それは、「自閉症児の現状が『適応状態』だというなら、わざわざ大人が働きかけてそれを変えるべきではないということなのか?」という問いです。
これについては、実はそのとおりだという側面もあります。
先の例に戻れば、ほとんど目が見えない人が視覚以外を活用して周囲の環境を知覚できるように「適応」している場合に、その人に、そのやり方をやめて「視覚」を活用するように強要することは、意味がないばかりか、その人の「からだ」の制約条件を無視した誤った働きかけである可能性が高いでしょう。
同じように、例えばパニックを起こしたときに指しゃぶりをすることで自らを落ち着かせている自閉症児(これは少し前の私の娘についての実話ですが)について、単純に「みっともない」という理由で指しゃぶりを禁止することは、その子どもが「発達史」の中でようやく見つけた「適応方法」を奪って、再び混沌の中に投げ込むことを意味するかもしれません。
つまり、いま現れている個別の行動、あるいは行動パターンについて、私たちの目からみた価値基準で安易に評価しないことが大切なのです。私たちからみて、どんなにそれらの行動が不適切であるように見えても、それでもその子どもにとっては、その時点での一応の「適応状態」でもあり、そこに至る、無視すべきでない長い「発達史」があるのです。
・・・なんだか、こんな風に続けていくと、これは新手の「受容理論」なのではないか、という誤解を招いてしまいそうなので、そうではないもう一方の側面(そしてこちらのほうがずっと重要です)について、ちょっと急いで?書いていくことにしましょう。
例えば、脳こうそくなどで手足にマヒが残った人のリハビリを例にとって考えてみます。
マヒが残った場合、たいていの人は、そのマヒがある状態を前提とした体の動きが出来上がってしまいます。つまり、マヒのある体の部分を使わなくても生活できるような、そういう体の動きを限定した行動パターンを学習してしまうわけです。
これは、これまでに説明した「適応」の過程そのものだと言えるでしょう。マヒによって「設定」された、新しい「からだ」の制約条件に基づいて、体の動きが「最適化」されていったと考えることができるからです。
でも、整形外科では、それが必要だと判断した場合は、このようにマヒが残りそうになっている人の体を、なかば無理やり動かして、リハビリをさせます。
このように、患者の「適応状態」をあえて一旦崩すような外部からの働きかけを行なうことによって、放っておけば動かなくなってしまう体の動きを再生させようとするのです。その結果として、患者は「より自由に動く体」を取り戻すことができると考えられているわけです。
注:上記のような「無理に動かす」リハビリを正面から否定する流派もあるようです(例えば認知運動療法)。ただ、適切な外部からの働きかけ=リハビリによって、そういったことをしなかった場合よりも運動機能が向上する、という一般論は少なくとも成り立つと思います。
このような、「適応状態を崩すような外部からの働きかけ」を、いったい私たちはどう評価すればいいのでしょうか?
次回はこの辺りを考えていきたいと思います。
(次回に続きます。)
学生の頃(もう30年近く前です)、脳性マヒ新生児の姿勢反射に対するアプローチ(ボイタ法・ボバース法)について論文を書いた事を思い出しました。できるだけ早い時期に脳性マヒ児が獲得できない姿勢反射を経験させる事は、その後の運動能力の獲得に大きな影響を与えるというものです。自閉症の子どもに対するボトムアップの療育も同様な効果があると考えています。次回も楽しみにしていますね。
まさにシンクロニシティ、というか、通園療育施設の父母の会のお母さんから、2月23日付の読売新聞の記事「日本の知力」のコピーをいただきました。お読みになっていらっしゃるでしょうか?「体を動かすことによる刺激が、心を育てる」といった趣旨の内容でした。
工学的な意味での「適応」がうまくいくための条件に「PE(Persistency Excitation)特性」というのがあります。非常に乱暴にまとめれば、ロボットが自分の腕の重さを同定するのに、腕を動かしてみないとわからない、というものです。このときに大事なのが、「適切な」動きに対して「適切な」情報がフィードバックされているかどうか、です。適切でなければ誤適応もしくは発散(パニック)に陥ります。ニューラルネットでも同じですね、入力信号にエネルギーがないと学習しない。
私はどうしてもエンジニアなので、工学的に見てしまいますが、そらパパさんの見解を、今後も楽しみにしています。
コメントありがとうございます。
今回の記事の、リハビリに関する部分はそれなりに自信を持って書いていたんですが、たまたま読んだばかりの新書「脳のなかの身体」(講談社現代新書・宮本省三 著)では、脳性のマヒについては患者の意思なく無理に動かすリハビリを厳しく批判していたりして、なかなか難しいのだなあ、と思いました。
ちなみに、ここから先、このシリーズ記事はだんだん中途半端に工学的になっていく予定です。JKLpapaさんにはまったく物足りない内容になってしまうかもしれません・・・。(^^;)
工学で、特に制御工学で対象とするものは今なお線形モデルで表されるものがほとんどです。そらパパさんのご指摘通り、人間のみならず、生物は非線形課題を解いています。いま、あちこちの大学で「ロボットの心」問題を解こうとしています。東大では、アフォーダンス理論も用いられて、体を触られて、学習していく実験も繰り返されています。
ですから、私はそらパパさんの、この「適応」記事に、期待大なのです(^^)
期待してますよぉ~!
コメントありがとうございます。
確かに言えそうなことは、自閉症が抱えるさまざまな問題は、適応にしても、社会性にしても、汎化の問題にしても、多くが「線形的な単純化」をしてしまうとこぼれてしまうほうに含まれていそうだということですね。
白黒はっきりつけようとすることなく、かといって「こころ」のような定義できない概念に逃げてしまうのでもなく、自閉症がもつ複雑さをその複雑さのまま、何とか理解していかなければならないんだ、と思います。