2008年02月04日

「適応」という視点(2)

前回、適応を大きく左右する要素として、「からだ」と「せかい」(の制約)がある、ということを書きました。
ここような視点から、障害についての1つの重要な視点が導かれます。

そのことについてこれから書いていきたいと思いますが、自閉症について考える前に、別の障害について触れるところから始めたいと思います。

視覚障害の方は、目が見えなくても、顔にあたる空気の流れや微妙な反響音などの複数の手がかりから、目の前に壁などの障害物があることをかなりの精度で知覚できるのだそうです。

私たちはもちろんそんなことはできませんね。

これは、目が見える・見えないという、「からだ」が持っている制約条件の違いによって、「周囲の環境を知覚する」ための適応の発達が違った方向に向かった例だといえるでしょう。つまり、目が見える「からだ」は環境知覚のために視覚に頼るようになり、目が見えない「からだ」は、同じく環境を知覚するために、別の感覚を総動員する方向に発達したということです。(このような過程を、このシリーズ記事では「発達的適応」と呼んでいるわけです。)

ここで大切なことは、目が見えない「からだ」は、目が見える「からだ」に近づこうとして、別の感覚で代替的に周囲を知覚するようになったのではない、ということです。

そうではなく、目が見えない「からだ」にとっても、周囲の状況をできるだけ正確に知覚することが生きていく上でより有利である、つまり「適応的である」ために、単にそういう風に発達した、ということに過ぎません。

そしてこれは、目が見えるという「からだ」にとっても同じことです。
目が見える「からだ」にとっても、もちろん周囲を知覚することは生存に有利だから、その目を使って周辺を知覚する能力が発達の過程で伸びてくるということに過ぎないわけです。(そもそも「目」を持って生まれてくるということ自体も、それを使えれば生存に有利だという理由で、系統的適応の結果として起こったことです。)

つまり、「より環境に適応し、より生存に有利になる方向に発達していく」という大原則のもとに、それぞれの個体が個別・独自に発達をした結果として、目が見える・見えないにかかわらず、どちらの個体も「偶然に」「周囲の物理的環境を知覚する」という能力を発達させたのだけれども、その際の制約条件となる「からだ」は異なっていたために、その能力を実現する方法は「必然に」異なっていた、ということなのです。

・・・すみません。議論が難しくなっていますね。
もう一度、少し違った角度で書き直してみます。

別の個体が結果として同じ機能をもった能力を発達させるのは「偶然」です。

一方、別の個体がそれぞれ適応的発達をとげる過程が異なったものになるのは「必然」だといえます。


簡単にいえば、「私とあなたは別々の存在だから、発達の過程も別々だし、その結果身につく能力も別々であって当たり前なんだ。それが結果として『同じ』になるのは、本来は偶然以外のなにものでもない」ということなのです。

そして、このような適応過程がどのようなものになるのかを決定するのが、「からだ」と「せかい(環境)」という2つの制約条件だということになります。

ですから、もしも「からだ」の制約条件も、「せかい」の制約条件も似通った2人のヒトがいたならば、その発達的適応の過程も、恐らくはかなり似通ったものになるでしょう。

この辺りの議論から、「健常」とは何か、「障害」とは何かといった点について、少し違った視点が得られそうです。

次回は、このような視点から、私たち自身の「発達的適応」、さらには「障害」の一つのとらえ方について考えていきたいと思います。

(次回に続きます。)
posted by そらパパ at 22:43| Comment(2) | TrackBack(0) | そらまめ式 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。

このシリーズ記事、私にとってもとても興味深い記事で、楽しみにしています。

今、上の子が小学六年生で、色々と友達の間でも、障害児を特別なものとして差別したり、バカにしたりする子がほとんどだそうで、(最近テレビドラマでも、よく知的障害や自閉症をテーマにしたものが多くて、それを見て、ふざけてマネしていたり、それを見た子もまた、笑っているそうです。ウチの娘は、「子どもにあんなドラマ見せちゃいけない。バカにして笑うから。」と言ってました。)こういうことって、どんなに道徳の授業で教育したところで、なかなか本当に理解するのは難しい問題だなって思います。

そう思っていたところに、この記事に改めて納得して、娘に話してみました。なんとなく解ってくれたような感じです。

なかなか、わかりやすい言葉で、人に上手く伝えることは難しいですが、自分なりに上手く話せるようになったら、中学校に行って、子どもたちにお話しできる機会を持たせてもらいたいなって思いました。

中学生くらいになったら、こういう難しい話も、少しは理解できるかもしれないと思ったし、間違った解釈のまま大人になって行くのではなく、早いうちから理解してもらえたら少しは違うかもしれないと思うからです。

障害者をバカにしてはいけないとか、差別してはいけないとか、そういうアプローチからではなく、こういう視点から改めて考えて行く方が、何か伝わりやすいような気がしました。
Posted by いっくんママ at 2008年02月16日 10:53
いっくんママさん、

書かれていることは、本当に難しい問題だと思います。
私個人としては、たとえバカにしたり差別したりすることがあっても、それでも「隔離」してしまうよりはそういう人もいるんだということを知ってもらうことに意味があると信じたいのですが・・・。

いっくんママが書かれているような意味での「適応」という視点は、自分のいまの「普通」を基準にして、そこから欠落した状態として「障害」をみるのではなく、どんな人も「丸ごと全部」なのであって、欠落など何もない、と考えることでもあると思います。

今日(もう昨日ですね)アップした記事で、その辺りに少し触れています。
Posted by そらパパ at 2008年02月19日 00:38
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