脳研究の最前線 上巻・下巻
編集:理化学研究所脳科学総合研究センター
ブルーバックス
上巻
まえがき - 「こころに向かう脳科学」 - 伊藤正男
脳のシステム - 谷藤学
脳の進化と心の誕生 - 岡本仁
知性の起源 - 未来を創る手と脳のしくみ - 入來篤史
言語の起源と脳の進化 - 岡ノ谷一夫
脳はどのように認知するか - 田中啓治
脳はどのように情報を伝えるか - 深井朋樹
下巻
アルツハイマー病を科学する - 西道隆臣
つながる脳 - 藤井直敬
精神疾患から脳を探る - 加藤忠史
ロボットから脳を読み解く - 谷淳
快楽が脳を創る - 中原裕之
脳は理論でわかるか - 学習、記憶、認知の仕組み - 甘利俊一
あとがき
本書は、日本における脳科学の中心的存在である、理研の脳科学総合研究センターから出された、最新の脳科学の入門書です。
理研については、自閉症に関連のある研究も多く(研究1、研究2、研究3など。研究2については当ブログで記事も書きました)、ずっと注目している機関なので、本書が出たと知ってすぐに買って読み始めましたが、期待に違わずとても面白い内容でした。
自閉症が、どうやら生まれたときからの脳の機能障害であるらしいということはほぼ定説となっていますが、具体的にどのような障害があるのか、ということについてはまだほとんど分かっていません。
子どもが自閉症だと知った親は、ともかく子どもに何が起こっているのかを知りたくて「アマチュア脳研究」の扉をたたくわけですが、「脳」について学ぶことはそれほど簡単ではありません。
研究の範囲があまりにも広いために、脳の研究にはどんな分野があって、それらのどれがどの程度自閉症と関連しているのかをざっと把握することさえ至難のわざです。
そして、残念なことに、それでも「脳」にこだわる親御さんのうち、かなりの方が「脳内悪玉論」と私が呼んでいる単純化されすぎた二元論に陥りがちです。
これは、脳というのを設計図が決められたある種の工業製品のようにとらえて、自閉症と言うのはそれに対して何らかの「故障」なり「施工ミス」といった問題が発生することによって「本来の仕様どおりに動かない状態にあること」である、といった思考の方向性をさしています。
このような考え方は、そのまま単純に「じゃあその『問題』を取り除けば、子どもは『本来のあるべき姿』を取り戻せる」という結論につながるでしょう。
でも、脳というのはそんなに単純なものではありません。
脳の本質は、与えられた状況に応じて適応・発達・再構成されつづけていく、まさにその柔軟性そのものにあります。「設計図の決まった工業製品」とは対極にあるものだ、と言ってもいいでしょう。
その、適応・発達した結果がたまたま私たちから見て「自閉症」という障害だと映る状態になっていたとしても、それでも、その子どもの「脳」は、与えられたさまざまな厳しい条件の下で、最大限の適応をめざして発達し、再構成されつづけているのです。
ですから、私たちの「脳に対する療育」の本質は、「故障した部分を見つけて修理する」ことではなく、「環境に一生懸命適応して発達しようとしているのに、うまく目指す方向が分からない脳にうまく方向付けをしてあげる」ことにあるのだと思っています。
そんなわけで、単純化されすぎた「脳内悪玉論」に陥らないためには、最新の脳科学の全体像をざっくりと知ることが有効なのですが、これだけ脳科学の領域が広がり先鋭化した状況の中ではそれはとても難しいことでしょう。何より、そんな本を1人で書ける人は絶対にいないからです。
本書は、そのような難しい課題に対する1つの答えだといえます。
日本の脳研究の最前線にいる研究者12人の共著という形をとることで、脳研究の幅広い分野をカバーしつつ、それぞれのテーマも、一般向け啓蒙書としては相当に踏み込んだ内容になっています。
ブルーバックスとしては異例のボリューム(上下巻あわせて700ページ以上)がありますが、この分野に興味のある方(私を含む)なら一気に読めてしまうと思います。
もともと、理研はウェブページを見ても分かるとおり、研究の成果を一般の方に分かりやすく知ってもらうことに相当の力を割いている(例1、例2、例3)こともあって、本書も、内容の高度さに比較すると、とても分かりやすい文章になっていると思います。
この2冊の中では、特に下巻が、当ブログの内容とも関連が深く、興味深い内容にあふれています。
中でも、巻末に満を持して?掲載されている、センター長の甘利氏の第12章「脳は理論でわかるか」は私にとっては特に刺激的でした。
この章では、甘利氏の研究分野である「数理脳科学」の概要と歴史について説明されているのですが、その内容は私が当ブログで「一般化障害仮説」として紹介している仮説の理論的なよりどころそのものです。分かりやすくまとめられていて、私自身の理解もさらに深めることができました。(特に、一般にはキワモノ扱いされていると思われるジェフ・ホーキンス氏の大脳の情報処理モデルが大きく取り上げられているのには、ちょっと感動しました)
また、第11章「快楽が脳を創る」は、脳の発達がある種の「適応過程」であるということを数理的な視点からまとめています。
「自閉症のような発達障害を考えるときには、その障害の発現そのものもある種の『適応過程』だと考えなきゃいけないんじゃないか?」という、私の最近の問題意識とも関連が強く、面白かったです。
第9章「精神疾患から脳を探る」では、「統合失調症の本質とは、『自我の発達障害』なのではないか?」という、非常にショッキングな仮説が提示され、かつて自閉症が統合失調症の特別な例だと思われていたことや、自閉症がまさに「発達障害」であることなども考え合わせると、いろいろ考えさせられる内容です。
そして、第7章「アルツハイマー病を科学する」を読めば、こうった脳の病気について、脳科学者がどのくらい徹底した研究によってあらゆる可能性を追究しているのかがよく分かると思います。
自閉症をひきおこす脳の機制もおそらくアルツハイマー病と同等もしくはそれ以上に難しいものである可能性が高いでしょう。だとすれば、少なくとも現在の多くの代替療法・民間療法が提示しているような「自閉症の原因物質」の仮説が、いかに単純すぎて「頼りない」ものなのかということが、実感として分かるのではないかと思います。
このように、下巻には自閉症と関連させて脳を考えるという観点からも興味深い内容が盛りだくさんなので、個人的には、まず「下巻」から読んでみることをおすすめします。各章は独立していてどこからでも読めるようになっていますので、上巻を読んでいなくても困ることはないと思います。
最後に、この2冊の本を読んでも、恐らく読後感として「脳についてよく分かった!」という印象は持てないのではないかと思います。むしろ「脳の研究は複雑で、しかも『明快な結論』のようなものはほとんどないんだなあ」という感想を持たれるのではないかと思います。
でも、そのような「道なかば感」こそが、科学としての脳研究の現状を示しているのだ、と思います。
私たちはついつい科学に「単純明快な結論」を求めてしまいがちですが、実際には科学の最前線は「分からないこと」にあふれています。だからこそ科学者は研究しているのです。
そして、脳科学はまさに現代の「分からないこと」の最前線であり、しかも、自閉症の謎を解く鍵は恐らく、その「分からないこと」の向こうにしか存在しないのです。
ぜひ、この本から、そんなスリリングな「道なかば感」を感じてほしい、と思います。それは、過去の知見を整理しただけの「科学啓蒙書」よりも、ずっと科学の面白さの本質に近いのだと思います。
補足:
本書は最新の研究のアンソロジーなので、統一感にちょっと欠ける面があり、「科学」者の本なので哲学的な面からは多少語りきれていない面があるようにも思います。
その辺りを補う本としては、以前レビュー記事を書いた茂木健一郎氏の「心を生み出す脳のシステム」が読みやすいと思います。(ただし、こちらの本の知見は多少古くなりつつあります)
※その他のブックレビューはこちら。
自閉症の共通点は、神経細胞内やグリア細胞からの一酸化窒素の変調が細胞外マトリクスの量とともに質にも影響するのではとおもっております。
細胞外マトリクスのヘパリン硫酸が記憶の再固定に関係していそうなアクチビンの分解を、ヒアルロン酸が長期増強に関係するセリンプロテアーゼのニューロプシンの活性と関係するなど、これらの細胞外マトリクスが記憶の再固定に関係し、それを調節するのが細胞内外からの一酸化窒素と超酸化物のバランスなのだろうと。
折れ線型もこの細胞外環境の質的な変化で説明出来るのでは。
一酸化窒素とともに超酸化物と関係しそうな酸化ストレスの強弱も合わせ、これにGABAの過剰や過少が重なると考えると、自閉症がかなり理解可能なのではとおもいます。
「一般化障害仮説」の構造的な仮説にならないでしょうか?
http://www.gak.co.jp/TIGG/54PDF/GT54-1.pdf
ヘパラン硫酸プロテオグリカンの新しい分解経路
「すなわち、NOは細胞外マトリックスHSPGを分解することによりこれら機能分子の遊離を制御していると言える。マクロファージや好中球は多量のNOや超酸化を放出し、過酸化窒素を生成する。これは、HSPGでなくヒアルロナンの分解を増加させる結果となる。
関節骨液中のヒアルロナンの分解や合成の変化は、慢性関節リウマチと相関していることが知られている。NOと超酸化物とのバランスが細胞外マトリックス中のどのグリコサミノグリカンを分解するかを決定し、いろいろな病態進行を制御する重要な要因であるもしれない。このように、NOや超酸化物が細胞外マトリックス代謝の制御と病理に関係していると言うことができる。」
ブログも以前より覗かせていただいていましたが、私はクニさんが志向されているレベルでの脳の研究はやっていません。(というか、できません。(^^;))
このブルーバックスの下巻の内容もそうなのですが、私が着目しているのは、脳の機能レベルです。
これは、言ってみれば、パソコンの不調をデータ構造やアルゴリズム、ファイルシステムのレベルで考えるものです。
私の理解では、クニさんの関心は、さらに下のレベル、同じパソコンで言えば、半導体やコンデンサの動作ロジックやタイミング、回路、電流・電圧の安定性といったものに該当しているのではないかと思います。
ですので、クニさんの仮説が私の「一般化障害仮説」とどのようにつながってくるか、クニさんのレベルの知識のない私にはわかりませんが、いろいろな人が脳のいろいろなレベルについて研究することで、自閉症の研究も進んでいくんだと思っています。
これからもよろしくお願いします。