このような前提に立ち、私たち自身の「発達的適応」について考えてみましょう。
ヒトの個体(つまり私たちそれぞれ)の大多数は、多少の違い---それは「個性」などと呼ばれますが---はあるものの、一定の範囲内に収まった、よく似た「からだ」を持ち、一定の範囲内に収まった、よく似た「環境」の中で発達するために、結果として、「偶然」よく似た能力を発達させ、よく似たやり方で環境に適応するようになります。
この「一定の範囲内に収まっている個体の集団」を、「健常」あるいは「定型発達」という名前でくくって呼んでいると言っていいと思います。
ところが、これに対して、そのような「一定の枠内」に収まらない「からだ」の制約条件を与えられた個体は、その「からだ」の制約条件のなかで、それでも環境に適応するために、「必然的に」独自の発達の経路をたどっていきます。その結果として、現在の行動パターンが形成されているということです。
(言うまでもありませんが、ここで言っている「からだ」の制約条件には、運動能力だけでなく、認知・知覚等に関連するものも含まれます)
このような行動パターンを取る個体のことを、私たちは、「障害児者」と呼んでいる、と言っていいと思います。
だとすれば、例えば目の前の自閉症児が、およそ社会的な適応状態とかけ離れた行動をとっていたり、時には自らの健康を損なうような危険な行動をとっていたとしても、それを単純に、あってはならない状態だと嘆き、「問題行動」として急いで修正しなければいけないと感じ、「健常児」と同じことを教えていくのが唯一の正しい道だと考えてしまっては、とても大切なことをたくさん見落としてしまう危険性があるのではないでしょうか?
繰り返しになりますが、ヒトを含めたあらゆる生物は、与えられた環境(「せかい」)と「からだ」という制約条件に基づいて、命ある限りより有利に生きていく(適応する)ために発達を続けます。目の前の自閉症児のいまある姿も、そのダイナミックな「適応」の過程のなかにあるのです。
そう考えると、私たちの目から見て「問題行動」「不適切な行動」に見える行動にも、その行動が形成されるに至る過程があり、その過程のなかで、それらの「行動」が少なくともその時点での「環境」と「からだ」にとっては、他の行動よりも適応的だった(生きていく上で有利だった)ということなのだ、ということが理解できます。
他の行動よりも適応的だったからこそ、その行動パターンが淘汰されずに生き残って、現在も残っているということなのです。
これは、行動主義心理学の「先行条件」と「強化」による学習と言っていることは似ているのですが、背後にある哲学的な立場はかなり違います。
行動主義は1つ1つの強化の場面を厳密に切り出して、それの積み上げによって行動の全体を記述しようという純粋な還元主義です。
それに対して、制約条件に基づいた適応、という考え方はそこまで還元主義的ではなくて、実際に発達してきた結果として今ある「現状」を全体として見るなかで、そのような発達が、どのような「からだ」と「せかい」の制約条件に基づいて発達してきた適応過程として説明できるのかを、時間軸にも配慮しながら考えるという立場をとります。
少し情緒的に表現するならば、自閉症児のあらゆる行動(もちろん、問題行動も含めて)について、「その行動ができあがった背景にこの子なりのかけがえのない『発達史』があるんだ」と常に感じながら接していく、さらに言えば、1つ1つの行動を個別にみるのではなく、自閉症児がいま生きている、活動している全体の「ありよう」そのものが、そういった発達という名の適応過程を通じてできあがってきたものなんだ(だから、それらの行動すべてを含めて「その子」そのものなのだ)、という視点をもつことを指しています。
(次回に続きます。)
そらパパさんの記事を読むようになってから、私も環境心理学と行動分析学に興味を持ち、そらパパさんが紹介される本を手当たり次第に読んでみました。
私の理解力では、残念ながら十全にというわけにはとてもとても。
さて、適応という視点シリーズはとてもおもしろく、環境心理学と行動分析学から、どのように考えていったら良いのかというヒントがたくさん隠されているなと感じています。問題行動といわれているものは、環境に適応するための発達史というのは納得です。
環境心理学の本(なんだったか忘れてしまいましたが)に、障害=個性論に対する批判が書いてありましたね。個人的には、障害ということを説明する際に、個性と説明することは、とても理解してもらいやすいのではないかと感じていました。今回の適応という視点シリーズを読んでいると、やはり障害=個性と捉えた方が分かりやすいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
とても納得の記事です。
愛がありますよね。
どう世の中を切り取っているのかをはかるには行動から憶測する以外方法はない息子を育てていると、「その行動ができあがった背景にこの子なりのかけがえのない『発達史』があるんだ」なんてフレーズには泣けちゃいます。
なんか、この記事は感覚的にとてもぴったりきます。
うまく説明できなくてすみません。
コメントありがとうございます。
実際、このシリーズ記事は、本当に書くのが難しいです。言葉になりにくいことを書いている、という確かな実感?があります。
takiさん、
もし専門的な方面に興味がおありでしたら、システム論としての「オートポイエーシス」の方向にも進んでみてください。具体的には、河本英夫氏の著作になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9
正直、ものすごく難解です。私も、たぶん10%くらいしか理解できていません。でもここには、この「適応」という考え方を内包して、さらにはるか先をいく刺激的な思想が含まれています。
ちなみに、この人の本の中で一番簡単なものは「哲学、脳を揺さぶる」です。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4822245683?ie=UTF8&tag=danchanseikou-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4822245683
障害=個性論のギブソン理論からの批判は、河野哲也氏の「心はからだの外にある」の第4章に出てきますね。そこでの議論をものすごく乱暴にまとめれば、「障害=個性」という考え方は、結局、「障害=欠損」という考え方と同じで、「普通」という基準のようなものがあって、そこからのズレを欠損と呼ぶか個性と呼ぶかという違いしかなく、同じ土俵の上に立っているに過ぎないということです。問われるべきは、社会に参加するということに対して「普通」という基準をおいてしまうこと、まさにそのことにあるのだ、という主張です。
私の考えも河野氏に基本的に同じです。
「個性」といった瞬間に、その背後に「普通・標準・基準」といったことばが透けて見えてきます。
そうではなく、「ぜんぶ」なのです。基準値とそこからの偏差という風に、分けてはいけないのだ、と思っています。
こうままさん、
今回の記事の最後のブロックはやや感傷的にすぎて、少し書くのがためらわれたのですが、そこまでの議論があまりにも固いものになってしまっていたので、「決して頭でっかちなだけの議論をしているのではないんですよ」ということを伝えたくて、あえて書きました。
こういう視点をもつことは、(反応性の弱い)自閉症児をもつ親にとってはとても大切なことなんじゃないかな、と思っています。
コメントありがとうございます。
(返事が遅くなりすみません。)
まさにJKLpapaさんのコメントのようなニュアンスで子どもを見てほしい、というのが、今回のシリーズ記事で伝えたい一番基本的なところです。
それに加えて、さらにもう一歩、その「ニュアンス」を(ただ文学的なだけでなく)もう少し具体的・計算可能的に表現できるといいなあ、というのがここから先の記事で目指しているところですが・・・なかなか難しいですね。(^^;)