2008年06月23日

「適応」という視点(12)

このシリーズ記事の最後の話題として、療育的働きかけを考えるにあたって私たちが見逃しがちなもう1点について考えたいと思います。適応度マップのイメージ図に戻りましょう。

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ここまで、この図を使って「山を登る」などと簡単に説明してきましたが、実は、ここにも隠された前提(つまり、私たちがつい当たり前だと考えてしまって、実のところ検証せずに使ってしまっている「仮説」)があります。

それは、ここで「山を登り」、「山の頂上を目指す」ためには、さまざまな行動を自発して試行錯誤できるということだけではなく、その行動パターンの変更によって、自分がより高い場所に移動したのか、それとも低い場所に移動してしまったのかに気づくことができる、つまり「環境からのフィードバック」を適切に処理する能力が必要だ、ということです。

このシリーズ記事の少し前で、健常児が「部分最適」な行動にとどまってしまうことなく、「全体最適」な行動に自然に移行できるのはなぜだろうか、という疑問を提示しましたが、この問いに対する1つの有力な仮説として、この「行動の結果としてのフィードバックを処理する能力」が、健常児のほうが高いからではないか、ということが考えられます。

行動の結果返ってくる環境からのさまざまなフィードバックを多角的かつ繊細に処理することができる能力があれば、その能力を前提として、現在の行動パターンから大きく外れた行動を試してみることができるようになります。これは、このイメージ図でいえば、試行錯誤できる行動パターンの「横幅」が広くとれるということを意味していますし、「山登り」のたとえで言うならば、「より高い場所」を探すために、現在地からかなり遠いところまで探索して、また戻ってくることができるということになります。

このような能力が高ければ、適応度カーブに部分最適状態が形成され、その小さな「丘」に入り込んでしまったとしても、その周囲の「谷」を乗り越えてもっと高い場所(より適応度の高い行動)を発見してそちらに移行することができるでしょう。
そのような機動的な探索行動を自在に繰り返すことができれば、どんな課題に対応する行動も、最終的には「全体最適」にたどり着くことができるはずです。これが、いわゆる「健常児」の姿なのだと思われます。

これに対して、自閉症児は自分の行動の結果としての環境からのフィードバックを適切に処理する能力に障害があると考えられます。(この辺りについての私の詳細な分析は、過去のシリーズ記事「一般化障害仮説」や「環境知覚障害仮説」もあわせてご覧ください)

その結果、現状と比較してあまり大きな「フィードバックの変化」が起こってしまうとそれをうまく知覚して処理できないために、行動パターンの試行錯誤のための「変化の幅」を小さく設定せざるを得なくなります。イメージ図でいえば、試行錯誤できる行動パターンの「横幅」が小さくなってしまうということになります(そして、このように探索行動のパターンや幅が変化すること、それ自体も、個体の「からだ」の制約条件にもとづいた「適応」の結果であることに注目してください!)。
山登りのたとえを繰り返すならば、現在地からごくわずかの範囲内しか探索できない状況の下で、「現在地が本当の頂上かそうでないか」を判断しなければならない状態に似ています。

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次回が最終回になります。

(次回に続きます。)
posted by そらパパ at 21:49| Comment(5) | TrackBack(0) | そらまめ式 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも興味深いテーマを取り上げておられ、頭が下がります。

一つ思ったことは、自閉症の子は最適ではないにせよとりあえずできるようになるまでの労力も(不器用であるがゆえに)健常の子より大きいのではないか、そのため、仮に最適な方法を知ったとしてもその習得のためにかかる労力を厭い、なかなか覚えないのではないか、と思っています。

今、スプーンやフォークを握って食べる赤ちゃんの食べ方から、親指・人差し指・中指の3本で支える普通の食べ方に移行させようとしていますが、やる気を見せません。

とはいえ、赤ちゃん時代から3本で支えるのは指の筋力から考えて無理がありますし、どうしたものやらと思っています。
Posted by はじめ at 2008年06月24日 06:20
はじめさん、

コメントありがとうございます。

この適応の図についていえば、ある場所にぴったりと留まっているということは、本質的にはないんですね。
常に適応を高めるべく探索を行なっていて、でも今の場所が「最適」になっているために、外から見ると留まっているように見える、ということなのだと思います。

ですから、はじめさんのおっしゃっているような「部分最適」だと思える場所から「全体最適」にもっていく働きかけも、うまくいかない場合に「そこへ移る『労力』を厭う」と考えるよりは(この考え方の場合、実は「労力」という新しい概念が増えていて、じゃあ「労力」とは何なんだ、ということを議論する必要が出てきたりします)、単純に「現状では実はそちらは『全体最適』になっていなんだ」と考えるほうが「科学的」だと思います。

その理由としては、ご指摘のとおり、「そういう微細運動をするスキルが育っていないから」なのかもしれません。

ここから先はアマチュアの勝手なアイデアではありますが、もし3本の指の力と器用さを引き上げたいのなら、私なら、スプーンやフォークで挑戦するのではなく(これらは、赤ちゃん握りでも結構使えてしまうので、3本の指で使うことの子どもにとっての「コストとリターン」が現状では割りに合いにくい可能性があります)、3本の指をうまく使わないとほとんど使い物にならず、逆にうまく使うと非常に効果的に使いこなせる道具、つまり「箸」を使わせてみることを考えます。

我が家でも使っている「エジソンの箸」なんかどうでしょうか。
これを使いこなせるようになれば、3本の指を使う微細運動スキルが伸びてくるので、その後に「スプーンとフォーク」に取り組めば、「3本指」のほうを「全体最適」に持ち込めるかもしれません。
(この辺りは、少し前のこのシリーズ記事で書きましたね。)
Posted by そらパパ at 2008年06月25日 23:14
ご返事ありがとうございます。
他の記事でのそらパパさんのスタンスから、「労力を厭う」という主観的な部分には批判が入るだろうとは予想していました。

そらパパさんの記事を読んで、自分は「霧の中での車の運転」をイメージし、その付近しか見えていないことから鳥瞰的な環境把握ができず、他の道を思いつけないのが自閉症児なのだろう、と考えました。

それはそれで納得するものの、では、正しいやり方を示してもやろうとしないのはなぜか、ここに主観は入らないのか、という疑問は残ります。

エジソンの箸は使っており、それなりに使えるようになってはいるのですが、スプーンやフォークはちょっと油断すると握ってしまうんですよ。
エジソンのスプーンも買ってしまいましたが、まだまだです(泣)。
Posted by はじめ at 2008年06月26日 06:30
はじめさん、レスありがとうございます。

コメントのなかに、「正しいやり方」というフレーズがありますが、これが曲者なんだと思います。

私たちにとって「正しい」ものであっても、それが子どもにとっても「正しい」、つまり全体最適だとは限らないのが、障害をもった子どもに対する療育の難しさなのかなあ、と思ったりもします。
スプーンを3本指で持つことのように、物理的にプロンプトできる行動について、それを繰り返し教えても身につかない場合は、その行動がそのときの子どもにとって「全体最適」になっていない可能性はありますね。
Posted by そらパパ at 2008年06月27日 23:07
そらパパさん、再びレスありがとうございます。

ご指摘の「正しいやり方」の正しさについて、自分はさらに懐疑を持っていて、誰が正しいって判断するんだろう、大多数の人がやっているやり方を正しいとするんだろうけど、これは普遍的な物ではないかも知れない、と考えていました。

大をする時に、入り口前に全部脱いでしまうのは部分最適、トイレの中で、膝下まで下げてするのが全体最適、あるいは男の子に特有のことですが、小用を足す時に、お尻の下までズボンとパンツを下げるのは部分最適、チャックからの取出・収納(笑)を行うのが全体最適なんだろうな、とは思いますが、自閉症児の社会性の乏しさから来る羞恥心の少なさ、他人が不快な思いをしていることへの想像力の欠如、他人のマネをする能力の低さ等から、これを修正するのも大変だな、と思います。

余談ですが、最近は男性も洋式トイレで座って小用を足す人が増えているそうで、そのうち、男性も座ってする方が全体最適になるかも知れません。
Posted by はじめ at 2008年06月28日 07:01
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