思います。つまり、

「心理学を勉強している」からこそ、「肩の力を抜いた療育をするようになった」

のではないか、と思うわけです。
そう考える理由を今から書いてみたいと思います。

ここでちょっと話題を変えて、ちょっと前まであった「あるある大事典」とか、それ以外のさまざまな「健康番組」について考えてみたいと思います。
こういった番組は、ものすごく乱暴にいえば、特定の食べ物を食べることが体にいいという内容になっています。「あるある」の頃は特に如実でしたが、テレビである食べ物が健康にいいと言われると、その翌日からはスーパーからその食べ物がなくなるくらい売れる、といったことがしばしば起こりました。

なぜこんなことが起こるか、といえば、「私たちは食べるものを変えることで自分の健康状態を変えることができる」と信じているからです。

当たり前だと思わないで下さいね。ちょっと視点を引いて、考えてみてください。
実際には、食事というのは、食べる「量」が適切でさえあって、命に関わるような極端な偏食がない状態であれば、けっこうどんなものを食べてもそれほど体の状態に大きな影響を与えるとは言えないのではないでしょうか。
私たちの体は、不足しがちな栄養素があればそれを一生懸命吸収し、余ったものは捨てるというバランスをとる働き(ホメオスタシス)によって、基本的には「自動的に」その条件の下で一番健康に生きられる状態を作り出します。「何か1品余計に食べること」は、その働きに対して間接的かつわずかな影響しか及ぼさないでしょう。

言ってみれば、私たちは「自動操縦の船」についた小さな手動の方向舵を操作しているに過ぎないのです。
にも関わらず、私たちはつい、「この船を操縦しているのは私だ」という感覚にとらわれます。これが冒頭で書いた「万能感」という「錯覚」です。

さて、ひるがえって自閉症児の療育についてです。

発達というのも、実際には基本的に「自動操縦の船」です。子どもは放っておいても勝手に成長していきます。それは、外部から何か働きかけて、「成長を止める」ことができないことからも明らかです。
もちろん、養育者の働きかけが無意味ということはありません。適切な働きかけ=子育てが、発達を促進したり、適切に方向づける効果があることは当然です。ただ、これは決して「自動操縦装置を止めて自分が操縦する」ということではなく、「自動操縦装置で船を走らせながら、小さな手動の方向舵を操作して船の走行を調整する」という働きかけです

そして、自閉症に限らず、「発達障害」というカテゴリでくくられる障害をもった子どもは、この例えでいう「自動操縦」の性能に問題があるということになろうかと思います。だから、健常の子どもに比べても、より手厚い支援=「手動の方向舵」を一生懸命操作することで、何とか船を向かうべき方向に進めていくことになります。この「手動の方向舵を(健常児以上に)一生懸命操作すること」が、まさに療育的働きかけということになります。

でも、ここで大切なことは、「それでも自動操縦で船は進んでいる」ということです。
療育的働きかけは、「自動操縦(自然発生的な発達の進展)」に補助的に働きかけてうまく船を前に進めることであって、操縦全体を自らのコントロール下において自由に船を運転することではないのです。そんなことは、そもそもできっこないのです。

ここで話を最初に戻すと、心理学を勉強することは、こういう「人に対して働きかけることの限界」、ここの例でいえば「療育に対する万能感は錯覚である」ということを自覚することにつながるものなのかもしれないなあ、と(心理学を学んだ身としては)感じています。

これは、「何をやっても無駄だ」といったものとはまったく違いますが、外から見れば一見、療育に対する「醒めた目」、諦念のように映る可能性はありますね。

個人的には、堀田あけみさんのエッセイから感じられる、ある種の醒めた感覚、「熱心な療育」から距離をおいているような感覚は、ここから来るのではないかと感じています。そしてそういった感覚は、私自身も共有しているものでもあるのです。

療育はとても重要であり、障害をもった子どもの親としての務めだと思います。
でも、その「療育」の役回りというのは、子どもの「自動操縦」としての発達をうまく支援して伸ばしていくことであって、「発達そのものを作り上げていく」といった大げさなものではないのです。そもそもそんなことはできるものではありません。
だから、「療育」も、「子どもの発達をうまく引き出せているな」と感じられることが最も重要なのであって、もしそういった実感が持てているのであれば、もっと、もっとと無理をして自分にプレッシャーをかける必要はないのだ、と思います。(逆に、すごく頑張っているのに、そういう「実感」が持てないのだとすると、一度その取組みをやはり「少し距離をおいて」見つめなおす必要がある、ということでもあると思います。)

だから、療育で「肩の力を抜く」ことは、単に親の時間を作るために手抜きを容認するという後ろ向きな意味ではなくて、自分は子どもの発達に対して万能ではないのだという限界を認識して、「子どもの発達」を冷静にみつめて「できること」の範囲内で「いい仕事」をするということなのだ、という、もっと前向きな意味を込めることができるのではないか、と思うのです。
posted by そらパパ at 21:45
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