自閉症児は環境とのかかわり=相互作用が年齢相応に発達してこないため、環境を安定的に知覚したり、先の見通しを立てたりすることが苦手です。
そういった知覚や認知が、この世界を生きていくための「安心感」の源になっているはずですから、そういった能力が発達しにくい自閉症児は、健常児よりも混乱状態に陥りやすく、それがパニックにつながっていくということも十分に考えられます。
つまり、もともとパニック状態になりやすい、不安定でストレスフルな状態にあるうえに、欲求や混乱が高じたときの表現方法が極めて貧弱である(だから、なおさら欲求も実現できないし、混乱にも対処できない)ために、「パニックばかり起こす」という状況に追い込まれている、と考えられるわけです。
(自閉症児は怖い記憶をよく覚えていて、それを思い出してパニックになる、といったケースなど、他にもいろいろ考えられますが、あまり「内面」に入っていくと効果的な働きかけにつながりにくくなってきますので、まずはシンプルに考えていこうと思います。)
このような理解をふまえて、ここからは、パニックへの対処法を、類型化したうえで順に検討していきたいと思います。
(なお、繰り返しになりますが、ここで扱おうとしている「パニック」は、脳の疾患等が背後にあると想定される病的なもの以外のものを想定しています。ご承知おきください。)
3.パニックは抑えればいい?
自閉症児にとって、パニックが欲求や混乱状態の唯一の表現方法になっているとするなら、表面化した「パニック」を対処療法的に抑える、というやり方を続けることは、非常に不適切な働きかけである可能性が出てきます。
なぜなら、その自閉症児にとってのパニックは、たった1枚の手持ちのカード、つまり欲求や混乱状態を周囲に伝えるための唯一の表現方法かもしれないからです。
それをただ単に「抑える」ということは、そのたった1枚の手持ちのカードさえ奪ってしまうことを意味しています。
これは、心理学的にいうと「学習性無力感」という知見とも対応してきます。
学習性無力感とは、ストレスのかかった状態で、「何をやっても、そのストレスから逃げられない」という経験を繰り返すと、広くストレスから逃れよう、問題を解決しようという行動自体が起こらなくなってしまう現象のことを指しており、うつとの関連の可能性も指摘されています。
自閉症児がパニックを起こす状況とは、その子どもにとってストレスがかかった状態であることは間違いありません。そして、パニックを起こしてしまう自閉症児にとっては、パニックを起こすことが唯一、そのストレスから逃れるための手持ちの行動レパートリーであることがほとんどでしょう。
だとすれば、その唯一の「手持ちのカード」であるパニックですら、そのストレス状態を脱するための有効な手法にならないという状況を繰り返し経験した場合、まさにこの「学習性無力感」によって、ストレスがかかった状態になっても何もしない、という行動傾向が強まってくる可能性が否定できないのです。
ストレスがあってもパニックしないということはおとなしくなっていいじゃないか、と思う方もいるかもしれません。でも、そうではないのです。
パニック傾向が弱まること自体は社会的には望ましいことです。でも、学習性無力感を獲得してしまった自閉症児は、外界からの刺激に対する反応傾向自体が抑制され、他のスキルトレーニングにおける学習スピードや私たちからのフィードバックに対する反応、さらにはコミュニケーションに対する意欲といった「外界と相互作用する力」そのものが弱まってしまうと考えられるのです。
そして、いったん学習されてしまった無力感を克服するのはかなり難しいと考えられます。
次回は、この「パニックを抑える」という視点から、ある既存の療育法について新たな解釈を与えてみようと思います。
(次回に続きます。)
このパニックのお話、いいですね。
なんというか、当たり前のパニックの話かと思えば、子どもにパニック以外の切り札を持たせようようという内容のことが実にわかりやすく表現されていると思いました。^^
また遊びにきますね!
赤ちゃんの時には当然許され、(夜泣きなどといって)大きくなってからは、社会的に許容されない・・・というのはどうしてでしょう。体は大きくなっても、脳の発達の遅れ、欠如で、赤ちゃんのような部分があるのです。だから障害者なのです。これらのパニックや、自閉症児のだす騒音などを含めて一人の人間なのだと言う事を、そしてそういう障害者も皆と同じように自由に生きる権利があるのだという事忘れないようにしたいものです。他人に危害を加えるというのでなければ、周りの人たちの理解を求めていきたいものです。もちろんPECSなどで、パニックを減らしていく努力は必要ですが。夜泣きが近所迷惑になるからといって、「薬でオトナシクさせる」前に、それが毎日でないなら、私なら、菓子折り持って、近所に理解を求めます。明日仕事のお父さんには耳栓して寝てもらいます。そして要因となるものがないかよく考え、改善し、どうしてもダメなら、郊外の一軒家への引越しも考えるでしょう。よく吠えて近所迷惑な犬を、薬で黙らせるのと同じ事はしません。そういう犬でさえ、いなかの草原で暮らせば何の問題もなかったでしょうに。
でも、他のブログで読んだTEACCHプログラムの人の話に「自閉症児は刺激に弱いので、刺激の多い街の生活は向かない」というような意見、それとは違う考えです。我が息子を見た限り、刺激大好きです。人の多い、歩行者天国の道の真ん中を嬉しそうに歩きますし、パリのメトロも大好き。街角のミュージシャンの音楽に飛び跳ねて答えます。目や耳への刺激大好きです。逆に森などは好みません。
都会の現代人のほうが、自閉症児のだす騒音などの刺激に耐えられないのです。叫び声やげっぷの音など・・・。だから、なるべく通勤時間帯を避けて移動します。皆、疲れて機嫌悪るそうですから。それは尊重しますが、それ以外は少しパニックしても、障害者ですから仕方がないとして、自由に動いています。
副作用の無い(少ない)鎮静剤などが、小さな子どもにも随分処方されているようですが、「4歳位までは脳の構成も完全に終わっていないのに、向精神薬を長期間与えるなんて危険なこと。こういった薬のなかには神経細胞に定着するものもある。」と盲目的投薬を警告する医者達もいます。私が怖いのは、鎮静剤でオトナシクなっているのを、「集中力がでて良い」と勘違いする事。本当にそうなのですか?
対処療法であって、治療薬ではないはずです。少し前、多動の子に集中力が出ると、リタリンが注目され多様されましたが、最近この薬による、問題が指摘されたように記憶しています。障害者ゆえの行動が、社会的に望ましくないので、薬をということなら、その子は一生飲み続けなければなりません。3~6歳のパニックが大変なら、思春期のパニックにはもっと強い薬を・・ですか?
それぞれの家庭の事情なども有りますし、一概に否定はしません。また、薬でパニックが抑えられ、学校に通うことが出来るなら、(そしてそれが効果的なら)必要かもしれません?ただ、やはり子どもにとって良い事では無いという認識は必要かと思います。
私が懸念するのは、自閉症=悪いパニック=薬がオートマチックになることです。そのうち学校のほうから、「薬を飲ませないと受け入れない」なんて言ってくるのでは。街には薬で制御された障害児ばかりで、本当の障害児の様子は見られなくなるかも。私の息子など受け入れてもらえなくなるでしょうね。
そらパパさんのおっしゃる「倫理」から考えると、幼児に向精神薬は許容されるものなのですか?
4~6歳の子が「赤ちゃんのときに比べて力が強くなった」とか「パニックのしかたがすごい」などといいますが、体の大きさから考えても、大人が抱きかかえて家まで、または落ち着く場所に連れて行くことは簡単でしょう。私は自分と同じ体格の12歳の男の子と取り組んでいますが、まだ何とかコントロールできます。まさに「身を挺して」ですが。最近は欲求のたびに自分の右手首を噛みながら、酷い叫び声をあげます。自傷はいけないと思い(手が紫に腫れますから)、来るな~と思った時、私はすばやく彼の右手首をつかみ口に持っていかないようにしました。こちらは両手がかりですので、彼は左手が空いているのですが、左手は噛まないのです。4~5日やっていて、どうしても噛みたい様子に、手を緩め好きなようにさせると、すぐ右手を口に持っていきますが、少し口にくわえた程度で、またすぐその手を、私の手の中にいれ握って欲しいようにします。その後手の自傷は減り、噛みたくなると、私の手の中に右手を持って来るようになりました。手噛みの動作は必要としているようです。
私のポイントは、「いつでも」、「どんな場面でも」、「誰とでも」パニックするようになったら、投薬を考える・・・です。
長くなりましたが、言いたいのは、まず障害者の障害者である姿を認め、その能力なりで生きることを助ける為に出来る限りのことをしたうえで、最後に薬の力が必要であるなら仕方がないかあ・・です。それでも幼児への投薬には反対です。薬によってオトナシクなり幼稚園に行けるかもしれない、健常児を連れて歩いてるように見えるかもしれない。でもそういう誘惑に警告したいです。
コメントありがとうございます。
マリネさんのお子さんはABAで進捗著しいようですね。早期介入が大きな成果をあげた具体的な例として注目させていただいています。
今回のシリーズ記事ですが、実際、ここでは、「当たり前のパニックの話」をしているに過ぎないというところもあります。
パニックについてはいろいろな側面があるので、それらについて私が考えているところを、うまく1つのシリーズ記事の中で概観できればいいな、と思って書いています。
maman de PRさん、
長文のコメントありがとうございます。
今回の記事のコメントとして、なぜ薬の話になるのかは少し分からないのですが、1つ前の(3)の記事のコメントでの議論の続きであると仮定して書かせていただきます。
これは、「療育」とは何であるかということにかかわってくる話題だと思います。
私の定義では、療育とは、自閉症児(に限りませんが、ここではそう書きます)を自立させ、生涯をつうじたQOL(生活の質)を高めるための働きかけである、と考えます。
人生において、人は一般社会とかかわらずには生きていけないことを考えれば、療育のなかには、社会的な適応力を高めることが極めて重要な要素として間違いなく存在します。
自閉症児がパニックを起こして、それが社会的に受け入れられないとするならば、パニックをコントロールすることを考えます。
仮に、子ども自身がパニックを起こすことで幸せを感じる、あるいは何らかの理由でQOLが高まる側面があるとするならば話は違ってくる可能性がありますが、恐らくそんなことはなく、子ども自身もパニックをせずに生きられるならそのほうが幸せなのではないかと思いますし、社会の中で生きていくということを考えれば、QOLは間違いなくそちらのほうが高くなるでしょう。
だとすれば、「療育者」としては、パニックを起こさなくてすむように働きかけることは必要な働きかけだというふうに私は考えているわけです。
さらにもう1点、「自立」のほうを考えると、障害者は無理に自立させる必要はなく、福祉政策で生涯にわたって保護すべきだという意見もありますが、私はやはり障害者福祉は究極的には障害者が「自立(自律)して生きる」ことを目標にすべきだと考えます。(福祉行政は、そのためのサポートと、どうしてもそこに届かない人への保護を行なうべきでしょう。)
そう考えたとき、「親がいれば何とか対処できるからパニックを起こすことをあえてコントロールしない」という考えは、上に掲げたような「自立(自律)して社会のなかで生きていけるように働きかける」という、私が考える「療育」の方向性とは少し違ってくるように思われます。
maman de PRさんの議論では、パニックを起こすということはそのまま受け入れつつ、「限界」を超えたらいきなり投薬、という極端な二元論になっていますが、本当に大切なのはその中間にある「適切な働きかけ」なのではないでしょうか。
まさにその部分を、今回のシリーズ記事で書いていこうと考えています。
私の娘への投薬についてですが、私は基本的にリタリンにせよリスパダールにせよ、治験をへて承認されて広く使われている薬については肯定的です。(リタリンへの批判は、どちらかというと民間療法や代替療法を推進している人たちや、薬に限らず人為的な働きかけ全般を批判している人からあがっているように、個人的には思われます。)
私が娘にリスパダールを飲ませてもいいと判断したのは、上記のように正式に承認されている薬への基本的信頼があることに加えて、
・脳が柔軟でまだ伸びる余地の大きい今こそ、早期療育によって認知能力をできる限り高めていきたい。
・だとすれな、そういった「知的なこと」に娘が関心を向けることを困難にしている興奮・混乱傾向を沈静化させることは、対処療法とはいえ、ただ興奮を抑えるという「対処」の部分を超えて、「脳が伸びる可能性をより高める」というさらに肯定的な側面をもっている。
と考えたこと、さらに、
・そういった考え方について、私、妻、療育を担当している病院の担当者、実際に投薬を行なった小児発達医(わりと有名な方です)の間で意見が一致したこと。
が理由だといえると思っています。
「倫理」の部分に関していえば、多くの専門家の意見を聞き、自分も勉強し、そのうえで、公的に認められた「一般的な」医療的介入を行なうことは、(それでも慎重であるべきですが)子どもへの働きかけの一環としてあっていいと考えています。
余談ですが、自閉症児に限らず、障害児の「ありのまま」を受け入れる、「普通」を強制しない、ということは非常に重要なことだと思っていますし、それについては私も何度も触れています。
でも、パニックという行動それ自体は、自閉症という障害そのものではなくて、その背後にある別のより本質的な困難・認知的特性が一因となって引き起こされている「状態」です。
だとすると、障害児の「ありのまま」を受け入れるという「愛情」は、むしろ、その「本質的な困難」に思いをはせて、効果的な介入によってパニックを起こさなくてすむように一生懸命働きかけることにこそ存在すると考えられないでしょうか?
先ほども書きましたが、パニックは、それを起こしている子ども自身、楽しくてやっている行動ではないのです。
このあたりは、正しい・間違っているという単純な議論ではなく、どちらかというと療育の哲学といった領域に入ってくると思います。
私は、基本的に子どもと環境に対して積極的に介入し、社会的適応を引き上げることこそが「療育」だ、と考える立場です。そのような働きかけこそが、究極的には、子どもが「自分らしく」生き、幸せに生涯をすごすための「足場」になると考えているのです。
掲題の話題から若干それてしまうのは恐縮ですが、パニックの対処としては繋がりがなくはないと思うのでコメントさせて頂きます。
私の息子は間もなく4歳になりますが、maman de PRさんの言うように薬を使うことには私もかなりの抵抗がありました。ですが、現在は違った見解を持つようになりました。
息子は現在週3回くらいABAのセラピストの訓練と家ではPECSカードでの簡単なコミュニケーションをしたり、たまに公的な療育機関でグループトレーニングをしています。
家でも療育センターでもそうですが、息子のパニックは激しい(自傷は殆どありませんが)もので、一度火がついたら長い時で2時間位暴れ続けていました。今考えてみたら訓練中にも泣き続けたり、暴れたりすることが多くその時間は殆ど療育の効果がないと言っていいと思います。むしろ機嫌が良く穏やかな時の訓練は効果が高く、特にカードの受け渡しは特別な訓練をしなくても直に学習して使えるようになりました。
そらぱぱさんの言うとおり、パニックは自閉症児の表現の一つではあるけれど、本人にとっても周囲にとっても決して好ましいという本意ではないと思います。ABAの訓練である程度改善できましたが、効率という点では非常に労力が掛かり、本人にとっても親や周囲の人達にもかなりの負担があったと思います。それを考えると療育の効果や効率を挙げるという意味で薬を使うこともありだったと思います。ただ、maman de PRさんの言う療育論的なことで抵抗があるのではなく臨床的な意味で抵抗があったので使用していませんでした。適切な量と種類が間違っていなければ、薬も療育の手助けになるはずで決して否定的な見解ばかりではないと思います。
最後に本題のパニックについてですが、様々な観点から考察することは非常に有意義だと思いますし、これからのそらぱぱさんの見解が楽しみです。私は個人的にパニックは決して好ましくない表現ですが、自閉症児の表現方法の一つであることから、ABC分析のようにそこから多くの教訓を親が学べることもあり、子供達の状態を計る一つのバロメーター的な側面もあると思っています。これはそらぱぱさんが提唱する環境への働きかけにも繋がることだと思いますし、この障害児を持つ親独自の必要なスキルを身につける登竜門(飛躍しすぎかも知れませんが)なのではないかとも思っています。
私の未熟な文章能力のせいで、気持ちがうまく伝わらなかったのでしょうか・・・?
<基本的に子どもと環境に対して積極的に介入し、社会的適応を引き上げること・・・パニックをおこさなくて済むよう働きかけること>など、一般社会で普通に生きていけるように努力するという考えには、まったく同意見です。
私の文脈から、そういう努力をしていることを捉えて頂けなかったのでしょうか。
パニックをおこすことをあえてコントロールしないわけでも、そのまま受け入れているわけでも有りません。
何が要因なのか考え、出来るだけ改善する事(例えば、外遊び・運動が不足していたのか、学校で嫌な事があったのか、体の調子が悪いのかなど)を怠りませんし、まさに「限界」を超えないように、中間の「適切な働きかけ」をすることを努力しています。
それで、自傷する右手を押さえてみたりした訳ですが。(これが、良いというわけではありません)パニックを長引かせてはいけない・・というのが、私の考えです。もし私がパニックをあるがまま受け入れていたら、二人で半日かけて街で買い物したり、食事したりなど出来ない筈です。少しくらいのパニックしても、自由に歩き回ると書いたのは、環境などをコントロールしながら(場所と時間帯など)、許容範囲内のパニックで抑えてしているという事です。が、ときには、範囲をはみ出る事もあり、その驚きもあり、その話を取り上げた訳です。
もちろんPECSや、TEACCHなどでのスケジュール提示による働きかけには賛成ですが、薬で抑えることは「働きかけ」とはならないのでは?
これから、次のページでそのお話をしてくださるのでしょうか?
私はただ、12歳の息子の事は別として、幼児への投薬は賛成できないと申しあげたのです。
先日は3時間電車に乗って海辺のホテルで一週間過ごしてくることが出来ました。壁の薄いホテルでしたので、心配しましたが、日中よく遊んだせいか、パニックもせず早めに寝てくれ、朝までぐっすり。
夏休みで退屈していた家では、朝2時まで眠れない事もしょっちゅうでしたが。
息子が、いわゆる「お勉強」が嫌いで、アウトドアを好む事を放っておく、ということは認めます。でも、こうして、殆どパニックなしでいけるときもある、男の先生とはうまくいっている・・のに、体をかえるであろう?薬を毎日、長期間飲ませる気にはならないのです。
食い違いは、このパニックのコントロールの仕方、にあるのでしょうか。それで、あえて、この(4)のページを選んだように思います・・「パニックへの対処法」、「パニックは抑えればよいか」・・・という事で。ページ(3)を読んで、投薬によってコントロールされているようでしたので。
<本質的な困難」に思いをはせて、効果的な介入によってパニックをおこさなくてもすむ> ように、一生懸命働きかけているつもりですが、どうして逆にとられたのか、まだ良く解らないでいます。
表出言語の少ない、ひどいパニックをする、最重度と思われる、息子の話に、私が療育もせず、「ありのまま」を受け入れていただけと思われたのでしょうか。
誤解されていると思います。
障害児も成長しています。(薬を用いなくても) 私も彼を普通の子と同じように、社会のルールに従って、やってはいけないことはその場で、その度注意します。(げっぷしたり、おならしたり、つばを吐いたり) 決して「障害児だからしかたないね~」などとしません。普通の子と同じようにふるまうことを、教えています。
ただ、その過程において、梁があまりにも高い為か、どうしても困難な場合が、多々有ります。例えば、いい子で食事出来たなあ~と思っていると、突然トイレにいきたくなって、ガタッと立ち上がり「おしっこ!」と騒ぐとか・・。そういう訓練の「過程」を周囲の人たちに理解してもらう以外、普通の社会での生活は出来るようにならないと思われます。健常児のようには出来ないのですし、それは"療育を怠った?"私達が悪い訳ではないのですから。
また、私達は、環境に対して積極的に介入し社会的適応を引き上げる事を、毎日しています。認知能力は机上で学ぶだけではないと思いますし。
意見の食い違いは主として、「薬の効果」に有るのではないでしょうか。
脳が柔軟な時期であるからこそ、脳への投薬を懸念しているのですが、私自信が医者であるわけでは有りませんし、医者によって意見が違うのでしょうから、ひとそれぞれ・・・となるのでしょうか。
ただ、例えば、思春期の混乱を迎えた13才の男の子に投薬を始めることは、「突然で悪い事」とは思いません。(薬ですから、効くように、効くだけです。)年齢が進めば落ち着いて、必要なくなることを願うでしょうが。どうしても、の時に一定期間投薬する事は肯定します。
ひとつ、疑問があるのは、自閉症児の興奮・混乱が薬で沈静化されれば、「知的なこと」に興味を持って、取り組むようになるのでしょうか? これは私には経験が無いので、関心が有ります。本人よりも、療育する側が、取り組めるようになるのかしら・・・。
ただ、自閉症といっても、あまりにも多様で、一概に言えませんよね。私から見たら、どこが同じ障害なのかしら、と思う時も多いです。
重複になるかもしれませんが、何故こういう議論になったかを説明したいと思います。
私が申し上げた、<障害者の障害者である姿を認め、その能力なりで生きることを助ける為、出来る限りのことをする>・・・故に、「PECSでコミュニケーションを助け、TEACCHでスケジュールを予告するなどして、パニックがおこるのを避ける」
等々、そういった働きかけに、全面賛成で実行すべく、ブログ読み進めてきました。その中で、お子さんに薬を使用されている事を知り、「薬でパニックを抑えるなんて、簡単・・・」と思ったのです。それとも、薬を常用していても、パニックするのでしょうか?
基本的に、子どもの育て方は (子どもによって様々ですし)、全体を鑑み、親達が決めるものだと思っていますので、口出しするつもりは無いのですが、そらパパさんが、他の記事で「倫理」について、強く主張されていましたので、質問の為コメントさせて頂いた訳です。
話は飛ぶかもしれませんが、以前、友人の某有名大学の院生から、大学受験勉強の際、集中力と持続性のでる「薬」を、飲んで勉強するのはワリト皆やってること、と聞きました。
薬を使用することによる体への危険性を考えるよりも、それによって、有名大学に入学するほうが、その後の一生を考えたら、価値のある事と考えるのでしょう。
それを、言ったら、スポーツ選手のドーピングにしても、彼らにとっては、なにしろ、勝つことだけに価値があるわけですから。それも短期間で済み、勝つことによって一生が約束されるかもとなれば、誘惑もされるでしょう。
だから、「倫理」の問題なんだと思います。
それとこれとは、「薬」が違うと言われるかもしれませんね。その辺のところを、お伺いしたかった訳です。
16才の重度自閉症の娘を持つ父親です。
今日初めてこのブログを見つけた次第です。
自閉症に関しての様々な分析力,対処における理論的な解説に感服しました。
私は、仕事が忙しい事を言い訳に(単身赴任であるという理由もくっつけて)、
娘は母親に任せっきりでした。2~3年程前から娘が極端に扱いずらくなりました。
パニックと呼べるのか、大声を出す,奇声をあげ壁を叩く,奇声を上げながら突っ走る等々。家の中ではさらに激しく、家中を破壊しまくります。
そのせいで母親は精神的にも参っております。私も今後勉強していきたしと思いますので、よろしくお願いいたします。
ほったらかしとは言え、社会に迷惑を出来るだけかけずに、娘の希望も叶えるためにいろいろとやってきた事もあります。
(娘は一人で外出したがります。誰か付いていくと怒りだし暴れます。ここが一番大変です。)例えば一人で電車に乗って好きなお菓子の買い物など。ただ一人での外出自体非常に多くの方々に迷惑をかけていますが。
又どなたかの参考になる様な事があれば
書かせて頂きます。
自他共に認める文章能力の無さで申し訳御座いません。
今後共よろしくお願い致します。
コメントありがとうございます。
私が娘に対する投薬について考えていることは、やまおさんとほぼ同じだと思います。
医療的な働きかけも、医師のサポートを受けて適切に行なえば、やはりそれも1つの「療育」に含まれるのは間違いないと思います。(「療育」の「療」は医療の療でもあります。)
maman de PRさん、
もしもmaman de PRさんの議論が、「療育の倫理のことをいろいろ言っているのに、投薬を是とするのはおかしいのではないのか?」ということに絞られているのだとすれば、その点については前回のコメントで書いたとおりです。
「向精神薬」という名前がついているからオソロシイ、ということはありませんよね。娘の現状の問題に対し、医師のすすめがあって親としてもその意見に納得すれば、熱があって寝込んでいるときに抗生物質を飲むのと同じように、医師の指示に従って投薬を受けるのはむしろ自然なことだと思っています。
ちなみに、娘の現状をいえば、リスパダールを飲んでいるからといってパニックが「収まっている」という状況ではありません。
恐らく中度くらいの多くの自閉症児と比べれば、パニックはむしろ多くて激しいくらいだと思います。
投薬を受けた1年前の時点では、娘は最重度と重度の境界あたりにいて、パニックはそれこそmaman de PRさんのおっしゃる「いつでも、どこでも、誰にでも」が当然な状態でした。
その状態に一定の危険を感じた医師がリスパダールをすすめたので飲ませてみたところ、パニックのレベルが一回り落ち着くといった好ましい結果が出たので、継続的に飲ませているというのが現状です。(これらの薬は純粋に「対処療法」ですので、投薬を中断すればいつでも基本的には「元に戻り」ます。その点も「倫理」という観点からは重要なポイントと言えるかもしれません。)
投薬していても、重度自閉症児である娘はいつでもどんな場面でも容易にパニックを起こしますので、「苦労」という点ではあまり変わっていないのかもしれません。
ただ、機嫌よく課題に取り組んでいるときに、ちょっとした雑音で気が散ってそれを引き戻そうとするとパニックになって作業が中断、といったパターンは明らかに少なくなりました。これが、普段の療育で大きなプラスになっていると思います。
(なお、ここで書いていることは、投薬という選択も状況によってはあっていい、という意味であって、投薬したほうがいいという断定ではもちろんありません。)
ぴらるくさん、
はじめまして。
ぴらるくさんのお子さんのご指摘の行動は、「パニック」と呼んでかまわないと思います。
強固に定着してしまった行動を変えていくのは、とても大変なことではあります。
それでも、できるところからコツコツとやっていくしかないのが、自閉症児の療育でもありますね。
これからもよろしくお願いします。
話が「薬」の方に、走ってしまったのも、私自身、今 その選択を迫られている為、関心があったからです。
お察しのように、私は「向精神薬が、オソロシイ」のです。
でも、いろいろお話を伺っているうちに、頭から否定せず、「場合によってはそういう選択もあるかも・・・」と思えるようになりました。
やはり、話してみるものですね・・・な~んて、失礼致しました。
重ねて、お礼申し上げます。
私は、薬の治験に限らず、行政当局との交渉ごとには多少通じているので、「当局が認可する」という過程は、一般的に思われている以上に非常に緻密でしっかりした裏づけに基づいているという認識を持っています。(逆に、一度決めたことを修正することにも「慎重」なので、薬害エイズ問題のようなことも起こってしまうわけですが)
ですから、認可された薬とそうでない民間療法との間には、絶対に埋められないくらいの極めて大きな「安心感」の違いがあると考えています。
そのあたりが、maman de PRさんとの投薬への意識の違いにつながっているのかもしれないな、と思います。
ちなみに、オソロシイ、ということで言えば、受容的な療育に強い信念を持っている方は、強力なABAの介入による行動変容も、非常にオソロシイという印象をもっている方も多いと聞きます。
ですから、オソロシイから避ける(べきだ)というのは、「倫理」というものさしで語るのは難しく、「価値観」の領域だとも思います。
一方、私が「倫理」として言っていることは、権威ある専門家の多くが逆に「危険だ」「根拠が乏しい」と言っている行為を、親の信念のみで子どもに強制することを避ける(べきだ)ということになります。
ともあれ、今回はブログを読んでいただいている他の方も含め、議論を深められたと思います。こちらからもお礼申し上げます。
先日、私が知り合った広汎性発達障害の小6の男の子は、雷が苦手で、雷が鳴るとパニック状態に陥るそうです。ただ、携帯の天気予報サイトを見せると落ち着くとのことでした。天気図により雷の動向が視覚的に確認できると安心するのでしょう。
そうですね、そのお子さんがどんな情報を見ているのかはちょっと分かりませんが(もし天気図だけを見て雷の動きが分かるとしたら、それは気象予報士並ということになってしまいますので、雷のマークか何かを見せるのでしょうか)、私たちも「わけのわからないものは怖い」ということはありますよね。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざもあります。
それと同じように、自閉症児のパニックの何割かは、「分かれば怖くないが、分かるまでは怖い」というものなのかもしれません。
これは、暴露法と呼ばれるパニックへの対処法にもつながってくる考えかたですね。
園に通う息子の連絡帳に、今日 こんなコメントがありました。
「ゆうゆ君の中で『これはしたくないなー。』『食べたくないっ。』と思うと、やる気もなくしてしまうみたいで、少し前までは『イヤ』という意思表示を 泣いたり怒ったりで表現してくれていましたが、今はフニャーッと脱力モードに入ってしまうみたいです。」
これは、学習性無力感なのでしょうか・・?
どう対応して行けば良いのでしょうか・・。
確認したいことは、その「脱力モード」で、「イヤな状況」から逃れることに成功しているかどうか、ということです。
それで「いやなことをやらなくて済む」という結果を勝ち取っているとすれば、これはまったく「学習性無力感」ではなくて、うまくいやなことから逃げる方法を学習しただけということになりますね。
この場合の対応法は、パニックと基本的に同じで、「適切な要求のやりかたを教える」(代替行動分化強化)になると思います。
もしも、そうではなくて、いやなことがあっても逃げずに黙々と受け入れるようになっていたとすれば、そのときに初めて「学習性無力感」について意識すればいいと思います。
ゆうゆは、
>うまくいやなことから逃げる方法を学習しただけ
のほうだと思います。
なので、代替行動分化強化を勉強して行きます。
これからもどうぞ宜しくお願いします。