<岡山突き落とし>少年、アスペルガー症候群と診断
4月24日1時41分配信 毎日新聞
JR岡山駅のホームで3月25日夜、岡山県職員、假谷国明さん(当時38歳)が突き落とされ死亡した事件で、殺人と銃刀法違反の非行事実で家裁送致された大阪府大東市の少年(18)が、捜査段階の簡易精神鑑定で「アスペルガー症候群」と診断されていたことが分かった。
事件は岡山家裁から大阪家裁へ移送されている。少年の付添人弁護士が明らかにし、家裁に正式な精神鑑定を申し入れる方針という。
アスペルガー症候群は広汎性発達障害の一種で、コミュニケーションや共感性など対人面や社会性に困難があり、物事に固執する傾向がある。ただ、集中力や記憶力で優れた能力を発揮する人もおり、犯罪傾向とは無関係とされる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080424-00000002-mai-soci
最近は、少年事件が起こるたびに、低くない確率で発達障害との関係が取り上げられ、実際の裁判でもその部分が重要な争点として争わることが増えているように思われます。
我が家も含め、自閉症スペクトラムの子を持つ親としては、心穏やかでないところです。
私たちは、この問題についてどのようにとらえればいいのでしょうか?
今回は、この問題についての私なりのの整理を書いておこうと思います。
まず第一の疑問として、自閉症スペクトラムと犯罪傾向は本当に「無関係」なのか、それともそうでないのか、という問題について。
これについての私の意見は、「直接の因果関係はない」、しかし、「相関関係が観察されることはありえるだろう」というものです。
自閉症スペクトラムの原因とされる脳の器質的な障害が、そのまま直接「犯罪傾向」を生じさせるということは、ほとんど考えられません。
ただ、自閉症スペクトラムであることによって社会適応に失敗するリスクが高まることは間違いありませんから、その社会適応の失敗から、行為障害、非行傾向に移行するという、二次障害としてのリスクの可能性までは否定できないと考えざるを得ません。
もう一つ、難しい側面があります。
「重大犯罪の加害者」という集団を事後的に観察したときに、その集団に含まれる人の多くが、さまざまな理由により「社会性に問題を抱えている」ように見えることは必然です(犯罪というのは、突き詰めて考えると、反社会的行為の究極のものだと言えるわけですし)。
ここで難しいのが、そもそも自閉症スペクトラムが、「社会性の障害」などの「行動・症状レベル」で定義されていることです。
つまり、社会性に問題ありと認められるような非行を行なった子どもを集めてきて、事後的に精神鑑定を行なった場合に、「社会性に問題がある(行為を行なった)」という事実から、そのまま「広汎性発達障害の定義に合致する」という結論を導けてしまう可能性がある、ということです。
つまり、結果から原因を「あとづけ」で作れてしまうような要素が、自閉症スペクトラムの診断基準には内在しているということなのです。
この辺りは、明確な原因がわかっていない自閉症スペクトラムの診断における本質的な問題だと言っていいと思います。
ただ言えることは、仮に事後的な結果からみて相関があるように見えたとしても、ただそれだけでは、その要素が「リスク要因である」とは言えても、「原因である」とはいえない、ということです。
もう一点、考慮すべきことは、こういったケースで弁護側がことさら発達障害を強調するインセンティブ(動機づけ)として、刑法第39条の規定がある、という点です。
刑法
第三十九条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
判例等によると、心神耗弱とは、精神の障害により事の是非善悪を弁識する能力又はそれに従って行動する能力が著しく減退している状態をいいます。そして、犯行時にこの心神耗弱の状態にあると認定されれば、罪が軽減されます。
そこで、犯行を行なったという事実に争いがない場合、弁護側は次の手段として、罪を軽くするために、心神耗弱の主張ができるかを追究します。
そのために、この「発達障害」という精神鑑定があった場合、それを強く主張する(それにより犯行時に心神耗弱であったという認定を受けて罪を軽減させることを目指す)わけです。
個別ケースの鑑定の信頼性、あるいは刑法第39条の是非についてのコメントは差し控えますが、本来の趣旨からいえば、そういった障害や困難をもった人を守るための刑法の規定が、結果として障害と犯罪との間に直接の関係を想定するような弁護側の主張を誘引し、さらにその結果として障害が犯罪の原因であるかのような印象を世間に与える結果になっているのは、皮肉というほかありません。
今回のテーマは内容的にとてもデリケートなものを含んでいると思います。
ご批判等ありましたらぜひコメントいただきたいと思います。
しかしながら、逆に犯罪の被害者になることも、健常児に比して疑う能力が少ないことから起こりうることです。
犯罪加害者だけでなく、被害者になる比率でも健常児と自閉症スペクトラム児で有意差があるのかどうかを調べてみないと、全体像から外れた加害者側の部分だけ強調された歪んだ状態で世に喧伝されることになってしまうな、と思います。
また、犯罪の種類によっても健常児と自閉症スペクトラム児で出方が異なることは容易に推測できます。
殺人、暴行などでは自閉症スペクトラム児の比率が人口比よりも高いかも知れませんが、詐欺は能力的に自閉症スペクトラム児には無理でしょう。また、教唆・幇助、共同正犯等も不向きだと思います。
新聞報道では、普通と違うことのみ記事に書かれる傾向がありますから、全体の数は少なくても、印象として自閉症スペクトラム児の犯罪が多いかのように受け止められてしまうのは、いかんともしがたいように思います。
最後の段落の部分、本来は守るための刑法の規定が~のくだりは本当にその通りだと思います。それと、発達障害が反社会行動の直接の原因ではないけれど、リスクファクターの一つにあげられることも事実だと思うので、仕事として、早期発見と保護者の方の子育てのお手伝いをしたいと思っています。
最近読んだ本で『戦前の少年犯罪』というのがあるのですが、それを読むと、昔の方が実は猟奇的な事件もたくさんあったのに、情報量の違いと人権意識の違いから、今のように『障害』と結び付けられなかっただけなのではないだろうかと考えさせられました。
家庭裁判所の調査官をなさっている、藤川洋子さんという方が発達障害と非行の関係を熱心に研究して、著書をだされているのをご存知ですか?『「非行」は語るー家裁調査官の事例ファイル』(新潮選書)は非常に勉強になりましたので、それをお伝えしたくてコメントさせていただきました。
とりとめがなくて申し訳ありません。
障害と犯罪との間に仮に相関があるとした場合、結果としての相関のみを単に否定的に捉え、排除の方向につなげていくような社会の風潮に問題があるのだと思います。なぜその相関が生じたかという機序を理解しようと努力すれば、他の要因を変化させることによって、相関を低める方向に事態を持っていくこともできるはずなのに。そうなれば、個別の被告の罪を軽くしようとする弁護人の活動が、同様の障害を持った人に不利益になるということもないはずだと思います。
『自閉症裁判』の事件に関連した「世界」(2006年5月号)で、次のような指摘があり、共感したのを思い出しました。
「必要なのは、精神障害や発達障害の体験世界を私たちの体験世界との連続線上で私たちがそれを追体験しようとする発想です。かれらは私たちとは切れた異質な存在ではありません。障害ゆえの差異(というかその差異ゆえに『障害』と呼ばれはするのですが)は相対的なものです。相対差に過ぎぬものが、現実の中では深刻なハンディとならざるを得ないとしたら、その背景にあるのはなにか。」
あやぱぱです。こんにちは。
情報が断片的であるうえに、議論すべきポイントが多いので、
コメントとしてまとめきれませんが、、、
簡易精神鑑定であっさり診断がついたのですが、すぐにアスペだってわかる子がいままで本当に未診断だったの?という疑問は捨てきれません。
そらパパさんがおっしゃるように自閉症と犯罪は直接の因果関係にはないと思いますが、
「未診断」であること、周囲の無理解・否定的評価は因果関係があるだろうと考えています。
刑の減軽についても、とても議論の多いテーマですね。最近の流れは刑の減軽よりも適切な矯正教育を与えるべき、ということを聞いた事があります。弁護士さんからも理解と支援を。
犯罪や金銭トラブルなどに巻き込まれる、または濡れ衣を着せられる、障害のある「被害者」は多くいると思います。そのなかで「障害」=「加害者」と思われてしまうのは大変残念でなりません。
最近出版された佐々木正美先生の御本「自閉症児のためのTEACCHハンドブック」の中に、こういった犯罪加害者や非行にはしる発達障害者が日本ではそれなりの割合で存在しているという話をノースカロライナのTEACCH部の方々すると、みんな一応に驚いていた、という記述がありました。ノースカロライナでは、そんな当事者については聞いたことが無い、とのことでした。そこからも、そらパパさんがおっしゃっているように、直接的な因果関係はない、ことがわかります。
報道のされ方にも問題がありますよね。我が家もいつもこんなニュースが流れると、家内とつらい気持ちになってしまいます。
このエントリへの反響の大きさからも、関係者の皆さんがこういった問題について強い関心と憂慮をお持ちだということが改めて分かりました。
はじめさん、
確かに、自閉症スペクトラムの人は犯罪に「巻き込まれる」リスクは非常に高いと思います。
ただ、今回のような話題に関していえば、少なくとも世間の「無関心層」の意見としては「本人が犯罪に巻き込まれるかどうかなんてどうでもいいけど、自分に危害が及ぶリスクは排除したい」ということになってしまうと思うんですね。
だからこそ難しい問題だと思っています。
苫子さん、
コメントありがとうございます。
犯罪報道というのは、そのときどきの社会の価値観を色濃く反映していて、今回の件ももちろん同じだと思います。
ご紹介の本、もし目に留まる機会があれば読んでみたいと思います。
Terpomoさん、
ごぶさたしています。
後半に書かれている、「健常」と「障害」の連続性と、それに対する社会適応度の非連続性の問題は、現象としては確かにそのとおりです。
ただ、実は引用されているような方向の主張をされている方のなかには、「だから障害も(ものすごく乱暴に言えば)『個性』みたいなものだから、社会が受け止めさえすればいいはずだ(だから社会適応を目指して障害児を訓練したりするのは間違っている)」といった意見をお持ちの方もいらっしゃって、私はそれは違うと思っています。
あるところを境にして、そこから下だと「著しく社会不適応」、そこを超えれば「まあまあ社会適応的」というような「閾値」がもしあるとすれば、その閾値の存在を嘆くのではなく、その閾値を目指して「訓練」をするしかない、と思っています。
なぜなら、私たちはどこまでいっても、今ここにいる「社会」のなかでしか生きていくことはできず、その「社会」が規定する枠組みを前提として生きていかなければならないからです。
(以前徹底的に批判しましたが、「自閉症―これまでの見解に異議あり!」の村瀬氏の立場は、他の討論記録なども合わせて読み解くと、どうやらこれに近いようですね。だとすると、やはり「現場の療育当事者」である私たちには、受け入れがたい主張だということになります。)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/20387222.html
あやぱぱさん、
これは難しい問題だと思うんですよね。
「簡易」鑑定がどの程度のものか分からないのですが、ごく短時間の面談と、簡単な書面による生活暦くらいから鑑定しているとすれば、行動ベースでしか診断できない自閉症スペクトラムの診断精度はかなり低くなると思われます。(しかも、一般に精神鑑定は「被告人の利益になるように」鑑定される傾向が強いと思います)
そういった可能性と、逆に、未診断であるために社会で失敗し続けて、二次障害として非行傾向が生じる可能性もありますから、これはまさに「情報不足」だという指摘が正しいですね。
JKLpapaさん、
佐々木先生のTEACCHマニュアルの改訂版は私も読みました。(そのレビューも書こうと思いつつ、「適応」のシリーズ記事とも競合していてなかなか書けていません・・・)
まあ、ノースカロライナで非行に走る自閉症スペクトラムの人が何十年もの間皆無だ、という話は、さすがにちょっとできすぎだ(一般的な「通常の」確率で、そういう子どもはいるでしょう)とは思いましたが・・・。
鈴蘭さん、
名前の問題は、とても難しいですね。
「自閉症」という名前も、殻に閉じこもるような誤解を招くから変えようとか、「障害」という名前も、「害」の字がネガティブだから「障碍」にしようとか、そういった「分かりやすい」議論がある一方で、実は「アスペルガー症候群」というのも「アスペルガー」という少し変わった横文字の(専門用語っぽい)響きが世間の人々の印象に残り、その特殊な響きが、同じく特殊な事案である「凶悪犯罪」と連想記憶として結びつきやすい、という皮肉な状況もあるのではないかと思っています。
「世間一般の人々」が類型的な思考パターンをもってしまうことは、ある意味避けられないことではあります。
私たちも、自閉症以外のさまざまな病気・障害について、完璧に偏見なく正しい知識を持っているか?といわれれば、決してそうではないでしょう。それと同じ意味で、アスペルガー症候群ということばも、残念ながら独り歩きを始めているといわざるを得ない状況になりつつあります。
ですから、私たちが考えなければいけないのは、どうすれば今生まれつつある「世間一般のアスペルガー症候群への類型的な誤解・偏見」そのものを変えていけるだろうか、ということだと思います。
コメントありがとうございます。
私もそう思います。
世間は、「たまにしか目にしないもの」に対して、偏った意見を持ちやすいものです。
それを変えていくためには、正しい知識を適切に、繰り返し発信していかなければならないのだと思います。
今回のニュース記事のように、ただ単に「犯罪傾向とは無関係とされる。」といった表現は、ないよりマシですが、ちょっと違う気もします。
私たち当事者も、いい情報発信のしかたを考えていかなければならないのだと思います。
だんだん、身近な人から、アスペルガーとか広汎性なんとかっていう病気は、犯罪を引き起こすんでしょ?といった、びっくり発言を聞いたり、
ネット上で、発達障碍者に対する排除論が物凄い勢いで巻き起こって、関係のない当事者の方のブログがあらされ、炎上し、それをニュースがまた取り上げて、火に油を注ぎという一連の流れを見て、これは、呑気に受け流している段階ではなくなりつつあると感じました。
〔これをまた、テレビ等が面白、おかしく取り上げたりすると困りますね。〕
個人的にニュースを流した先へ配慮のお願いと、講義をしました。
当事者家族として、私達がやらなければいけない課題も再認識しました。
が、知ってもらう努力や、療育等の努力の前に、間違った情報が定着・固定してしまわないように、それによって当事者が社会に受け入れられる幅がより一層狭くならないよう、この悪循環の元を断つ必要性を感じています。
コメントありがとうございます。
この問題は、考えれば考えるほど、非常に難しい問題だと思います。
なぜなら、世間一般の人が目にするニュースだけを判断材料とするなら、「アスペルガー症候群の子どもは犯罪を犯しやすい」という仮説は、帰納的に支持されてしまうからです。
そのような仮説が支持されてしまう「本当の理由」は、「報道されるくらいの凶悪犯罪のニュースというのは、『すべての子どものすべての活動』という全体の集団と比べると、著しく偏った、わずかなサンプルだけを取り上げたものであるから」なのですが、世間の認識としては、「ニュースというのは世界の動きを正確に切り取ったものである」という前提がありますから、これを前提として論理的に考えると、先ほどの仮説が(頭の中で)支持されてしまうわけです。
しかも、アスペルガー症候群であることが判明すると、弁護側はそれを情状酌量や心神耗弱の材料として使おうとしますから、裁判の主要な争点になることになります。
それによってさらに障害名が繰り返し報道されることになり、それが独り歩きを始める、という悪いサイクルが再生産されてしまいます。
・・・うーん、やっぱり難しい。
頭をしぼってみましたが、この流れを止めるのは相当難しいです。
ただ、少なくとも専門家の方は、マスコミなどに聞かれたときに、正しい情報を語って欲しいと切に願います。
こんなことを書くのは、つい最近出たばかりの本に、そのあたりのデリカシーの不十分さを感じずにはいられない表現を見つけたからです。
「・・・このような子どもは、アスペルガー障碍と言われています。最近、マスコミで犯罪との関連で盛んに取り上げられていますので、耳にしたことがある人も少なくないでしょう。」
(よくわかる自閉症―「関係発達」からのアプローチ 24~25ページ)
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/88946904.html
簡易鑑定を行なったのが検察の側だ、というのは確かにそうですが、ここではアスペルガー症候群だということをわざわざ公表したのが弁護士側で、しかも証拠能力を高めるために正式鑑定を依頼している、というところがポイントになると思っています。
簡易鑑定は、「捜査上、必要な手続きとして」検察が行なったものと思われます。精神科医は、それが検察からのものであれ、弁護士からのものであれ、基本的には中立の立場から鑑定を行ないます。
そこから先の、「弁護士側がそれを強調していくことのインセンティブとして」刑法39条の規定がある、ということを書いているわけです。
トラバした記事のコメント欄にもう一度お返事を書いておきました。そらパパさんのお考えには重大な見落としがあると、僕は思っています。
コメントありがとうございます。
ドードーとらさんが指摘されているような、検察の(必ずしも「刑を科す」という純粋な目的から離れた)内面の動機があるかないかという辺りになってくると、これはもう証明不能な領域に入ってきますから、正しいとか間違っているという議論は難しいなあ、と思います。
ただ私は基本的には、陰謀論めいた議論には与しないという立場です。
検察は、単に適切な罪を科したい。弁護士は、単に罪を軽減したい。そういう単純な目的モデルのなかでいま起こっている現象を説明したいと思っています。
議論の対象も、ただ岡山の事件だけではなく、最近の風潮全体です。
アスペルガー症候群は心神耗弱に該当しない、という定説があるかどうかは私は知りません。ただ、一般論として言えば、精神科医が扱う(ことができる)領域の病気や障害がある場合は、心神耗弱が適用される「可能性」はそうでない場合よりも高まると考える人(弁護士も含めて)は多いのではないかと思っています。
http://manyissue.blog112.fc2.com/blog-entry-168.html#comment786
これ以上は俺からは何も言いません。では。
ご自分のブログのほうで随分攻撃的なコメントを書かれているようですが、議論の前提そのものがあまり成り立っていない気がします。
攻撃的なコメントを書くときは、相手の主張をしっかり読むようにしましょう。
私の先のコメントの陰謀云々というのは、その直前のパラグラフを受けています。
ドードーとらさんは、「検察は、“世間様をお騒がせし世間様にご迷惑をかけた凶悪かつ理解不能な殺人の犯人”について、切断操作したいと考えた。」と書いていますね。私はその点について、「検察の(必ずしも「刑を科す」という純粋な目的から離れた)内面の動機」を想定しているものとして、その部分を「陰謀論」と呼んでいるのです。ドードーとらさんのこの部分の論理が弱いことは、ドードーとらさんが引用されていたもう一つのブログで、afcpさんも同様に指摘していましたね。
攻撃的なコメントを書くときは、相手の意見は正確に引用するようにしましょう。
悪徳検察とか悪徳弁護士なんて私は書いていませんし、サリーとアン課題に至っては勝手に私の意見を作っていらっしゃいます。TEACCHの件については、TEACCHの理念はこうだと言っているだけで、私がそれができていると書いているわけではありません。
攻撃的なコメントを書くときは、相手の議論に対して攻撃することはよくても、相手の人格を攻撃することは厳に慎むべきでしょう。
私自身が書いていない、サリーとアン課題の意見をドードーとらさんが勝手に作って、それを元にドードーとらさんとは見識がない私の娘に対して断定的かつ否定的なことをおっしゃって、最後に「この野郎」で締めるコメントは、当方が真面目に相手をする意義のある議論として成り立っているでしょうか?
そして、最後にもう一つ。
この岡山の事件についての「解釈」が、私とドードーとらさんとで違う、というただそれだけの前提から、どうして「頭が腐っている」とか「妄信」とか「(私の)娘が暴れる」とか「当ブログの読者と子どもがかわいそう」といった幅広くて大胆な結論を導くことができるのか、どうしても分からないです。
別に私はドードーとらさんの「解釈」が間違っているとも、自分の「解釈」が唯一の正解だとも言っていないのです。
解釈は解釈ですから、可能性の世界で並存しうるのです。
私はただ単に、ドードーとらさんの「解釈」に対して、検察が切断操作(こういう同語反復的な用語は好きではないですね。これは私の個人的な好みの問題ですが)をしたいと思った、みたいな前提は置きたくないという意見を言って、発達障害の鑑定が心神耗弱に対してプラスかマイナスかという点については現時点ではどちらの可能性もあると思っている(だから現時点では自分の解釈「も」維持します)という意見を言っているに過ぎません。
しかも、この議論そのものは、「定型発達の人は自閉症スペクトラムの人のことが分からない」という議論とはまったく無関係のものです。
他人のことなんて、誰にも正確になど分かるわけがありません。それは、相手が定型発達かそうでないかなんてまったく無関係です。それを大前提として、他人とのコミュニケーションというのは成り立っているのです。
ドードーとらさんがアスペルガー症候群だとしても、だからといって自閉症スペクトラムの赤の他人のことが、その「赤の他人」と何年も関わりあっている「身近な定型発達の人」よりもよく「分かっている」なんていうのは、幻想だと思います。もちろん、その「身近な定型発達の人」も「分かっちゃない」かもしれませんが、だとしたらそれを自分が「分かっている」というのも、おかしな話ですよね。
他人のことは分からない、ということについて、一つ具体例を出しましょう。
ドードーとらさんのブログのほうのコメントに、「俺もそらパパさんも、「示された条件だけでは答えられない問題」だと口では言う。」というフレーズがあります。私はこんな主張をした記憶はありませんが、恐らくドードーとらさんが、「私はこう考えているのだろう」と思って書かれているのでしょう。
でもこれは正しくないのです。私はサリーとアン課題については、「心の理論」という観点からは「示された条件で答えが一意に導かれる問題だ」と思っています。それは、明示されていない前提条件もざっくり推測して状況判断することが、「心の理論」という概念のなかには必然的に含まれていると考えるからです。(ちなみに、現在は私は「心の理論」仮説そのものをあまり支持していません。この辺りは「一般化障害仮説」のところで書いています。でも、支持していなくても、頭ごなしに否定することはありませんし、議論をすることもできます。)
こんな風に、他人のことはそう簡単には分かるものではありませんから、推測をベースに相手を断罪することはやめたほうが賢明だと思います。
まあ、「これ以上何も言いません」とおっしゃっているので、ここでは上記については「残念だと思う」というところに留めます。ただ、もし今後、真剣に、誰かの意見に対して「戦おう」と考えるのなら、上記のような最低限のマナーは守られることをおすすめします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E5%A9%A6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この事件ではアスペルガー症候群で心神耗弱が認められています。
http://homepage3.nifty.com/afcp/B408387254/C1551211913/E20070307011338/index.html
http://homepage3.nifty.com/afcp/B408387254/C1551211913/E20080323200613/index.html
児童精神科医のafcpさんが取り上げている最近の事件です。
発達障害が情状酌量の参考になっていると思われ、少なくともそれが「ない」状態よりは罪を軽減する方向に働いているケースはあると言えそうですね。
http://homepage3.nifty.com/afcp/B408387254/C1551211913/E20070731225331/index.html
同じくafcpさんのサイト。
この事件では、弁護側が心神耗弱を主張したものの、判決では責任能力が認められています。
この事例から、「広汎性発達障害では心神耗弱は認められにくくなっている」という風にも読み取れますし、一方、少なくともごく最近まで、弁護士によっては「発達障害→心神耗弱」という主張を展開するケースがあるということも読み取れますね。
(ある条文に準拠した主張をする、ということと、実際にその主張が認められる、ということは別です。主張をした結果、その主張は認められなくても、情状酌量として使われる可能性があるなら、弁護士として、その「主張」をすることは有効であるということができるでしょう。)
「何も言わない」という宣言があったので、控えめに返すに留めているのですが、その後でまた向こうのほうで「しかしこういう親なんだよなぁ自閉症児を追い詰めるの」とまで書かれていますから、どう言っていいのやら。
こだわってるポイントがようやく分かってきましたので、その点についてだけ。
「正解でありうる度」にこだわる立場というのは、「相対主義」とは正反対のものですね。
いろいろな考え方について「正解でありうる度」でランキングしようとするのは、むしろ「絶対主義」と呼んだほうがいいと思います。(そもそも、相対主義における「正解」って何なんでしょうか?)
ちなみに、「いろいろな考え方がある」という考え方そのものも、相対主義というよりは寛容主義と呼ばれる考え方です。
寛容主義の立場を取ると言っておきながら、そのすぐ後で「正解でありうる度」の高い低いを語るとすれば、それは自己矛盾だとの批判を受けてもやむを得ないのではないかと思います。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9
そもそも相対主義っていうのは、そう簡単にとれる立場ではないのです。
さらに言うと、今回の件については、価値観の問題ですらなく、単なる不完全情報ゲームの解釈の問題に過ぎません。
今回の解釈の分かれ目は「この事件の担当弁護士は、アスペルガー症候群という簡易鑑定に対してどう考えたか」という一点にあるのでしょう。
ここで「アスペルガー症候群だと責任能力がむしろ高くなる」と判断したのなら、「簡易鑑定を覆そう」となるでしょうが、「責任能力に疑問を呈したり、情状酌量の根拠として少しでも使えるんじゃないか」と考えれば、「簡易鑑定を補強していこう」という方向になるでしょう。こちらが私の考えた可能性です。
そもそも、大部分の「鑑定」結果は、「特に考慮すべき要素はなく、責任能力にも問題なし」になるわけで、それとは違う結果が出ているだけでも、特殊な状態にあるわけです。その「特殊な状態」を「これじゃだめだから鑑定を覆そう」と思うか、「これを弁護にうまく使えないだろうか」と思うか、どちらなのか、ということです。
私は、価値観とかの議論でもないということもあって、「正解でありうる度」が高いとか低いとかいう議論にはあえて首を突っ込みませんでした。そこは「寛容主義」でいこうと思ったわけですが、その結果「頭が腐っている」「こういう親なんだよなぁ自閉症児を追い詰めるの」ということにされてしまった(^^;)のは残念ですね。語らないことは、分からないことと同じではないのです。
※ちなみに「合理的」なんてことばも、「相対主義」の立場をとるならば使うのが極めて難しいことばのはずなのですが・・・。
※このコメント欄だけ見てると一人相撲みたいで少々滑稽ですね(^^;)。そろそろ自重します。
私が心配する必要は無いと思いますが、どうか当HPが今まで通り自閉症児パパを応援する素晴らしい内容で保たれることを願いつつコメントします。
私は自閉7歳児(娘)を持つ父です。当HPは公開当初から大変お世話になっています。いやお世話という言葉では全然足りないのですが、本当に色んな意味で助けて頂いています。非常に専門的で実用的な知識が短時間で学べる貴重な貴重なものです。
私も負けじと色々勉強するきっかけとなったHPでもあります。(全然負けてますが・・・)
世の中には色々やっている人がいるんだと勇気と自分への戒めをもらったHPでもあります。
あえて本話題には触れたくなかったので、こういう感想形式にしました。
あまり熱狂的なそらパパさんの信者のようなコメントをすることは、質を下げることになるような気がしたのですが・・・
[しかしこういう親なんだよなぁ自閉症児を追い詰めるの]
・・・あまりに酷いこの言葉を見てたまらず書き込んでしまいました。
実は長年お世話になっていますがコメントは初です。
次回コメント時は、違う話題で参加できることを願いつつ。
コメントありがとうございます。
サポートのことばはとても励ましになります。
ともあれ今回の件は、いろいろなことを考えるきっかけになりました。
これは誤解を招いてしまうかもしれませんがあえて明記すると、人の心は分からないものだ、というのが、私の考え方の、あるいは「私の心理学」の出発点になっています。そしてこれは、そもそも心なんて実在するんだろうか?という考えにまでつながっていきます。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/18266314.html
そこから、「じゃあ仮に自閉症児の心が分からなくても、それでも療育を前に進めていくにはどうしたらいいのか、『心が分かる』なんていう前提をおかなくても、『誰にでも取り組める』療育とはどんなものだろうか」という問題意識にたって構築しようとしているのが、当ブログでの療育の方向性です。
(こう書いてしまうと過激な感じがしますが、これは要はある種の行動主義ということです。)
ですから結果として、当ブログがやむを得ず「切り捨てて」いることはたくさんあると思います(切り捨てることによって、療育としての科学性、再現性、検証可能性を高めているわけです)。今回は、その「切り捨てていること」の存在について改めて思いを至らせるきっかけになったと考えています。
そうはいっても、当ブログがこれまで目指してきた方向性を変えるということはありません。これは、私が選択した道でもあります。
今後とも変わらぬご支援をいただければと存じます。
改めて、ありがとうございました。
そらパパさんの真摯な対応もドードーとらさんには受け止められない。そらパパさんの精緻かつ論理的な記述を以てしても、ドードーとらさんには通じない・・・
無関係の家族について取り上げるのは非礼であり、露悪の限度を越えています。
ただ、自分の息子が将来そうならないとも限らず、ある程度コミュニケーション力があるといえども、その障害を持つ人によく見られる「唯我独尊傾向」に忸怩たる思いを持っています。
長崎市に立つ遠藤周作の「沈黙の碑」に「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」と刻まれておりますが、まさにそんな気分です。
再度のコメントありがとうございます。
向こうのブログでは結局再度のエントリがあったようで、トラックバックも届いていますが、残念ですが、もう議論としては成り立たなくなっているのでその点についてはコメントは控えます。
当初は緻密で論理的な議論を求められているのかと思い、そのように対応していたのですが、その後のリアクションを見ていると、そうではなくて、「自分の期待する(自閉症の親としては当然だと信じる)反応」を当方がしてくるかどうか、それだけに関心があったのだろうかと感じています。
ある問題について意見が相違したときには、まずはお互いが自分の意見を補強する材料を出して布陣を固め、それぞれが「出してきた材料」の中で議論をするのが健全な議論だと思い、今回もそういう始め方をしたのですが、こちらが何か返すたびに「こちらの期待する言明がない」→「だから人格否定」という反応を繰り返されて、正直翻弄されてしまいました。
先ほどの手順でいうと、「当方の意見」を補強するための材料を出そうとしたとたんに「なぜ自分の意見に対してこういう反応をしないのか」と言われ、その意見と当方の意見のズレを修正するためにまた材料を出そうとすると、さらに激しい口調で反論され・・・ということの繰り返しで、私としては「議論の入り口」に立つ前に議論が発散してしまったという印象です。「お互いに材料を出しあって布陣を固める」というステップさえ踏めれば、相手の意見の評価も含めて、もっと生産的な議論ができたと思っています。
議論というのは、自分の意見が絶対に正しいと信じてしまうともう先に進みません。自分の意見が絶対ではないと思うからこそ、自分の意見の「確からしさ」を高めるためにいろいろと材料を出していこうと思うわけですし、相手が出してくる材料とはどんなものだろうか、という関心もわくわけです。今回、そんな風に、こちらが「材料」を出すたびに、向こうからは人格否定的な言説が返ってきて、それでもしばらくはその言説を相手の「材料」だと思い込んで一生懸命それに対して「材料返し」をしてしまいました。
それを上で「一人相撲」と書いたわけです。
ともあれ、このような展開になってしまった事実そのもの、あるいははじめさんが指摘するような部分も含めて、今回はいろいろ勉強させられ、いろいろ感じるところがありました。(自閉症児の親という、当然ながら決して確固たる自信をもってやっているわけではない責任に対して、それなりに落ち込んで悩んだ部分もありました。)
そういう意味では、今回の件で考えた・感じたことも、今後の療育、ブログにいい意味で反映させていければいいな、と思っています。
改めて、ありがとうございました。
一人称視点で解釈する場合と、
三人称視点で解釈する場合と
では意味が違いますよね。
自閉症者の発言を一人称視点
で解釈するのは無意味なように
思えますよ。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008050800649
2008/05/08-15:15 18歳少年を精神鑑定へ=岡山駅突き落とし殺人-大阪家裁
JR岡山駅で3月、岡山県職員假谷国明さん(38)がホームから突き落とされ死亡した事件で、殺人などの非行事実で家裁送致された大阪府大東市の少年(18)の第1回審判が8日、大阪家裁で開かれ、小島正夫裁判官は少年の精神鑑定を行うことを決めた。
少年は、岡山地検が実施した簡易鑑定で、広汎(こうはん)性発達障害の一種「アスペルガー症候群」と診断されていた。
関係者によると、この日の審判は午前10時すぎから約2時間。少年本人と両親、付添人が出席したほか、假谷さんの母親と姉も出席し、それぞれ意見陳述した。
少年は、捜査段階の調べに「人を殺せば刑務所に行ける」「父に見放されたと思った」などと供述。岡山家裁は、成育歴・生活環境などの調査が必要として大阪家裁に事件移送した。
非行事実によると、少年は3月25日午後11時すぎ、岡山駅構内のホームから假谷さんを両手で突き落とし、入ってきた電車にひかせて殺害した。
結局、正式な鑑定を行なうことに決まったようです。
また、過去の記事を調べていたら、こんな記事も見つけました。(多分もうすぐ消えるので引用しておきます)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804240009.html
発達障害と診断 JR岡山駅突き落とし事件の少年
2008年04月24日
JR岡山駅のホームで岡山県職員の假谷(かりや)国明さん(38)が突き落とされて死亡した事件で、殺人と銃刀法違反の非行事実で家裁送致された大阪府大東市の少年(18)は23日までに、岡山地検の簡易精神鑑定で広汎性発達障害の一つである「アスペルガー症候群」と診断された。
アスペルガー症候群は対人関係をうまく築けず、特定の対象に固執するなどの傾向があるとされる。しかし、犯罪などの反社会的行動に直接結びつくことはない。付添人弁護士は当時の精神状態を解明する必要があるとして、移送先の大阪家裁に本格的な精神鑑定の実施を求めるという。
送致事実によると、少年は3月25日午後11時すぎ、ホームで電車を待っていた假谷さんを背後から線路に突き落とし、假谷さんは電車にはねられて死亡した。
岡山家裁は4月15日、「事件の経緯や少年の成育歴を調査する必要がある」として、少年の居住地を管轄する大阪家裁へ事件を移送した。
この記事は、「付添人弁護士は当時の精神状態を解明する必要があるとして、移送先の大阪家裁に本格的な精神鑑定の実施を求める」とあるところが、他の記事よりも若干「情報量が多い」気がします。
今回の件について、「アブラブログ」さんの5/7のエントリに補足的なコメントを書きました。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-200.html#comment226
よろしければご覧ください。
とはいえ、受容できる度合いが少ないことが自閉症児を追い詰めることに即つながるのかといえば、ここは一段議論が抜けているように思います。
少なくとも、関わり方を工夫する余地はあるのではないでしょうか。
うーん、もう少し考えます。
向こうのブログでの私のコメントを改めて確認していただければ分かると思いますが、私は精神分析的な用語を使うことを避けています。
それは私が心理に関する議論をするときの基本姿勢であって、今回、このエントリでの議論でも、自分なりに禁欲的に守っているつもりの部分でもあります。
ですから、ここでも、父性とか母性といったことばを使うことは控えたいと思います。
一つ言えることは、私は、このブログで模索し続けている自閉症児との関わり方そのものを変える必要は「まったくない」と考えている、ということです。
(頭の中でいろいろ考えることはあっていいと思います。でも、その考えた結果として、やり方を変える必要はないという結論に到達している、ということです。)
こういった、事件が起きた後で障害が取りざたされるのを見る度に思うのが、何故、それまで障害が見逃されたのか言及され無い事です。
仮に、障害が一因とされるならば、検診等で障害を発見できなかった自治体、更には国ににも責任があると思うのです。
事件の原因については、残念ながら分からない事が多く言及できません。
もし、障害があったのならば、どうして発見できなかったのか、どうすれば発見できたのか追及して欲しいです。
残念ながら、される見込みは無さそうですが。
視点の違いを、土俵と表現されていましたが、確かに、これでは、子供の喧嘩になってしまって、そこからは何も産まれません。必要なのは、自分の意見を正しいと言い張って通す事ではなく、土俵を同じにするところからはじめ、どうすればいいかという合理的な方法を議論によって捜しだす事ではないかと、そう感じます。
>「こちらの土俵」で「自閉症児者と向き合う」ということはそもそも矛盾なのか
この言葉、とてもずしりときました。
決して矛盾ではないと信じていますが、時間も技術もいるとは思います。
わが子はアスペルガー症候群で、ひとつ間違えば加害者にも被害者にもなりえる確率が非常に高いと感じております。
「こちらの土俵」で「向き合う」試みも、
続けてきましたが、視野の狭さから来る思い込みや、応用の効かなさなどがあり、この同じ土俵に立ってもらうのが、とても難しいと感じております。試行錯誤した結果、行動療法しかないと感じておりました。
私は、自閉症児による犯罪を防ぐには、ちゃんとした技術を持った専門家の育成や、そういった子供を受け入れしっかりと療育をするようなシステムを構築する事しかないと思っています。
しかし、予算もなく、人材もない、あっても待機がどこも何年待ちの状態です。
そういった現実の中で、そらパパさんのこのブログに救われている親子はたくさんいるのではないかと感じています。
いち自閉症児の母として、自分が出来る事は何か?を常に前向きに考え、実行していくしかないと思っています。
コメントありがとうございます。
ジーニーの奥 さん、
なぜ今まで見逃されていたのか、ということについてはよく分からないですね。もしかすると、過去にもそういった診断がついたことがあったのかもしれませんし、あるいは、エントリで書いたように、非行をおこなった後に鑑定すると、「異常」を見つけやすくなるという可能性もありますし、情報が不足していて語るのが難しいです。
peachさん、
本当に難しい問題だと思います。
いろいろ考えましたが、やはり私はどうしても「念力で療育しましょう」とは言えないのです。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/91355034.html
いま社会にはいろいろな問題が噴出していて、行政も、自閉症児者とその家族にいま以上の支援を行なうことはますます難しくなっています。(それどころか、現状維持さえ覚束ないのが現実でしょう)
そんな中で、親の責任として子どもとどう向き合っていくのか。本当に難しい課題ですが、できることをやるしかないと、私自身、思っています。
このブログを運営していること自体も、そういった領域についてのささやかな試みです。
私は、日本という国は、もう破綻しているのかもしれないとさえ思っています。
ですので、過度に行政に期待していません。
久野先生もおっしゃっていましたが、念力でどうにかなると思っている臨床心理士がスクールカウンセラーになっていたりするのを是正するとか、少ない税金をどう有効に使うか、声をあげていくだけでも変化はあると思っています。
予算を増やすとかは無理かもしれませんが、やり方を工夫して、合理化するというのを提案するのは、やって出来ない事ではないと考えています。
行動療法家の先生方の多くは、商業主義に走らず、ボランティア精神で、いろんなところに熱く、働きかけ続けてくれています。
よい専門家を育てる為に、無料で教えてらっしゃる先生もいます。
また、ネットでの無料講義などをやってくれている先生方もいます。
もちろん、そらパパさんのこのブログも
そういった役目を担ってらっしゃると思っています。
おきてしまった結果について、いつまでもこうしたほうがよかったと、過去を振り返っていても何の解決にもなりません。
原因と、どうすればいいか?を常に考えて諦めず、前に進んで生きたいと思っています。
いつも参考になる記事を、ありがとうございます。
こういう報道が起きる度に本当に診断は正しいのだろうか?と思ってしまいます。
結果は公表されてもどういう診断手順でかは一切わかりませんからね。
診断名だけが大きく目立ってしまうという・・・。
弁護士が材料にしてしまうのは仕方がないと思います。
刑を軽くするのが仕事ですから、でもそれに対してのフォローとか指導があってもいいのに。
例えば診断名をマスコミに公表しないとか。
なかなか難しいでしょうけど。
全く関係ないですが、虐待を受けた、暴力を受けた→PTSD
てのも何だか単純すぎる図式だなーと。
PTSDは戦争下や災害によるものでしかならないと主張する専門家もいます。
私もそう思います。
だいたい世間もマスコミもアスペルガーと診断されればアスペルガーのせいにし、そうでなければゲームや漫画のせいにする。
そんな単純なものじゃないでしょうーに。
今回の件も「あーやっぱり」と書いてる人もいて悲しくなりました。
peachさん、
おっしゃっていることはものすごく本質を突いていると思います。
私は、福祉というのは「リソースの最適化」だと思っています。限りあるヒト・モノ・カネを、どれだけ効率的・効果的に使えるか、それに尽きますね。
日本で、いわゆる「念力」方面の臨床心理学が非常に勢力を持ってしまったのは確かにとても残念なことです。
でも個人的には、「行動療法」をやっている方の一部にも政治的な匂いを感じてしまって、私自身は若干の距離をおきたい気持ちもあります。
役所仕事は小回りがきかないからと、民営化してしまえばいいという考え方もあるのですが、そうするとアメリカのように、福祉がものすごい高コスト化するという危険性があります。アメリカは今後、大不況に見舞われて、とても現在のIEPの水準を維持できないのではないかと私は危惧しています。
ハルさん、
マスコミが、障害や心の病に犯罪の原因を求めるのは、まさに上でpeachさん宛に書いた内容(そして、今回この非常に長くなったコメントでのやり取り)と直接関係がある部分があります。
それが「内面化・心理化」といわれる考え方で、日本で勢力を維持しているユング・フロイトといった「精神分析」とも強いつながりがあります。
つまり、犯罪などの原因を「心」に求めるという考え方ですね。
こういった事件が起こった場合、もっとシンプルに、「なぜその瞬間に犯罪を犯したのか」という直接の原因などを、加害者の当日の行動や、犯罪の瞬間の状況などから語っても構わないわけです。
こういったケースでよく出てくる「心の闇」とかそういうのは、ある種の精神分析的な構成概念であって、実在するかどうかよく分からないものです。
いろいろな行動の原因を、非常に複雑だとされる「心」に求める(心理化・内面化)というのは、最近の私たちにとってとても「当たり前」のことのように感じられますが、実はある種の倫理的な「立場」であって、絶対的なものではないと思っています。
この辺りについては、やや政治色が強いという批判はあるのですが、以下の本なども参考になります。
http://www.amazon.co.jp/dp/4896916158/
「心の専門家」はいらない
>それが「内面化・心理化」といわれる考え方で、日本で勢力を維持しているユング・フロイトといった「精神分析」とも強いつながりがあります。
>つまり、犯罪などの原因を「心」に求めるという考え方ですね。
お前FBI分析官とかフィクションの見すぎだ。
短絡脳だのう。理系にありがちだが。
いやわたしも大学は理系だったがね、量子力学。
お前の
「犯罪などの原因を「心」に求めるという考え方が、精神分析なるものから派生している」
という思考様式が、ハルさんが言っている
「だいたい世間もマスコミもアスペルガーと診断されればアスペルガーのせいにし、そうでなければゲームや漫画のせいにする。」
という態度と同じものにまず気づこうな。
とはいえ精神分析は確かに自閉症の、特に重度のそれの治療には向かない。だから自分の子供のために精神分析ではないアプローチで接近する態度は批判しないよ。むしろ正しいと言える。
だが、精神分析はお前のような「こっち側」にいる定型人たちを非定型人側へと解体する力を持っている。ってのがドゥルーズ=ガタリだな。精神分析批判として知られているがお前のような二次元脳には難しい話かもしれないが一応補足しておく。
以上。
「精神分析」は窓際も窓際だ。大体日本で精神分析家になるなんてすげえ苦労する。ほとんど無理だと言っていい。
なあに少数派ぶってんだよwww
わたしゃよく心理学と精神分析は別物だというが、お前みたいな短絡だいすっきっ子がこんなアホウな言葉吐くからそう言っておこうとなるんだ。自我心理学もユング派もいいところ悪いところがあるし、あんまりこんな区分け自分じゃ信じていないがね。
あっちに言いたいこと書いちゃったからこっち削除してもいいよ。
育ちの悪いババアより。
このやり取りは既に「違う土俵で各自が勝手に一人相撲をしている」状態だと認識しているので、細かい部分についていろいろ書くのはとりあえず自重します。
もし一点だけ「自分の土俵」側から書くとすれば、おっしゃっている二次元脳、というのがどういうものを指しているのかはっきり分かりませんが、それが私がこだわっている「行動主義的立場」を指しているのだとすれば、その私の立場というのは、「二次元脳的でないもの」は、概念としては不要である、という出発点に立ってものごとを考える哲学的立場だということですね。
ですから、そういうものが(構成的にかどうかは知りませんが)「ある」と考え、それを前提にして議論を進めてしまうような立場に対しては、少なくともそれが議論の論点に含まれるときには、反対の立場をとることになります。
(ご指摘のように、それを短絡的に「精神分析的」と書いたのは拙筆だったのかもしれません。でも少なくとも、その「反対の対象」に、今回の議論の対象となっている精神分析的なものは含まれていると、私は考えているわけです。)
向こうにも書いたが、哲学的な、という意味では認知系がそうなるよ。閉じた体系を作るのが目的という意味でね。
「心の闇」ってのが何を指すかしらんが、死の欲動なりそういったものを指して言っているなら、短絡的過ぎるにもほどがある。確かにそれは有限のものを破壊する役割もあるが、倫理に従おうとする、有限を生きようとする超自我の成立条件こそが、死の欲動でもあるからな。
「反対の対象」が何を指しているのかわからんけど、「犯罪」などに象徴される、人間の攻撃性や負的なもの、そういったものに着目しているのは確かに精神分析系で、認知系がすっぽりとなくしている部分ではあろう。
哲学的なものと君は書いているが、そういったところを「アーアーキコエナーイ」して閉じた体系を、砂の城を作りたがるという意味では、認知系あるいは行動主義派が(ドイツイデオロギー的な)哲学っぽさがあると言える、ということ。
あー現代哲学はデリダとか精神分析的なものに着目してるけどね。ギリシャ哲学も意外とそうなんだよな。闇を見たがる。
自分が見たくないものを見ないで(現実的に人間が持つ攻撃性や負性、「そっちの土俵」など)、自己規制して、一つの体系を作りたがるってのはありだ。人間万能じゃないからな。
まあどっちが正しい悪いもないわな、それこそ。閉じたがるか開きたがるか。ジェンダー論的にもまさに「ワンコードな男性性/マルチコードな女性性」に当てはまってなかなか面白い。
重要な点だけ。
向こうでも書いたが、日本の世間に流通する「心理学的なものブーム」ってのはほとんどが実証主義的な君たち認知系あるいは行動主義系の思考様式をなぞっている。そこんところをスルーしてもらっちゃ困るよ。あーいや確かに精神分析にもいろいろあるがね。
ただ、
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だいたい世間もマスコミもアスペルガーと診断されればアスペルガーのせいにし、そうでなければゲームや漫画のせいにする。
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という文脈において批判すべきなのは、お前にとって精神分析でもなく、わたしにとって認知系あるいは行動主義系心理学ではない。現代社会という、結論を先回りしたがる短絡化したがる「単純化装置」だ。
そういうことを言いたかった。
まーさすがに二回目は釣れないなw 釣ってるつもりはないけどね。
煽りテクもっと勉強してきますー。
君は煽らないよ。今回で学んだ。とらさんさすがだったな。向こうでも書いているように二次元の存在そのものはわたしは認めているからな。元々理系だしい。
お邪魔しまんた。
コメントありがとうございます。
確かに昔の記事なのでURLは見れませんが、全文引用しているので内容は分かるようになっています。
よろしくお願いします。
私自身、詳しい事は理解できませんが、わが子を育てていて感じることは…
知能は高いのに、心の発達がとてもゆっくりなので、このアンバランス差が、色々な局面に於いて問題になってくるのだろうな…と想像します。
より良く育てたいですが、現実はなかなか難しいです…汗
わが子を見ていると、特性上の想像力の弱さから、“原因”とからくる“結果”が想像しづらいので、こういった悲しい事件が起きてしまう可能性があるのだと思います。育てられ方も、本人の存在を“肯定的に育てられたのか?”“否定的に育てられたのか?”で、心の成長にも影響があるのかな?と思います。
スミマセン、ただこの事だけ知っていただきたくて…。
コメントありがとうございます。
はい、そういったことはあると思います。
この記事については、コメント欄はもともとの記事を離れていろいろな議論に飛んでしまっているので参考になりませんが、発達障害と触法リスクについては、その後何冊か本が出てきていますね。
ただ、私自身の考えとしては、この記事のころとそう大きくは変わっていません。