私は、娘の療育を開始した当初、この「抱っこ法」の書籍を購入し、実際に試しもしました。が、ブログにも以前書いたとおり、現在では、療育技術として考えた場合、この方法は有効ではないと考えています。
技法としての「抱っこ法」は、簡単に言えば、自閉症の子どもがパニックを起こしたとき、あるいは親に対する接近行動を起こさないときに、とにかく抱っこすることで状況を改善しようという療育法です。逃げようが暴れまわろうがとにかく抱っこを続け、おとなしくなるまで離しません。そうやってしばらく抱っこで拘束し続けると、そのうちおとなしくなってパニックが減少したり、親の愛情を受け入れるようになる、というものです。
(「抱っこ法」でいうところの「抱っこ」が、今日では単なる物理的な「抱きかかえて拘束する」ことを超えて、心の交流や解放をも含んでいるようですが、不勉強のためそこまでは語れません。もちろん、抱っこ法がその精神として掲げている、子どもに対する愛情を否定する気はまったくありません。)
このやりかたは、パニックの減少に効果がある可能性があります。ただし、だからといって望ましいやり方だとは限りません。行動療法的な観点からみると、その成果は望ましくない形で学習されている可能性があります。
つまり、「抱っこ法」は、行動療法でタブー視されている「罰による学習」である可能性が強いということです。抱っこによって拘束されている子どもは嫌がっているわけですから、例えばパニックが原因で抱っこされた場合、これは「パニックに対し罰を与えることで、パニックを起こさないように学習させている(弱化を行なっている)」ことになります。
→青色部分2005/11/17修正。
そして、暴れることをやめると解放されるということで、「暴れるのをやめたら罰を中止する、ということによって、暴れるのをやめることを学習させて(強化して)いる」ことになります。
この結果、「抱っこで拘束されたらすぐにおとなしくなる。抱っこで拘束する人の前ではパニックを起こさない」という行動が学習されると思われます。
この説明が正しいとすると、抱っこは愛情表現どころか、まるっきり「罰」として機能していることになります。抱っこ法の問題の第一は、これは実は虐待なのではないか、という疑問にあります。親の前でおとなしくなったとしても、それは情緒が安定したのではなくて、罰による恐怖を学習しただけかもしれないのです。
第二の問題は、これが罰による学習だとすると、罰が与えられない環境で問題行動が再発する恐れがあることです。つまり、親や教師の目の届かないところ(抱っこができない場面)ではパニックが再発する可能性があるのです。また、子どもに力がついて、抱っこで拘束できなくなったときに、またパニックが(より深刻な形で)再発する可能性も否定できません。
この星のぬくもり 自閉症児のみつめる世界
著:曽根富美子
ぶんか社
高機能自閉症の女性の自伝を元にしたコミック。ちょっとレディコミ的な「お涙ちょうだい」のストーリーは?と思いますが、高機能自閉症の子どもがどんなことに苦労するのか分かり、参考になります。主人公が「抱っこ法」による拘束を受けて、まさに上で説明したような「学習」をしておとなしくなるという一節があります。
そらパパさんの娘さんの受け入れ方、とても共感しました。私自身 もしかしてもしかしてとの淡い期待がどんどん薄れていった時、ふっと 今までの人生はこの為にこの障害を受け入れるためにあったのかと思うくらいに、よし やったろうやないかと覚悟がつきました。 また お邪魔させてください 。では
子どもの療育において、父親の役目というのは小さくないと思います。それは、もちろん子どもに対してという面もありますが、もっと大切なのは、家族全体に対する役目ではないでしょうか。私も、家族全体がいい形で回っていくための潤滑油、あるいは動力源となれるといいな、と思っています。
お互い頑張りましょう。これからもよろしくお願いします。
そらパパさんは認知科学がとても詳しいですね。認知科学から娘さんの療育を考えられているのでブログを読んでとても理解できます。認知科学は脳の働きを情報処理過程という生物科学的なアプローチで理解する学問ですよね。発達障害関係の本で読んだのですが自閉症を情報入力過程の障害とする考え方を知って、私はこの障害を理解できました。この先 どうなるのかな 。やはり親として子供の将来の見通しを持ちたいです。
家族の潤滑油、動力源、確かにそうですね。お父さんの役目は大切ですよね。
そらパパさん こちらこそ、これからも宜しくお願いします
そして、その仮定が正しいとすれば、発達障害ではその情報処理(私は必ずしも「入力」に限定したことではないと思います。)に何らかの問題があるというのも、まあ間違いのないところだろうと思います。
問題は、その「情報処理システム」があくまでも思弁によって構成された架空のものだというところにあり、このレベルに留まっている限り、フロイト・ユングの精神分析の「非科学性」と本質的に何ら変わらないと批判されても反論できない面があります。その問題を克服されるために、認知心理学は大脳生理学と急速に接近し、脳内での化学的な反応と情報処理システムを結びつけようという努力を続けています。
私が大学で学んでいたのも、ちょうどこのあたりの「もがき」の部分だったと、今振り返ると感じます。
ただ私は、大脳生理学までいってしまうと逆に人間の精神活動から離れすぎてしまうといった印象をもっているので、「そらまめ式」においては、思弁に基づく仮想の情報処理システムの上にたって、療育の仕組みを作っています。
ちょっととりとめのない文章になってしまいました。(^^;)
はじめまして。
微力ながら、お力になれたとしたら嬉しく思います。
これからもよろしくお願いします。
身に余る激励の言葉をいただき感謝です。
私の出身の心理学科はバリバリの実験心理学でしたので、いわゆる臨床心理学は科学ではないなど散々な言われようでした。
ただ一方で、ニューロンの活動電位を測定するのが心理学なのか?という疑問も常に感じていましたので、認知心理学の講義を選んでは受講するという大学生活を送っていました。
「行動療法」の復刊リクエストですが、私も1票入れさせていただきました。
先ほど覗いたらもう96票まできていましたから、交渉が開始されるのはもう時間の問題ですね。無事復刊が決まり、先生の手によってさらに素晴らしい改訂版となって世に出ることを楽しみに待っています。
まずは100票到達したこと、私もとても嬉しく思います。
心配なのは、他の復刊リクエストの投票トレンドなどを見ると、交渉開始票数に到達すると投票ペースが大幅に落ちてしまうということです。
ですので、ここから先は、先生の本への期待の高さとは裏腹に、これまでよりもゆっくりとしか票数は伸びてこない可能性が高いのではないかと危惧します。
願わくば、票数の多寡とは無関係に、前向きな交渉が進むことを期待したいと思います。
また、現代はネット社会、Web2.0時代ですので、分厚い単行本を出版社に頭を下げて?出す以外の方法も、もしかするとあるかもしれません。
その辺りまで、復刊ドットコムさんがお手伝いしてくれると有難いですね。
抱っこ法ですね・・・昨日、某大学の先生と話をしていて、思いました。うちの子供は自分から抱きついていくことが多く、そのことの話の時に、抱きつき意味は何だろうと・・・①コミュニケーションの一部? ②愛情を求めて? いずれにしてもそれを違う表現で返してあげることが大切だということですね。たとえばコミュニケーションの一部だったら握手に代えるとか、愛情だったら後ろからそっと支えてあげるとか・・・
いずれにしても、少しずつ変えて、いきたいと思います。時々、訪れます。よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
もちろん、この記事での指摘は、子どもの側から抱っこを求めてくることを否定しているわけではありません。(それどころか、この記事の2つ前の記事を読んでいただければ分かるとおり、この記事は「自分の子どもを抱っこ好きにするにはどうすればいいか?」という取り組みからつながった話題です。)
抱っこ法の問題として指摘していることは、嫌がる子どもを無理やり抱きしめるのは、単なる「拘束」であって、それを「抱っこ」と呼んで肯定的にとらえるのは問題があるんじゃないか、という点だけです。
ご指摘のとおり、子どもが求めてくる抱っこは「愛情を求める」といった要素も含んだ非言語的コミュニケーションだとも言えると思います。抱きつくという行動はサルなんかでも見られるので、ある程度は生得的なものなんでしょうね。
日本の現状とは違うアメリカの現状を聞くことができました。「困っているんだよ」って訴えることがとても大切なんだって言われました。ぜひ,読んでいただきたく思いここにお知らせいたします。
http://d.hatena.ne.jp/kuboyumi/
大変申し訳ないのですが、必ずしも当記事と関係があるとはいえない内容であるように思われます。
自閉症関連とはいえ、単なる他ブログのPRとなってしまっているコメント・トラックバックは、申し訳ありませんが削除させていただきます。このコメント掲載後、数日で削除しますのでご了承ください。
はじめまして。
東田さんの本としては、最近話題になっている「自閉症の僕が跳びはねる理由」は読みました。
私の個人的感想としては、彼の本の中で表現されている複雑な主張が、本当に彼の意思に基づいているのかという点については否定的に思っています。
このあたりの話題については、以下のエントリのコメントで一度議論したことがあります。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/25397988.html
私がいつも強く意識しているのは、これは自閉症に限ったことではないのですが、「安易に外部から観察して『解釈』してはいけない」ということです。
ですから、こういうひたすら「解釈」ばかりが登場する本というのは、まず「外部から観察している誰か」の力を強く感じますし、さらにいえば、「『解釈』して理解したつもりになりたい」という願望が図らずも表に出てきたものだ、と感じずにはいられないのです。
抱っこ法についても同じですね。抱っこしつづけたらおとなしくなったとして、それを「親の愛情が通じた」と「解釈」して喜ぶのは親の自由ではありますが、それが療育効果を正しい方向に導くという意味で正しい理解であるかどうかということを、厳しく吟味する必要があると思うのです。
私自身、自閉症の子どもたちのことを理解したいし、少しでもこの世界で生きやすくなって欲しいと思っていますが、勉強不足、力不足をを痛感する毎日です。子どもたちに適切な支援ができるようになるため、これからもそらパパさんのブログを参考にさせていただきますね。
私は三十路を過ぎてからアスペルガー障害と認定された当事者ですが、抱っこの話は大いに参考になりました。
私は犬猫とのスキンシップは大好きなのですが、父親のスキンシップだけがどうしようもなく生理的に嫌悪感を感じてしまい、生理的に受け付けません。
母親はそうでもないんですが、父親だけが気持ち悪くて、子供の頃は父親のスキンシップがとにかく気持ち悪くて逃げ回っていた恐怖の記憶しか残ってません。ビジュアルな表現をするとホラー映画の人食いアメーバから逃げ回っているような恐怖でしょうか。
そんな父も歳を重ねて最近は祖父のようなボロ雑巾のような体臭が酷くて父親への嫌悪感はますます酷くなってます。
飼ってるオス猫は目に入れても痛くないほど可愛いのに、父親にはどうしても愛情が持てません。父親って何であんなに気持ち悪いんでしょうか。子供の頃に不用意に父親にベタベタされることがなければ、私もここまで父親に生理的嫌悪感を持つことはなかったと思うのですが、今は父親アレルギーといってもいいほどです。父親に触られただけで気持ち悪くて鳥肌が立ってしまうんです。最近は父親と口論になると口より先に手が出るようになってしまいました。
コメントありがとうございました。
この記事でも、抱っこに短絡的に「愛情表現」というレッテルを貼って肯定してしまうのは危険だろうな、ということを書いているつもりです。
コメントありがとうございます。
ご意見としてはお伺いしましたが、このエントリで私が主張していることとは、ずれているように感じました。
抱っこ法の問題は、肉感とか母親か父親かとかいったことではなく、また目に見えない観念的なものでもなく、もっとシンプルに、抱っこ法で主張される「暴れても抱きしめ続けてください」というアドバイスに問題があるのではないか、ということだと考えています。
ちなみに、私は「父親」ですけど、娘が機嫌がいいときは抱きしめたりして遊びますよ。でも、それを「パニックしたときの拘束」には使わない、ということです。
離してと暴れても離さないでいると
(抱きしめるのではなくて抱き止める感じになります。
言い方の問題だと思われなければよいのですが。)
子供の内から過去に辛かった思い出というのが浅い順から出てきて
段々と底にある心の傷が表面化(言語化)されるのを見ると
追い詰めているように思える時があります。
それで、抱っこを止める時と止めない時があります。
その基準は、子供の反応次第です。
もっと泣きたいようなら、止めません。
子供が泣きたいのかどうか
それは私の主観でしかないのですが
主観とは他から隔てられたものであるとは考えられません。
相互作用の内の主観であると思います。
何らかの訴えを感じるから
もう少し泣いてごらんという気持ちが起こるのだと思います。
私の子供は自閉症ではありませんから
パニックというよりはダダをこねた時になります。
あれ買って~というようなダダこねではなくて
世界中の全てがイヤになっているようなとき、
そういう時に抱っこします。
単にお腹が空いたとか痛いとかいう泣き方ではなくて
何と説明すればよいか、
心が送受信しやすい状態になっているように思えます。
とにかくグチらせてくれ~という感じなんです。
ですから、何事もないのに執拗に抱っこしたりはしません。
子供は抱っこしてもらいながら泣いて暴れて
それをただ無表情に拘束し続けるのではなくて
頑張れ、吐き出せと応援しながら
一緒に泣いてすっきりするわけです。
抱っこは子供の動きに合わせます。
羊膜のように。
言葉もかけます。
言葉にならない子供の訴えにヒットすると何故か自分も泣けてきます。
といっても経験しないとわからないことだと思いますし、
自閉症のお子さんではどうなのかということは私にはわかりません。
子供の指に刺さった棘を抜く時に
子供をしっかりと押さえつけませんか?
きっと暴れて逃げようとするでしょう。
痛いから暴れる、
でも取り除かなければ刺さり続けるのです。
抱っこ法の抱っこは、
刺抜きの時の押さえつけなんかよりずっと柔らかいです。
人間関係、時には修羅場もあります。
とことん掴み合って喧嘩することもあるでしょう。
そういう感じでとらえています。
コメントありがとうございます。
抱っこさんの内面でさまざまなドラマが展開していることはよく分かりました。が、現前のお子さんの行動としては、シンプルに、抱っこされて泣いている、ということなのですよね。
私は、その「目に見えるお子さんの行動」を、できるだけ「解釈」せずに見つめ、どうやったら子どもにとってよりよい環境を作り、伸ばしていけるかを考えていきたいと考えています。
項だてされてから、数年が経過したようですね。
抱っこ法は、やっぱり、医療従事者としての私の経験からも、罰として{結果的に}効果があるのでは?解釈を間違えてはいけない(あるいは慎重に)、と思います。
コメントで、どんどんずれた抱っこの話が出てきて、一つ一つ誠実に対応されているそらパパさんに頭が下がります。まず、ネーミングから素人の誤解を誘う、過剰に情緒的な方法なので、そこも危険なのだな、と感じました。ちゃんと方法について項で説明されているのに、読み飛ばされてしまうのですね。
私も、かつて、抱っこを嫌がる娘に手を焼いていました。しかし、自閉症者の人が、抱っこを恐怖と感じることが多いことを知っていたため、感覚過敏に思い至り、無理をしないように、搬送するときは短時間にしました。(ヒグマ抱っこといって、股に手を入れて、緊急事態だけ抱いていました)
そのくせ、気が向くと抱っこしてほしがるのですが、15秒くらいで辛くなるようでした。
面白いことに、他の項で書いてあるような、父親悪役?母親味方?のような環境になったところ、急に赤ちゃん返り?して、まずはおんぶ、続いて肩車を好むようになり、一分くらいは抱っこされるようになり、さらに、抱っこひもなら抱っこできるようになりました。
抱っこ法とは関係ありません、無論。
おそらく、彼女の感覚が統合されてきた時期にも重なったのでしょうが、17キロの娘は重くて大変ながら、3年目にして初めての、幸せな感覚です。
きっと、あの時期抱っこを{こちらの都合で}強いたり、{療育として}行っていたら、この表れはなかったかもしれないなあ、と思っています。
抱っこ法が提唱されてからかなりの期間がたっています。でも、しっかりその副作用を検証されることなく、過ぎていってしまっている気がします。作用を謳うなら、副作用を厳しく検証することが医療には必要なはずなのに。
少なくとも、私は、うちの子には、抱っこ法は必要ないと思うし、抱っこはできなくて寂しく、不都合も多かったけれど、それを互いの愛情の欠損だと解釈する必要はなかったと思います。(障害の予感としては、無視しませんでしたが)第一、大人になってから発展させようがないです…。異性に抱き着いちゃったら、大問題…。
コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、こういったタイプの療育法については、批判をすると、どちらかというと論理的というよりは感情的な反論がかえってくる傾向が強いように思います。
療育を選択する、あるいは実施するときには、実は「愛情」よりも「冷静・客観的な眼」のほうが強く求められるのではないかと思います。
なぜなら、療育は試行錯誤、仮説検証の繰り返しによるカスタマイズの過程そのもので、常に「自分がやっていることはうまくいっていないかもしれない(だとすればやり方を修正しないといけない)」という意識を持ち続けていなければいけないからです。
「これは効くはずだ」「これは正しいはずだ」という感情に支配されてしまうと、結果として療育が不適切なものになってしまうリスクが高まってしまうと思います。
抱っこ法についての私の認識はこのエントリで書いているとおりで、私自身もこの療育法には、(娘への働きかけの方法として)特に強い興味はありません。
それよりも、ABAやTEACCH、絵カードといった、安心して活用でき、試行錯誤ができる療育法がいろいろありますからね。(^^)
やっぱり、地味だけど、コドモにとってのアピール力は強いですね。面白いのは、しまじろうと重なっているところが多いんです。あちらもこういうものを研究しているのか、それとも同じところにたどり着いたのか。ベネッセは、たまひよ名づけという歴史に残る負の財産を作る一方、コドモの反応をよく見ているのだろうな、と思います。
ただし、あっちは、うちの定型を外れている疑いのある子供にとっては、余計な情報が多すぎて、取捨選択が必要です。
エイプリルフールのインチキ療法の作り方(笑)も懐かしいですが、抱っこ法など、悪意がなくて発信されても、その後大勢を外れたものには、やっぱり、感情、思い入れといったフィルターがかかってしまっていたのではないかなあ、と思います。意外と、アメリカ発は気を付けないとです。ABAとか、いーいものもある一方、あれとかアレとか…。情熱的なお国柄を感じます。
ブログお引越しということですね。
引っ越し後の要望です。
1ちょっと紙面が固い(正に冷静なお父さん・指導者向け)で、私は大好きですが、コージーなママさんたちのざざっとひくような音が聞こえる感じがします。あ、そっちは、奥さん担当かな?
2 3歳のうちのちびのため、パソコンを使わないボードゲーム・カードゲームもまたご紹介いただけませんか?
すごろくをして、ソーシャルスキルの向上が凄かったのです。2人分順番を待て、勝ち負けを理解できるようになりました。殿堂入りご本にも、余暇の過ごし方の一例として載っていたのですが、これほどとは思いませんでした。
では、新しいHPをのぞきに行きます。
そらぱぱ電子書籍、買っても読める時間あるかどうかわからないけど、ゴミにならんのが良いですね。私もちびちゃんが小学校入ったくらいになったら、電子書籍で読みたい本がいっぱいあります。・・・7年後くらいか。今おなかにもう一人いるし。
コメントありがとうございます。
「思いっきり支援ツール」は、隠れた大定番本の1つですね。理論と実践が非常に高いレベルで統合されている、素晴らしい本だと思います。
しまじろうは、我が家も一時とっていましたが、確かに「刺さる」部分もある一方で、ちょっと与える情報がごちゃごちゃしすぎているとは思いますね。
ベネッセの方とは全然違う領域で一緒に仕事をしたこともありますが、やはりそれぞれの領域ごとの「ターゲット」の研究はしっかりされているな、と感じることが多かったです。
ブログについては、こちらのブログはうまく「アーカイブ化」して(例えば電子書籍化するなど)、これまでまとめてきた情報にスムーズにアクセスできるようにしていきたいと思っています。
一方で、ガジェットブログでは、最新のツールの「遊びかた」を基本に、ときどきは療育への応用も書いていこう、という感じですね。
電子書籍、いまは私はSonyのReaderの5インチの端末を使っていますが、この小ささがいいです(通勤電車で立っていても安定して読めるぎりぎりサイズ)。
Kindleももうすぐ上陸だという噂ですが、ちょっと端末が大きめなのが心配ですね。
電子書籍はかさばらないので、いろいろなジャンルの本をたくさん詰め込んでおいて、たまたま時間があいたときなどに読めるのが本当にいいです。これを買ってから、しばらく読んでいなかった推理小説とかをまた読むようになりました。
はじめまして。記事は2005年とだいぶ
月日が経過していますが、
コメントさせてください(^^)
そらパパさん、いつも貴重な情報を
本当にありがとうございます。
わたしは我が子が8か月と、まだまだ新米母ちゃんです。
弟が20歳を過ぎてますが発達障害で、
毎日てんやわんやしていますが、弟も私も楽しく自分の人生を楽しんでいます(^^)
わたしはかれこれ6年ほど、抱っこ法を勉強していますが、わたしも抱っこ法が「療育」というと、違うような気がします。また別のジャンルのものだなーと感じています。
仕事では自閉症児さん達ともお仕事させてもらっていたので、現場で抱っこ法も、行っていましたが、やはり「療育」として行うという感じではなかったです。
そらパパさんとは違う方から、抱っこ法の事を言われた事があり、その事と、
わたしが我が子との抱っこを通じて思った事を
ブログに書きました。
もし良かったら覗いてみていただけると、
とっても嬉しいです(^^)
http://ameblo.jp/mamimekkodayo/entry-11253289465.html
コメントありがとうございます。
またブログも拝見させていただきました。
抱っこ法については、いろんな考え方がありますね。
まあ、少なくとも「自閉症を愛着障害であるかのようにとらえ、それを『治す』方法が抱っこ法である」的な考え方は、控えめにいっても「妥当性があるとは到底言いがたい」とは思っています。
その一方で、親子のコミュニケーションツールとして、「抱っこ」を活用する、ということまで否定するものではもちろんありません。
抱っこ中のやりとりにあまり大人の側から「解釈」をたくさんつけるのはちょっと危うい感じもしますが、子どもが嫌がらない範囲でやっていく分にはいいんじゃないかな、と思っています。
さっそくご意見いただき、本当にありがとうございました。やっぱりさすがです(^^)
本当に。そうですよね。
「治す」とは到底言い難いですよね。
わたしもそう思います。
根本的に違うな。と思う所は、
抱っこ法は母の癒しであって、子どもの治療ではないと思います。
母が楽になるという事で、相乗効果で親子の関係が良い方向にいくんではないかと思います。
「解釈」も、ノンバーバルの世界ですからね。
過度な解釈はおっしゃる通り、危険ですよね。
母の癒しのひとつの方法という事で、ここはひとつ暖かく見守ってやってください(^^)
そらパパ様は、有名な方なので、
異国で一人頑張ってる母たちも見てますので・・・
ABAも抱っこも大好き!という母たちも世の中にはいますので。
私もその一人・・・(笑)
貴重なお時間を、私事にお付き合いいただき、
本当にありがとうございました。
これからも楽しみにしております。
今週、読売新聞が、東田氏(20歳になったんですね。)を記事にしてしまっていました。
ノーベル賞森口さん問題もあり、新聞の情報検証能力はその程度、まあ、こういう日も来るか、と思ってはいましたが、少し、心穏やかではないです。
同じく発語が出ないタイプの自閉症の人でも、VOICE4Uの方とか、愛知のこうくんは光が当て続けられなくて、東田氏のような方は…。
お久しぶりです。
コメントありがとうございます。
実は、私は最近は東田さんにはほとんど興味がなく、たまにネットで講演などの噂を聞く程度です。
まあ、マスコミというのは、真実を伝えるのではなくニュースになるネタを伝えるメディアだと思っているので、「ドラマ、ストーリーのある方」を取り上げる、というのは仕方のないことだと思います。
コメントありがとうございます。
うーん、いまどき、そんなひどい公的な療育施設があるんですね。ちょっと信じられないです。
「抱っこ」法という呼び名は、聞こえはいいですが、ご指摘のように、それによって身体拘束を続けるのであれば、それは間違いなく療育ではなく虐待だと言えると思います。
特別支援学校、学級のお子さんをお預かりしていますが、専門知識、経験のあるスタッフがおらず、多くの事業所は素人がやっている世界のように思います。職員はお子さんへの愛情が深く、保護者からもそれなりに評価はいただいているように思いますが、自分たちの仕事が『その子の将来の幸せにどれだけつながっているのか』、おこがましいですが見えない不安がよぎります。
多くの利用者とその親御さんの希望は、
①親が仕事中に預けるところがほしい
②学校、家庭以外の場所や人に慣れさせたい
③様々な経験、できることが増えてほしい
④学校の後、友達と遊びたい
⑤身辺の自立、社会的スキルを身につける
などが多いです。そうすると、我々の仕事は保護者が安心できるように、お子さんをお預かりすることが優先なのですが、将来の就労を見据えて、今のうちに何ができるか、訓練ではなく遊びながら身につけられることは何か知恵を絞っていますが、何しろ素人ばかりですし、子供の成長は待ってくれませんよね。室内では自由に遊ばせていますが、ブロック、おりがみ、お絵かき、ゲーム、ボール遊びなど。友達とおいかけっこする子もいれば、車を並べて眺めている子もいます。会話ができる子、発語がないけど理解できる子、理解できないと思われる子、さまざまです。パニック、他害の子もおり、過去ログを読んで勉強させていただいております。長文で失礼しました。
コメントありがとうございました。
その心理室は、20年以上前で時間が止まっていますね。おそらく、精神分析的な考えをいまだに自閉症の療育に適用しようとするような、時代錯誤の場所であるように思います。
AOIさん、
コメントありがとうございます。
放課後デイサービスは新たな子ども支援の形態として、いまはどんなサービスを提供するか模索の時期だと思います。
個人的には、子どもを預かるサービスなので、療育とか訓練とかに走りすぎるのはどうかな、とも思うのですが、世間のニーズとしてはどうしてもそちらに向かっているようですね。
私はそちらについてはまったくの素人なのでお答えする立場にないと思いますが、いろいろ試して、トラブルが起こるたびに軌道修正をしていくような形でいいのではないかと思います。先ほども書きましたが、まだみんなが「模索」をしている時期だと思います。
母親サークルに抱っこ法創始者の阿部氏が来て、
抱っこ法のセッションをするのを見たことがあります。
逃げようとする子どもの顎を片手で鷲掴みに固定し、
無理やり体を押さえつける様子を見て、
「される方にとっては暴力以外の何物でもない」と
直観的に拒否感を持ち、辛くなったのを思い出しました。
恐怖を利用した人間コントロール法ではないかとのご意見にとても共感しました。
コメントありがとうございます。
そうですね、私の印象では、さすがにこの「抱っこ法」はあまりに古くなって最近は消え去ったのではないかと感じているのですが、少し装いを換えて「親学」的なところから復活しかねないことを警戒しています。
「抱っこ」という、一見ポジティブに見える名前のついた働きかけですが、中身をよくよく吟味してみると、下手をすると虐待に近いことになってしまっているのではないか、というのは、ずっと危惧しているところです。
警戒なさるのもさもありなんと思いました。
コメントありがとうございます。
親学も、親学そのものというよりは、二分の一成人式とか親守歌とか、もっとおおきな「日本会議的なもの」として勢力を広げている印象ですね。
いずれにしても不気味だと思います。