発達障害の子どもたち
著:杉山 登志郎
講談社現代新書
第1章 発達障害は治るのか
第2章 「生まれつき」か「環境」か
第3章 精神遅滞と境界知能
第4章 自閉症という文化
第5章 アスペルガー問題
第6章 ADHDと学習障害
第7章 子ども虐待という発達障害
第8章 発達障害の早期療育
第9章 どのクラスで学ぶか―特別支援教育を考える
第10章 薬は必要か
冒頭のフレーズは、本書を読んだときの私の偽らざる印象です。
発達障害の本でそういった印象を持つことはあまり適切ではないのかもしれませんが、意見の対立が続いているような発達障害をめぐる難しい諸問題に対して、著者があえてあいまいな表現に逃げず、自信をもって断定的な結論を述べているのを読んでいると、本当にこういう気持ちになってくるのです。
本書は冒頭からアクセル全開です。
・発達障害は一生治らないし、治療方法はない
・発達障害児も普通の教育を受けるほうが幸福であり、また発達にも良い影響がある
・通常学級から特殊学級(特別支援学級)に変わることはできるが、その逆はできない
・養護学校(特別支援学校)に一度入れば、通常学校には戻れない
・通常学級の中で周りの子どもたちから助けられながら生活をすることは、本人にも良い影響がある
・発達障害児が不登校になったときは一般の不登校と同じに扱い登校刺激はしないほうが良い
・養護学校卒業というキャリアは、就労に際しては著しく不利に働く
・通常の高校や大学に進学ができれば成人後の社会生活はより良好になる
(中略)
・発達障害は病気だから、医療機関に行かないと治療はできない
・病院に行き、言語療法、作業療法などを受けることは発達を非常に促進する
・なるべく早く集団に入れて普通の子どもに接するほうがよく発達する
・偏食で死ぬ人はいないから偏食は特に矯正をしなくて良い
・幼児期から子どもの自主性を重んじることが子どもの発達をより促進する
これらはすべて、私から見たときに誤った見解か、あるいは条件付きでのみ正しい見解であって一般的にはとても正しいとはいえない。
おのおのについて、なぜこれが誤っているのか、と驚かれたとしたら、(中略)この本はあなたにとって読む価値のある本である。(初版6~7ページ)
そしてこの後は実際に、発達障害についてのさまざまな領域について幅広く解説しながら、ポイントポイントで上記にあげたようなさまざまな「議論のある難しい問題」について、一刀両断で明快な結論と、なぜそうであるのかの説明がなされます。
この部分が本書のいちばん面白いところなので、ぜひ実際に本書を読んでいただいて確認していただきたいのですが、どのくらい「切れ味」が鋭いのかを、1つだけ例をとって示しておきたいと思います。
ここでしばしば誤解されていると感じられる、冒頭に掲げた疑問を一つ取り上げておこう。
・通常学級の中で周りの子どもたちから助けられながら生活をすることは、本人にも良い影響がある
これは、良い影響があるのは、実は本人以外のクラスの同級生である。つまり人間にはさまざまな個性があるということを早くから知ることは、発達の凹凸に対して偏見を持たない大人に成長する上でも重要であり、お世話をする側の子には大きなプラスがある。しかし発達障害の子ども自身にとってなんらメリットはない。下手をすると、自尊感情の低下や、周囲から助けられることを当然とする誤解をもたらすおそれすらある。(初版200~201ページ)
・・・一言、すごい。
ここまで言い切れるのはよほどの確信があってのことなのでしょう。
もちろん、断定的で言葉の切れ味がよくても、それが単なる思い込みに基づくものであれば意味がありませんが、やはりそこは高機能自閉症・アスペルガー症候群について多数の著書をもつ杉山先生、どの「断定」をとってみても、それぞれ納得できる説明がつけられており、いちいちうなづきながら読むことができます。
(もちろん、だからといって、ここに書かれているのと反対の意見がありえない、ということではないとは思います。)
・・・さて、上記で紹介したのは、本書で特に印象的な部分ではあるのですが、全体をとおしてみると、本書は手堅く発達障害全般を網羅した、発達障害についての入門書と呼べる内容になっています。
自閉症に関していえば、もともと杉山先生が高機能自閉症に明るい方だということもあって、多少そちらに話題の中心が置かれている感は否めませんが、それでも我が家のような知能に遅れのある自閉症児の親にとっても有意義な内容がたくさん盛り込まれています。
たとえば、第8章の「発達障害の早期療育」は、短い章ですが、療育についてのヒントにあふれていると思いました。
特に、「早期療育でまっさきに取り組むべきもっとも重要な領域は『健康な生活』であり、そのためには規則正しい生活を確立することである」というくだりには、目からウロコが落ちる思いがしました。こういう、指摘されれば当たり前に思えることほど、実は気づきにくいことですよね。
一方で、本書には、「入門書」の内容としてはかなり「刺激的」というか、「前衛的」と言っていい内容も多く含まれています。
具体的にあげれば、
・非行などの問題は、環境よりも遺伝の影響の方がはるかに大きい
・子ども虐待とは、一種の発達障害である。
子どもを虐待すると、発達障害的な症候群を生じる。
・脳の具体的部位の損傷・変成と発達障害などの症状との間に対応関係が見られる
といった辺りは、新書版の一般向け書籍とは思えないほど踏み込んだ内容になっていると感じます。(特に、虐待が発達障害様症状をもたらす、というくだりは、正確に読めばそう書いていないことは分かるのですが、昔の忌まわしい「親の愛情不足が自閉症になる」という主張を若干彷彿とさせる、かなり衝撃的な内容だと思います。著者はこのテーマだけで一冊本を書いたりしていることもあって、本書でもこの部分にはかなり力が入っています。)
ともあれ、本書は間違いなく「読む価値のある」本です。
冒頭の疑問の数々に、「ああ、確かにこれは全部あまり正しくないな」とすぐに納得された方でも、恐らく読めばさまざまな得るものがあるのではないかと思います。
少なくとも私は、自閉症に関する本をこんなにスリリングな気持ちで読み進めたことはあまり記憶にありません。
「入門書」ではあるのですが、自閉症や発達障害について、すでに何冊かの本を読んだことのある人にこそ、むしろおすすめしたいと思います。
※その他のブックレビューはこちら。
先に紹介した一酸化窒素の調節が、発生分化にも関係する基本回路の一部、この基本回路が発生分化のシグナルが自然免疫のところにあるように、免疫、生殖、痛覚、記憶、闘争反応など種の保存と個の生存との大事なところでアレンジされて使われ、そこの状態によって発生分化にも関係する物質をコントロールし、脳を再構成していく。
発生分化では濃度依存的に形成される器官がきまるので、抑制性の神経もある閾値で形成されるので、状態がどちらに振れても易刺激性を持つことになり、厳しい環境でサバイバルするには向いている。
たぶん、発達障害も虐待も、同じ土台の問題だと。
しかし、私は一方で、この本の内容が学校関係者及び一部教育人権派(統合教育、インクルージョン、メインストリームなど)には、受け入れられないと思っています。学校というシステムは、日本の歴史で言えば、100年以上前から存在するドイツ的官僚システムを採用した制度であり、そのトップは、自己が受けた教育内容が正しいものと信じ、新しい考えを柔軟に取り入れるということは、経験上ありえないからです。
今までどれだけ養護学校の教員と衝突したことか、いくら言っても納得しません。最終的には、教員自身が、自分としてはそう思っているのだが、トップが、その方針を採用しないのでと言われたことが思い出されます。
20年以上前ですが、保護者が養護学校どころか特殊学級も拒否したことがあります。その子は普通学級に入って3ヶ月もしないうちに、全頭型円形脱毛症になり、ようやく保護者も別な学校に行くことを納得しました。その間の子どもの苦しみを思うと今でも憤りを覚えます。何故、教師が誠心誠意、保護者を説得しないのか、うるさい保護者は放っておけという態度なのでしょう。
それにしても、子どものためという言葉が、むなしく思えないような制度が真に働くのはいつのことでしょうか。
本書は、他の自閉症や発達障害の本とは明らかに一線を画していて、「入門書」という枠に収まりきらない、広がりというか暴れっぷりというか、そういったものがあって、いろいろな自閉症・発達障害の本を読んだ方にこそその魅力が伝わる本なんじゃないかな、と思います。
クニさんのように、自らお持ちの仮説に寄せて読むこともできるでしょうし、ウルトラマンの父さんのように、いまの社会への直言として読むこともできると思います。
(ちなみに、私は「虐待」に関する本書の説への態度は保留させていただきたいと思っています。可能性としては興味深いと思いますが、あまりに斬新で、判断がつきません。また、ウルトラマンの父さんのおっしゃる、「教育現場への通じなさ」は、まだうちの娘が幼稚園児だからだと思いますが、幸いにもまだ経験したことがないので、実感としてはまだ分からないですね・・・)
現場を熟知している医師の思いのたけをぶちまけている感じがしました。
仕事で小学校の先生の授業を見る機会がありますが、同じ単元でも教え方は先生により異なり、正直なところ巧拙がハッキリあります。指導要領に従っているだろうと思われる健常児の授業でもそうなのだから、現場での裁量部分が大きいと思われる特殊学級や養護学校では、個々の先生の力量によりかなりの差が出てくるだろうことは容易に推測できます。
この世界に足を踏み入れてみて、医療機関と児童相談所と学校(療育機関)と親の4者の連携がもっとうまく行けば良いのに、と思うことが多いです。
また、それぞれにやってもらいたいことがあり、医者はもっと継続して個々の子どもがどうなるのかに興味を持ってもらいたい、児童相談所は、親に対して指導してもらいたい、療育機関は優秀な指導者をもっと多く抱えて待機者を減らしてもらいたい、親は変なプライドを捨てて子どもに本当に必要なものが何かを考え、ためらうことなく実行してもらいたい、と思っています。
私は、本書の「自閉症者は認知の特異性があるにもかかわらず、感情の持ち方は健常者と同じである。」というところで、大きくうなずいていました。「基本的な感情が同一である。」という認識をもって療育・教育にたずさわることは大変重要であると思いました。
また、教育現場での課題もストレートに書かれていたと思います。多くの人に読んで欲しい本ですね。
コメントありがとうございます。
妻のブログも含めて、本書はとても反響が大きいですね。(そもそも、妻が自分から本を読みたいと言うことも、あまりないことです(笑))
いろいろな機関や学校の担当者の間にスキルのムラがあることや、行政機関ならではの「横のつながりのまずさ」は、ある程度仕方のないことだと思っています。
逆に、そういったことをうまくあしらえるような(かといってクレーマーみたいな存在でもない)「スーパーペアレント」になれればいいかな、くらいに思っています。
また、BOGEYさんが指摘されたポイントは、私もまさにレビュー記事で取り上げようかどうか迷ったところなのです。
自閉症者のことを「異星人」などと呼ぶことが、当の自閉症者からさえもあることがあるのですが、私はそれは違う、と思っています。
「文化」は違うかもしれない(だから「異邦人」ではあるかもしれません)が、人間として違うわけはないし、だから突き詰めていけば、人間として(異星人としてではなく)理解しあえる、ということが、自閉症の人と向き合う原点にあってほしいと思っています。
杉山先生はその点も、こんな短い新書の中に盛り込んでいるわけで、やはりそういう意味でもすごい本だなあ、と感じています。
私もそらまめママさんとこちらと友人のオススメによって、この本を手に取りました。
まだ、読みかけの状態ですが。(汗)
ただ、『幸せって何だろう?』『普通の暮らしって何だろう?』とは考えました。
読み終わったら、感想は自ブログで書き込みたいと思います。
ご紹介、ありがとうございました。
あー、虐待されてる子も一風変わった感じになりますしね。発達障害的なユニークさがある時って、まず虐待がないかのスクリーニングが必要で、それが無いならピュアな発達障害の方向で検査を進めていけばいいです。
しかし虐待がある場合はややこしくて、もし虐待の無い状態であればその子は定型発達的な言動行動思考様式なのか、発達障害があるのか、全然わからないです。
でも虐待を受けることで発達障害になるってのはあり得ないことだと思うけどね。発達障害だから虐待を受ける事はあっても。
共通項があるとすれば、虐待では環境的に、発達障害では生得的に、環境と本人の疎通性の悪さ(つまり何が褒められ、何が罰せられるか判らない状態)が継続していて、そこから同様に見える症状を作り出してるんだろうと思いますよ。
「姐さん」さん、
なるほど、この本がそういうことを考えるきっかけになったりするんですね。
杉山先生の本、この本をきっかけに他の本も読んだりしているのですが、はっきりした物言いで痛快な一方で、ちょっと筆が滑っているかな?と思える表現もときどき登場しますね。
gestaltgeseltzさん、
うーん、この本で杉山先生が書いていることとは違う議論になっている気がします。
発達障害が虐待を呼びやすいのはある意味「当然」として、そうではない逆方向、虐待によって幼少期の脳の発達に悪い影響が出て行動上の問題を生じる「発達」障害がありうるようだ、というのがこの本の主張ですので。
(つまり、この本では、「発達障害」という言葉の定義から始まっているのです。)
発達障害が虐待によって作られる可能性が無いかと言われると、何とも言えないですね。あるかと言われても、何とも言えないですが。
幼少期の虐待によって脳に不可逆的な機能不全が起こるかと言われると、それは当然起こるとして、それを発達障害と呼ぶのかどうかは・・・。
虐待で生じるってのは、もともとbroader autistic phenotypeみたいなものだったのだよと言うこともできるだろうし。
とりあえず面白そうなので、読んでみます。
「発達障害」という概念をどうとらえるかということなのだと思います。
杉山先生の主張は、脳に先天的な器質障害があって起こる「発達障害」と、虐待によって脳の発達が阻害されて起こる行動上の問題は同じ枠組みで理解できる(だから発達障害と呼んでいい)ということだと理解しています。
ntkさん、
本書の主張は、面白いし、明確だし、本質を突いているしで非常に魅力的ですが、確かに踏み込みすぎだと感じる部分も少なくないですね。
だからこそ、自閉症の入門書としてではなく、自閉症について一通りの理解をもっている人が知識を深めるために読む本としておすすめできるのではないかと思っています。
それとこの場を借りてご報告させていただきます。
普段はロムばかりで、書き込みをした事はないと思いますが、今回はお礼をかねて書き込ませていただきますね。就学で、すべてを捨てて普通級に通わせてコミュニケーションを伸ばす事にかけるか、支援学級でのんびりやらせるかで非常に煩悶いたしました。そらパパさんのブログに出会ってスモールステップの大切さを再認識して支援学級を選びました。結果、一年を過ごしてコミュニケーションの面も含め飛躍的に伸びました。何より言語でコミュニケーションが成り立つようになり言葉のキャッチボールも可能になりました。普通級に入っていたら、平仮名の読み書きを習得するのも怪しかったと思います。本当にありがとうございました。これからもがんばってください。
この本のレビューにはとても多くの反響があり、かつ、その感想も、多くの方で共通している(面白くて、ちょっと過激)ことを、とても興味深く思っています。
また、お子さんのお話、猫のしっぽさんがじっくり検討して選択した結果が吉と出て本当に良かったと思います。
コメントで書かれているような就学先の選び方の話題は、まさにこの本の中でも何度も繰り返し登場します。実際、とても難しい問題ですよね。
これからもよろしくお願いします!
ついでにこれも読みました。
良い本だとは思います。
多分、当事者の家族以外には。
当事者の家族でも、もう深い受容が済んでいて
動じない人には良いと思う。
何が当事者家族向きでないのかというと、
杉山先生、「自立」を前面に出し過ぎているように感じる。
いいのですけどね、自立、うん、大切だと思いますよ。
でも、定型児/健常児の親って、子供が小さい頃から
「自立」を目標にしますかしら。
皆さん、小学生の頃の夢は「自立」でした?
子供が生まれた、可愛いなあ、名前を付けよう、
さてこの子は大きくなったら「自立」できるかな?
とか、考えます?
悪意がないことは分かるのですが、多分、軽度発達
障害児の親御さん達とは、ちと温度差があるでしょうね。
もうちょっとだけ夢を見ながら、でも両天秤をかけて、
やることはやる、でも夢も見続けて。
そんなスタンスではダメでしょうか、杉山先生。
あ、でも、このセンセ、ほんと良い人だと思います。
信念として、障害児者の安定が絶対に優先なのですね。
なんかお礼が言いたくなっちゃうぐらい、
その真摯さに頭が下がります。
杉山氏はどちらかというと、重い子よりも軽度、アスペの子についての専門家だと思います。
(実際、彼がこれまで出している著書をみても、その傾向がはっきり伺えます。)
ですから、バッティ父さんが感じたような意味での杉山氏のスタンスは、障害が「軽い」という外から見た「解釈」への警鐘を鳴らしているのではないか、と思います。
自立、いいんじゃないですか?
私の高校~大学時代の大きな目的意識は「経済的自立」でした。
大学3年の後半になり、大学院への進学か国家公務員か民間かという選択を迫られたときに、私は「最も早く経済的に自立できる道を選びたい」と考えて、民間、しかも金融機関を選びました。
同じような意味において、もし私の子どもが健常だったら、私は、経済的、精神的に親から自立した子どもに早くなってほしいと考えていたんじゃないかな、と思っています。
たとい軽くとも自立は困難であったから、自立に向けて
必要なスキルを重ねよという忠言は正論だと思います。
でも、健常者/定型児って、そんなに「自立」してます?
現代社会において、親から経済的援助/人的援助を受けて
いない成人ってどの程度の比率なのでしょう。 「核家族」
なる言葉が発生した当時、「核家族」ではない「ノーマルな
家族」において戸主と同居していた家族達を、現代の尺度で
「自立」と呼べたのでしょうか。 高齢になって子供の扶養
に入るのは、自立できてない人?
まずはセルフエスティームを守り、得意な事は伸ばし、
本人の中長期のニーズに照らして苦手な部分をサポートする。
クオリティの高いルーチンワーカーを目指すのか、幸福な
主婦を目指すのか、ちょっと変わり者な研究者を目指すのか、
とりあえず一回躓くまではクリエイタ/アーティストを目指
してみるのか、そんなことを小学生やら幼児の親に「今から
考えておかないと後で困るのは本人だよ?」などと言う必要を、
私は感じません。
でも、支援者や専門家、教師は考えた方がいいと思う。
だもんで、この本自体はまったくもって良い本です。
コメントありがとうございます。
R5さんの趣旨は、健常の子どもの「目標」が「自立」よりももっと「ささやかなこと」だ、ということなのですね。私は、もっと「上」だとおっしゃっていたのだと勘違いしていました。
そういうことでいうなら、障害をもった子ども=目標は「自立」というのは、非常に単純化された目標設定だと思います。
でも、多分杉山先生は、あえてそういう単純化をやっているんじゃないか、と私は思うのです。
そしてそれは、おそらく杉山先生的には、「健常圏の子ども」までを含めた視点でおっしゃっていることなんじゃないかな、と思ったりします。
確かに、「幸せに…」みたいな目標は客観的評価/数値化が難しいですね。
コメント欄を掲示板のように使ってしまっていて、だいぶ心苦しくなってきましたので、堀田氏の方の話もこちらに合流させます。(お許しを…。)
「知足」はストア哲学(エピクテトス)と老子、釈迦がそれぞれ独自に辿り着いたとされる思想で、要は「満足を知れ」と。 宗教色はかなり薄いです。 「足る」なる概念は、外から行えば「測る」行為になり、内から行えばその恣意性への気付きとなります。
障害の重さで療育の「面白さ」のニュアンスが変わる旨は同意。 重さだけでなく療育者のスタンス/環境によっても万様でしょう。 そらパパ氏の慎重な態度は尊重致します。
そらパパ氏に相手をして頂くことで自身の考えが徐々に整理されているのですが、どうやら私は当事者の幸福のためには、療育者が療育を「面白い」と考えられるように、ツールや知識を整えることが重要なのだと考える人間のようです。
「自立」を目指す療育はですね、私から見ると「面白く」ないのですよ。 「別に彼/彼女自身が幸せになってくれればそれでいい」というスタンスで挑む療育は自由度が高くて楽しい。
「上」か「ささやか」かと問われれば微妙です。 普通に考えれば「幸せ」になるのは「自立」するよりも難しいと思う。 自立していても幸福でない人なんてほぼデフォルトですから。 自立はしていなくても「今は」幸福な人もたくさんいる。 自立できていないが故に不幸ってのは、自立しないと不幸になるというシステムに問題がある。 自立させないと親が安心して死ねない…って、明らかに異常な要求ですよ。
失敗体験の回避/セルフエスティーム/二次障害/セーフティーネット辺りは、セットで柔軟に捉えるべき問題であって、目標を単純化することで療育者のテンション/モチベーションが下がり、メンタルヘルスにまで影響を与える可能性も顧慮すべきでありましょう。 故に私はこの本を「お母さん」には薦められない。 繰り返しますが、療育者/支援者/専門家/教師がこの1冊として読む本としては抜けや偏りの少ない素晴らしい本だと思います。
目標の単純化ということであれば、「私よりも幸福に/お母さんお父さんよりも幸福に」というのはどうでしょうか。 私は息子に出会うという僥倖を手に入れてしまいましたから、正直言って彼がこれを越えられるとは思えない。 それでも子供というのはいつでも親の予想を裏切るものらしいので、もしかしたら彼なりに「父ちゃん!こんなスゴいの見たことある?!」ってな瞬間を報告してくれる日が来るのかもしれません。 まー、負ける気はせんが。
はじめまして。アスペルガー当事者でPDD児の母です。
>療育者が療育を「面白い」と考えられるように、ツールや知識を整えることが重要
まったく同感です。
しかし、療育を面白くすることと、「自立」を目指すことは、私の中では矛盾しません。
うちのPDD児(小5)は、言葉は話すしLDもなく普通級+通級で過ごしている”軽度”な障害ですが、一方的な話し方や厳格過ぎるマイ・ルール(認知の穴、偏り、思い込み)などで社会性の点ではかなり遅れがあります。このままでは本人が将来苦労するのは明白です。私自身も誤認知や偏りから、特に思春期以降、過適応・不適応を起こし、二次障害の抑鬱や気分障害に苦しみましたから。
「自立」とは、まず自分自身の権利を守り、ある程度自分に関連したことを自分の意志で選択できること、が大前提であり、究極ではないでしょうか。
そうすると自閉系の場合、本人の意思決定に必要な情報を過不足なく認知でき、利用できるように、(本人の認知の穴や偏りを”矯正”して普通にするというより)本人らしい情報取得・利用のスキルを習得できるよう、早いうちからサポートする必要があると思います。
(余談ですが定型発達児でも同様で、情報や知識があれば防げたかもしれない未成年の事件や人権侵害などを見るたび、痛ましい思いがします。)
本人の認知の穴や偏りが何か療育者が知り、どういうアプローチをとれば本人が必要な情報を利用できるか試行錯誤する、といった視点から見ると、療育の各手法・ツールは当てっこゲームみたいで楽しいものです。
「自立」は遠い目標ですが、それを頭の片隅に置いて、スモールステップで療育を楽しむことはいくらでもできるように思います。
コメントありがとうございます。
ちょっと禅問答的なやりとりになっていますし、めえめえさんからも貴重なコメントがいただけましたので、特に私から追加で書くことはありません。
いずれにしても、療育というのは作業でも苦行でもなく、子どもにも家族にも、両方にとってプラスの影響のあるポジティブなものであればいいと思いますね。(^^)
そらパパ様、
ありがとうございました。
考えを整理することができました。
めえめえ様、
「自分自身の権利を守り自分に関連したことを自分の意志で選択できる」「本人の意思決定に必要な情報を過不足なく認知・利用できる」 というのは確かに、最終的に身に付いているとありがたい。
目標として「自立」が掲げられることに違和感を感じたのは、「最善を尽くした結果として伸びたとこまででえーやん」という発想と、「軽度発達障害者への就学就労指導に際して堅い仕事に強いバイアスを掛けるのってどうなんだろ」 というもやもやに起因していたようです。
杉山氏の忠言が経験に基づいた善意であることは分かるのですけども。 就労における失敗体験は避けたいが、信じていた人に自分の希望をやんわり否定されるのも嫌なものだと思う。 本人の希望のエッセンスを読み取り、要素として巧妙に残しつつも中長期のメリットを織り込んで、ソフトランディングを狙うべきなのではなかろか、と現時点では考えます。
療育のゴールなんて療育者が設定するものではなく、当事者がその時々に見上げるゴールを評価し、適切に「微」調整してサポートする、その程度でいいのではなかろうか。