私が仕事から帰ってくると、娘はたいてい玄関に迎えにきてくれるのですが、それは私が帰った直後に必ず「やきいもグーチーパー」のうたを歌ってリビングのソファでトランポリン遊びをやるようにしていて、娘がそれを楽しみにしているからです。
ところが今日は玄関に出てこないので、様子を見てみるとリビングでおもちゃの片付けをやっています。
妻に声をかけると、どうやら食後のフルーツをこれから食べるというタイミングだったようで、娘はフルーツに釣られて(笑)おもちゃの片づけをやっているのでした。
で、片付けが終わって、フルーツをもらいに妻のいるキッチンに走っていこうとしたとき・・・
私が「やきいも、やる?」と(来ないと思いつつ、念のために)声をかけたら、娘はキッチンに行く足を止め、少し迷うようなそぶりをしてから、リビングに戻ってきて私にトランポリン遊びをさせ、それが終わってから改めてフルーツを取りにキッチンに走っていきました。それを見て、
うん、この行動はなかなかすごい。潜在的にけっこう成長してるかも。
と、思ったのです。
というのも、この行動を情報処理という観点から整理すると、「フルーツを食べたい」という期待に基づいておもちゃの片づけをこなして、その流れでフルーツを取りにいこうとしたところに「やきいも遊び」という別の流れが割り込んできたにもかかわらず、混乱せずにその割り込み処理をこなして、さらに元のフルーツの流れに戻れたということになると考えられるからです。
つまり、
[フルーツのために片付け] → [フルーツ食べる]
という単純な流れを、
[フルーツのために片付け] → → [フルーツ食べる]
↑
[やきいも遊び]
という、1段深い「入れ子構造」の流れに、突然であっても切り替えることができた、ということになると思います。
これは、端的には「脳の作業スペースが広がった」とでも言えそうです。
別の言い方でいえば、以前ご紹介した「心の輪郭―比較認知科学から見た知性の進化」で言われている、「認知の階層」の深さが深くなってきている、とも言えそうです。
そもそも、私が帰ってきた音がしても玄関に飛んでこずに、決して楽しい行動とはいえない「おもちゃの片付け」を続けられたこと自体が、「フルーツを食べたい」という期待感(見通し)を維持してそのために必要な行動を優先することができた、という意味で評価できるでしょう。
さらに、片づけが終わって「フルーツを食べる権利」を獲得したうえで、すぐにフルーツを取りに行かずにちゃっかりと「やきいも遊び」も楽しんで、それからフルーツを取りにいくという「行動の優先順位のコントロール」をもし本当にやったのだとしたら、これはなかなかすごいことですが、さすがにこのあたりまでくると偶然でしょうね。
ともあれ、「目の前のこと」にただ闇雲に反応するという段階から、少しでも時間の流れや見通しを理解して、行動や優先順位を調整できるようになってきているとすれば、それは大きな発達だと思います。
そういえば、娘は最近、「期待が外れること」に対してパニックする傾向が特に強まっています。
娘は妻のブログでもよく泣いていますが(^^;)、例えばそれ以外でも、かつては車の中ではとてもおとなしかったのに、最近は赤信号や渋滞で止まるたびに大騒ぎです。どうやら、車がどんどん進んでほしいという期待が裏切られることが許せないようです。
こういう行動の変化を、私たちはつい単に「荒れている」「不適応行動の増加」と判断してしまいそうになりますが、実はより深く考えてみると、ただ現実に反応している段階から、現実と「期待(想像)」を比較してそのズレに対して反応する段階に「発達」している、と考えることもできます。(その「期待」の時間軸が数秒から数十秒の長さしかなさそうなのがもう1つの問題ですが・・・)
だとすれば、もちろん不適応行動はうまくコントロールする必要がありますが、その背後で芽生えつつある新しい認知スキルについては、むしろ積極的に「伸ばしてやる」という考え方で働きかけを行なう必要があるように思います。
それは現実にはなかなか簡単なことではありませんが・・・いろいろ夫婦で工夫していこうと思っています。
今回はいつもと違い、ほとんど推敲せずに書いていますので文章が散漫ですが、感じたばかりの新鮮な驚きが消えないうちにと思って急ぎ記事にしてみることにしました。(^^)
>こういう行動の変化を、私たちはつい単に「荒れている」「不適応行動の増加」と判断してしまいそうになりますが、…
当方、7ヶ月の娘がおりますが、日々の生活の中で、「子どもの世話をする」という意識でいると、そのようなところにはまりがちになりますね。
またひとつ、子どもと楽しくかかわるための視点を教えていただきました。ありがとうございました。
ピアジェだったかが書いていますが、発達というのは、認知の枠組みを作る→その枠組みでは適応が難しくなる→新しい枠組みに作り変える、という過程の繰り返しだと言われています。
つまり、幼い子どもの場合、幼い脳みそがとりあえず世界に適応するために作った「枠組み」が、脳の発達とともにだんだん力不足になり、不適応が一時的に増えて、やがて新しい枠組みに移行することで再び適応が改善する、ということが繰り返されるのだと考えられます。
その「不適応」の状態に長くとどまってしまいがちなのが自閉症児であり、私たちはそれをうまく導いて「次の認知の枠組み」を子どもが獲得できるように働きかけなければならないわけです。
そして恐らく、健常児の子育てにおいても、そういう視点は役に立つのかもしれませんね。
これからもよろしくお願いします。
それが満たされたところで、より刺激提示として近接している父親からの声かけに反応し、そこから得られる報酬が終了したのでフルーツに向かったとすれば、報酬が得られる弁別刺激として学習済みの反応を、自分に近い位置から順に行っているだけで、入れ子構造は解釈なのではないかなと思います。
娘は、この片付けの作業が嫌いで、どんなに言ってもなかなか始めてくれないし、始めたとしてもすぐ途中で放り出してしまうんですよね。
ただ、フルーツで釣っている(笑)ときだけは、一生懸命最後まで片付けます。ですから、現時点では、片付けはそれ自体が強化子になっているということはなさそうですね。
(ところで、パニックの記事ともかぶりますが、何かをやっている、それ自体が内的な強化子だという議論は、既にスキナー的な意味では行動分析ではなくなっているように思います。)
繰り返しになりますが、パニックの記事で私の言ってるのは、本人の叫び声や振り回す手を含むあらゆる自己刺激も条件付けの材料になるということです。
当然片付けの最中のぬいぐるみの手触りや、カチャカチャする音や、片付けそのものも条件付けの材料です。
片付けについて「嫌いだ」とか、「一生懸命だ」とかの内的な表現を用いず、あくまで学習理論で表現しようと試みるのがABAです。
確かに、この記事は、認知主義的な観点から書いたものでしたので、gestaltgeseltzさんの書いている流れのほうが、記事の流れには合っていましたね。失礼しました。
まとめてコメントを書かせていただいている中で、パニックの記事の話題と頭の中で混ざってしまったようです。
ところで、入れ子構造の話は、そういう意味では認知的な「解釈」ですが、普段の娘の行動とは違う、時間性や階層性のある認知がほの見えた気がして、その強い印象をベースに書いたのがこの記事だったという風に理解いただければと思います。
間隔スケジュールにおける「空のレバー押し」を”何かをもらえるという期待に基づいている”と表現するかどうかは、詩的センスの問題ですね。