ある適応すべき課題について、一見最適に見える(でも実は「最」適ではない)ポイントが、本来の最適なポイントとは別に存在するとき、前者を「部分最適」、後者を「全体最適」と呼びます。
この「部分最適」と「全体最適」を、山登りに例えてみると、小高い丘の頂上にたどりついたとしても、そこが本当に「山頂」であるとは限らず、さらに先に進んで、一旦下った先を進むともう一度登りになって、その先にようやく「本当の頂上」があったりすることは少なくありません。
ここで、「小高い丘」が部分最適、「本当の頂上」が全体最適に相当します。
試行錯誤によって行動を少しずつ変化させ、より適応度が高くなるように行動を微調整する、というルールによってある環境に適応しようとした場合、この「部分最適」なポイントにつかまってしまうと、抜け出すことができません。なぜなら、その部分最適なポイントからは、どの方向に進んだとしても適応度が下がってしまうために、「現在地にとどまるのがベストだ」という結果が導かれてしまうからです。
これを自閉症児の行動におきかえてみましょう。
要求を表現するのに、パニックしたりクレーンしたりという行動をとるということは、このような「部分最適」の状態にあると考えられます。つまり、それらの行動は、一応、要求を表現して欲しいものを得るということに効果があり、それとは多少異なる行動をとったとしても、それよりも有効な結果は得られないような状態にあるのだと考えられるのです。
このケースの場合、パニックやクレーンよりももっと適切な「全体最適」に相当する行動は、より平和で情報量の多いコミュニケーション(通常は「ことば」)による要求であると考えられますが、それは、「より高い山の頂上」として、少し離れた場所に位置するものだと例えることができるでしょう。
このような状況におかれた場合、健常児であれば、放っておいてもなぜかこの「部分最適の丘」を抜け出して、本来目指すべき「全体最適の山頂」にたどり着くことができるようなのですが、自閉症児の場合には放っておくと「部分最適の丘」にずっと留まってしまうようです。そしてこのような状態が、ある種の「問題行動」として私たちの目に映っていると考えることができます。
このような違いが生じる理由はいろいろ考えられますが、例えば、自閉症児の「からだ」にとっては、パニックやクレーンという行動が比較的適応度が高い(「部分最適の丘」の高さが比較的高い)ために、そこから抜け出しにくくなっている、ということなのかもしれません。
(それ以外にも、「探索」の動き自体がうまくできないとか、「探索」の結果として適応が上がったか下がったかのフィードバックを受け取る力が弱い(つまり、結果としての適応力の「分解能」が低い)など、いろいろな理由が考えられます。)
この部分でのポイントは、私たちが「問題行動」とか「こだわり行動」としてただネガティブにとらえがちな自閉症児の行動の多くは、実は部分最適行動として「適応した」状態でもあるのだ、ということです。
ある種の適応状態であるからこそ、その行動は定着して繰り返されることにもなりますし、子どもはその行動によって、それなりに生きていくために有利な状態を作り出しているという側面もあるのです。
これが、私がこのシリーズ記事の最初のほうで書いていた、障害によって現れる行動を「適応」としてとらえる、という考え方の中心になる視点です。
でも、「部分最適」は、「適応状態」ではありますが、「全体最適」ではありません。ここに、療育的働きかけの余地が生まれてきます。
その辺りについて、次回は書いていきたいと思います。
(次回に続きます。)
これからは、こんな感じの展開?という予想はあるのですが・・・。先回りはやめときます。
今回の記事中にある、自閉症児たちがなぜ部分最適にとどまってしまうのか、ですが、おそらく、自閉症児たちにとっての「適応度カーブ」がデコボコしているのでしょうね。健常児でも2歳ぐらいだと、欲しいお菓子があるとスーパーの床に座り込んで泣いてますよね。でも健常児は、「そんなことするよりも、もっと有効な手段がある」ことに次第に気づきます。そらパパさん風な言い方をすれば(失礼があったらごめんなさい)、自閉症児たちはおそらく「『もっと有効な手段』という意味がふくまれている環境がアフォードしない、もしくは環境に自閉症児がアフォードしない」ということでしょうか。工学的には、こういった状態の原因は①センサが壊れている、②コントローラがバグってる、③アクチュエータが壊れてる、の三つに絞られます。ここで以外に見逃されるのが③です。アクチュエータとしての運動器と、センサとしての感覚器の協調・協働は、システムが「健康」であるためには重要です。感覚統合療法は、このあたりに意味があるのでしょうね。
先に書き込んだ議論をするのに、重要な前提があります・・・。
そらパパさんは、「適応度カーブ」は、どうやって作られると思われますか?生得的?環境要因?どっちか片方にはしぼれませんよねぇ・・・。
年度が替わって、ブックレビューしたい本がたくさん出ていますので、このシリーズ記事はその合間をぬってゆっくりとやっていこうと思っています。
展開としてはやはり読まれていると思います(笑)。特に、2つめのコメントに関する部分は、結論的な位置づけで最後のほうで出てきます。
部分最適にとどまってしまうこと自体は特別なことではまったくありませんね。
私たちも含め、すべての人はいろいろな行動について「まあまあいい部分最適」にいると考えるべきでしょう。
自閉症児の場合に問題になるのは、「かなり悪い部分最適」にも簡単に引っかかってしまうことなんじゃないかなあ、と思っています。
ちなみに、私は、自閉症児の感覚と運動の協調自体に「異常がある」とは考えていません。異常というよりは「未発達」なんだと思います。
(だから、ちゃんと伸ばしてあげれば、協調そのものはどんどん良くなっていくと思っています)
一点、付け加えたいことが。
「感覚と運動の協調」ですが、私は「未発達」という捕らえ方はしていません。もちろん、未発達的な要素も大きく影響していると思いますが、それよりも、「性能差」があるんじゃないか、と。センサでいえば、8bitの分解能のセンサと16bitの分解能のセンサとでは感じている世界は違うはずです。モータでいえば、100Wのモータと200Wのモータでは、同じ動きを実現するのでも入力される指令の形は違ってきます。指令分解能に違いがあれば、動き自体も異なってくる。これは自閉症者にだけいえることではなくて、健常者でも同じですが。こういった観点から、ロボットで"Autism Machine"がつくれないか、と結構真剣に考えています。
あまり無理をなさらずに。記事連載、楽しみにしています。
この辺りはJKLpapaさんとは私は若干見解が違うようで、興味深いです。
仮に協調の問題が、外からみてJKLpapaさんが想定するような「性能差」に該当する部分から生じていたとしても、それに相当する特別なハードウェアが脳にある・ないという違いがあるとは考えにくいと私は考えています(基本的に大脳の組織は均質なので)。
脳の機能について、外部から観察できるさまざまな態様は、本質的には脳が並列的に活動したときにその全体から創発してくる何かであって、部分の活動ではないと私は考えています。そして、まさにそういった「創発」の過程の、個体内での進行のことを「発達」と呼んでいるわけです。
(つまり、私はいわゆる脳のモジュール志向には(少なくともそれを脳機能の記述単位とすることには)反対という考え方なわけです。)
分解能差はおそらくニューロンの数、層数差で出てくると考えています。ご指摘のとおり、大脳は均質ですが、均質であるがゆえに、入力の違いによって、パターニングが異なります。私も性能差そのものが障害の本質だとは考えていません。たぶん、感覚器と運動器のバランスの悪さ(これが結果なのかもしれませんが)から、何か分かるのではないか、と思い、感覚統合関連の文献も読んでいるところです。
いずれにしても、まだまだ修行が足りません(^^;修証一等、まだまだ日々精進です。