↑部分最適行動から全体最適行動への働きかけのイメージ。
ところで、「絵カード交換」は、一般にはコミュニケーションという分野の「全体最適」だとは考えられていません。多くの方がイメージするコミュニケーションの全体最適は、「ことばのやりとり」でしょう。
だとすれば、ここで、私たちはなぜ、「ことばのやりとり」ではなく、「絵カード交換」に向かおうとしているのでしょうか?
この問いに対しては、2つの答え方ができると思います。
1つは、「最終目標は『ことばのやりとり』だけれども、それは高すぎる目標なので、クレーン『よりはマシ』な、別の『部分最適』として、とりあえずは絵カード交換を教えよう、それが成功したら次は『全体最適』であることばのやりとりに向かおう」という考え方です。
この場合、「絵カード交換」への行動変容の働きかけは、ある種の消極的な意味合いを持つことになります。なぜならこの場合、絵カード交換は、最終目標に向かうためのスモールステップの過程としてとらえられているからです。
ただ、この第一の考え方には、1つの大きな前提が隠されています。
それは、「私たちにとって『ことばのやりとり』が『全体最適』ならば、自閉症児にとっても同じく『ことばのやりとり』が『全体最適』なはずだ」という前提です。
この前提が必ずしも正しくないことは、前半の議論で述べました。
特に、「からだ」の制約条件が異なっているために特別な発達的適応の過程をたどってきている障害児の療育を考えるときには、療育者の側がこのような前提を安易に置いてしまうことが、結果としてその子どもへの働きかけを不適切なものにしてしまう危険があると思います。
先ほどの議論に戻って、「ことばのやりとり」ではなく「絵カード交換」へ向かう理由についての第2の立場として、ここまで議論してきた「適応」という視点により強く立った考え方を書きたいと思います。
それは、「実は、現状では絵カード交換こそが『全体最適』であり、『ことばのやりとり』は全体最適にはなっていない」という立場です。この場合、絵カード交換を身に付ける働きかけは、第一の立場よりもずっと積極的な意味合いを持ってくることになるでしょう。
目の前にいる自閉症児の現状(ここでいう「現状」とは、認知能力の発達の遅れや偏りなどを指していると考えてください)を前提にした場合に、絵カードを使うコミュニケーションのほうが、ことばを使うコミュニケーションよりも「適応度」が高い、ということは普通に起こりうることです。
なぜなら、多くの自閉症児にとって、音声言語は「消えてしまう」ために理解しにくく、応用しにくいものであることが多いのに対して、自閉症児の特性に配慮した絵カードは、それよりもずっと使いやすいものであることがあるからです。
そんなときに、「私たちにとっては絵カードよりもことばの方が使いやすい(つまり、適応度も高い)から、自閉症児であっても絵カードは早く卒業させてことばに移行させよう」と安易に(とあえて書きます)ことばの使用を強要するようなことがあると、これはむしろ適応度を下げる働きかけになる恐れがあるのです。
(次回に続きます。)
本記事の図2は、確かにそういうカーブを持つ子っているよなぁ、と思います。ただ、その子の親御さんがそうは思っていない場合、なかなかPECS導入は厳しいと感じています。
あと、適応度のカーブって、そのまま、障害児をもつ家族のQOLにもそのまま応用できるなぁとも。「ここにスケジュール入れたら、子供も、親も楽になるのに、、、、」とか。
ここの遷移状態の壁も子供同様、家族もいろいろ。
このシリーズ記事では、父親の方からのコメントが多い気がします。(^^)
適応度のカーブに家族が含まれるというのも、とても鋭いご指摘です。その辺りも、少し違う形ですが、あとの記事に出てきます。
(皆さんに先を読まれています(^^;))