つまり、課題の難易度がその子どもの発達段階やその伸びのペースを無視して勝手に上がっていくなんていうのは全然「個別化」されているとは言えませんし、「その子が待てる限界を超えて順番待ちをさせてパニックさせてしまう」などということが毎回繰り返されるとしたら、それはもうおよそTEACCHとは似ても似つかない別のなにかでしかないわけです。
これは、グループで療育することを否定するわけではないのです。
グループでの療育それ自体は、療育の一つの取組みとしてぜひ必要なものだと思いますし、TEACCHがそれを否定しているわけではまったくないと思います。
でも、グループであっても、それぞれがこなす課題はそれぞれの子どもにあわせて別のものを使ってまったく構わないわけですし、「待つ」というスキルがついている子どもは長く待たせて、まだ十分でない子どもは(順番などを工夫して)短い時間だけ待たせて、まだ待つスキルがない子どもはあえて待つことを無理強いせずに、ごく短い時間グループの「場」にいさせて、すぐに別の(その子が「できる」)個別化された活動に移行させるようにすればいいはずです。
TEACCHにおける個別療育とグループ療育との関係は、「グループのペースに合わせるために個別の訓練を頑張る」などというものではなく、「個別の療育を積み上げていく過程のなかで、そのときどきに立ち現れるグループ療育との接点を活用していく」といったものでしょう。観念的な表現になってしまっていますが、要は個別とグループとを比較したとき、むしろ個別のほうを重視するのがTEACCHであるというのが私の理解です。
観念的な表現を使ってしまったついでに、もう1パラグラフだけ、観念的な話題を続けることをご容赦ください。
この問題は、グループ療育という「場」をどうとらえるか、ということでもあると考えています。
グループ療育というのは、えてして、その「場」にできるだけまとまった大きな一つの「流れ」を作って、その流れに子ども全員を乗せて効率的に運んでいこう、という働きかけになりがちだと思います。でも、その道をあえて採らずに、グループ療育であっても、それぞれの子どもが各自にとって一番合った「流れ」の中で活動し、それぞれの「流れ」が合流するなかで即興的に生まれる、誰にも予想がつかない「全体の流れ」を尊重しながら、臨機応変に「グループ療育」という場を創造していく努力を、TEACCHは求めていると思うのです。
ちなみに、ここで言っている「流れ」というのは、子どもと担当療育者という単位、あるいはそれらのユニット間の関係まで含めた、療育という取組みのなかで生じる相互作用のことをイメージしています。
娘が受けているTEACCHの療育では、そのような柔軟な対応と、個別性にしっかりと立脚したグループ療育の体制がいつもとられていることを妻から聞かされていて、私も何回か見学にも行って実感もしています。ですからそのTEACCHの療育に関しては、書籍などを通じて理解している「TEACCHの理念」と、実際にそこで行なわれていることとの間に違和感を感じたことはほとんどありません。
それがあまりにも自然だったからこそ、その背景にとても重要な療育観があることに、私も気づけていなかった側面があります。
今回聞いた話で、今までそれほど意識していなかった、「TEACCHの本質」を改めて痛感したわけです。
ただ、そもそも、今回話題にしたサービスが、本当に自分たちが提供しているサービスを「TEACCHをベースにしたグループ療育」と位置づけているのかは分かりません。伝聞の情報から、私たちが勝手にそこのサービスがTEACCH的だと思い込んでいただけです。ですから、そのサービスに対して「それはTEACCHではない」と「責める」のがここでの目的ではありません。
また、TEACCH的な「子どもに歩み寄った」療育と、今回聞いた話のように「厳しく引上げる」療育、どちらが効果があるのかについても、ここでは評価を避けたいと思います。
先に述べたような「個別性」を重視したグループ療育を実施するためにはかなり多くの療育担当者が必要で、コストもかかります。多くのコストをかけて少人数のみ療育する(その代償として費用が高くついたり、療育を受けられない子どもが増える)のと、コストを下げて、たくさんの子どもに廉価でサービスを提供する(その代償として子どもの個別性への配慮が不十分になり、脱落するようなケースが増える)のと、どちらがいいとも断定することはできず、究極的にはバランスの問題になってくるということもあります。
ここで書きたかったことはそういった個別のサービスのいい悪いという話ではなく、よく漠然と言われる「構造化や絵カード、スケジュールを導入することがTEACCHではない」という話が、今回初めてどういう意味かということを実感として理解できた、ということです。「TEACCH的である」とはどういうことなのか、今回の一件で、自分なりの理解は深められた気がします。
(まったく余談になりますが、TEACCHがその看板を排他的に守ろうとしていないことは、とても評価できると思っています。
療育の重要な情報を非公開にし、自分たちが管理する「講習」でしかその情報にアクセスできないようにし、自分たちが管理する「資格」を持った者にのみその療育法の名称を使ったり指導したりすることを認める、というスタイルの療育法を、私は基本的に支持しません。
療育法をオープンにすることは、その方法を誤解して療育してしまうようなデメリットもありますが、多くの人が等しく優れた療育法の情報にアクセスできる、というメリットを上回るものではないと信じています。)
(次回に続きます。)