これでもけっこう幸せだ。―自閉症の息子とともに
著:山岡 瑞歩
草思社
確か、新聞の新刊広告に書名が掲載されていて、書店でも3冊くらいまとめて入荷していたので、気軽な気持ちで買って読んでみたのですが・・・。
うーん、正直に言って、とてもコメントのしづらい本です。
まあ、エッセイなので何も考えずに読めばいいと言えばそれまでなのですが、ウェブに掲載されている本の紹介文を見ると、
言葉をもたず、こだわりの強い息子。でもいつもキラキラの笑顔で走りまわり、生きる喜びを全身で表している。読むたびに胸がいっぱいになって泣けてくる感動の手記。
こんな風に書いてあることからも、どうやらこの本は「感動の本」として出版されているように思われます。・・・が、残念ながら私は、この本をそんな風に読むことはどうしてもできませんでした。
むしろ単純に、「この子はかわいそうだなあ」というシンプルな印象がまず残りました。
本書の著者は重度(恐らく最重度)の自閉症を育てている母親です。ただし、離婚時に親権を失ったために小学校卒業までの養育権だけがある状態で、小学校卒業後は子どもは施設に収容されることが決まっているということです。
全編をつうじて、子どもの状態は非常に悪いです。
家中の物を壊す、石や異物を食べる、便をいじる、激しい他傷、他動、脱走、しばしば出る高熱、てんかん発作など、およそ自閉症に関連のある深刻な症状はすべて出ているといっても過言ではないでしょう。
そして、コミュニケーションらしいコミュニケーションもほとんどできず、パニックだけが欲求を表現する手段になっているといった状態です。
もちろん、このような障害の重さそれ自体が、子どもが「かわいそうだ」と感じる最大の要素の1つです。でも、それ以上に感じたのは、「この子は本来必要なサポートを十分に得られていない」という印象です。
著者の元夫、子どもにとっての父親が、子育てや家族としてのサポートをほとんど放棄して、やがて離婚していくという「父親不在」の状況、さらにはその父親が子どもに暴力をふるっていたという記述(もちろん、これら夫についての記述は妻の側からの一方的なものですから、私はある程度割り引いて考える必要があるんじゃないかとは思いますが)に加えて、一時的ではあるにせよ正統な医学的治療よりも「東洋医学」を優先して、わざわざ慣れない電車に乗せて都会まで連れて行くことを選択したり、家庭での「療育的働きかけ」について、少なくとも本文ではほとんど何も触れられていないことなどを総合的に判断すると、やはりこの子が本来受けるべき、サポートの量と質がまったく満たされていないということを痛感せざるを得ません。
とはいえ、ここまで深刻な子どもの状況を考えると、これをもって著者を責める気にはまったくなれません。
恐らく私が同じ状況に置かれたら、あまりの絶望的状況にうつになってしまうのではないかと思います。あるいは、家族総倒れという最悪の結果を避けるために、(冷たいと批判されるかもしれませんが)やむを得ず著者の夫と同じ行動を選択せざるを得ないかもしれません。
実際、著者の文章は非常に乾いていて、内容の深刻さと比較するとあまりにも淡々としているのですが、これは著者の精神的な強さとみることができる一方で、若干、離人症的な傾向(現実感や感情の働きが弱まり、自分の感情さえも他人ごとのように感じる状態)も感じられるように思います。
ともあれ、(最)重度の自閉症児に対して、家族(父親)や社会的資源からのサポートが必ずしも十分に提供されなかった場合、子ども本人を含めた家族の生活の質(QOL)がどれほど深刻なことになるのかということを、本書は如実に示していると思います。
こういった状態に対して、著者は、書名にあるとおり「これでもけっこう幸せだ」とある意味開き直って、毎日を強く生きています。
著者がそんな風に強く生きられる理由は、子どもがいつも「最上級の笑顔で笑っている」こと、「彼自身がいちばん頑張っている」と感じられること、「生きることの素晴らしさを子どもが全身で伝えてくれること」にあると書かれています。
きっと、ここが「感動ポイント」なのだと思いますが・・・。
私は逆に、こういう記述には一抹の「危うさ」を感じずにはいられないのです。
本書の中で著者自身も書いているとおり、重い自閉症児の場合、「最上級の笑顔で笑っている」ように見えるときも、必ずしもポジティブな感情状態にあるとは言い切れないことがありますし、子ども自身が「頑張る」とか「耐える」といった「意識」に基づいて行動しているとは必ずしも言えません。そして、「生きることの素晴らしさを全身で伝えている」というのは、子どもがそれを表現しているというよりは、著者がそう感じて自らの生きる励みにしているというほうが、残念ながら適切でしょう。
・・・つまり、著者が前向きに生きる支えとしているこれらの「幸せのモト」は、現にそこに確実に実在しているというよりは、著者が子どもを外部から観察し、解釈することによって生み出されているものだと言わざるを得ないのです。
もちろん、「だからそんなものは存在しない」とは言いません。著者の目には、紛れもなくそれらが存在し、実際に生きる活力の源になっているのでしょうし、通常の子育てや、あるいはただ働く、生きることの活力にしても、こういった自分がそこにあると感じる、信じるものによって生み出されているのは普通のことです。
ただ、私が1つだけ思うのは、やはり著者の子どもは、(最)重度の自閉症に苦しみぬいている存在であることは間違いなく、その現実をしっかり見すえたい、そしてその「厳しさ」の中にこそ、その子の実存があると考えたい、ということです。
そういった子どもを「素晴らしさ」とか「最上級の笑顔」といった「美しい」ことばでラッピングしてしまうことは、かえってその本質のなかにある生のなまなましさ、エネルギーを見えなくしてしまうのではないか、と感じるのです。
これが、著者自身の考え方にも、著書としての表現方法にも、どちらにも言えることだと思います。
私は、この本からは、著者の母親としての生きざまではなく、子どもの側の生きざまをしっかり見たい、と思いました。
そして、本書では一方的な悪者として描かれている父親についても、少なくとも私が読んだ限りではそれ相応の葛藤があったことが透けて見えることも、最後に付け加えておきたいと思います。
いろいろな意味で、「ちゃんと読む」のはなかなか難しい本です。
※その他のブックレビューはこちら。
さて、この本は私は読んでいませんが、そらまめパパのレビューを読んでいて、自閉っ子3人の父として、ちょっとだけコメントさせてください。
私は広い意味での鬱病者です。詳細には、過ストレス性の自律神経機能障害、というそうです。もう丸7年になります。原因は、仕事と家庭のストレスです。自閉っ子を3人も抱えていると、そらまめパパもご指摘のとおり、やはり人間キャパシティを超えます。昔、イライラして長男を殴ったこともたくさんあります。その後、ものすごい自己嫌悪感に襲われます。何度子供達と一緒に死のうと思ったかわかりません。だから、自閉症児をもつ父親の気持ちは、よくわかるつもりです。今は割り切って、薬の力を借りて、子供達の世話をしています。
考え方が切り替わったきっかけは、やはり、子供達でした。彼らには、例え自閉っ子でも、無限の可能性がある、と私は思います。それを、もう寿命半分超えた大人が勝手に閉ざしてはいけないのです。今は以前に比べるととても穏やかに日々暮らしています(体はバタバタ子供達を追っかけまわってますが(^^;)。こういう境地になれたのも、3人の子供達と、あきらめずに子育てをしている家内のおかげです。こういったそらまめ一家さんみたいなプログで、「自分だけじゃない」と感じて、ひとりでも多くの子供達が(定型発達の子供達も含めて)、自分の可能性を自由に伸ばしていける環境になることをただただ祈るばかりですし、そのために、残りの人生を最大限に活かしたいと考えています。
そらまめパパさんの情報発信力には感服するばかりです。これからも、体にだけは十分気をつけられて、お互い子育てがんばりましょう!
変な言い方かもしれませんが、自閉児を3人かかえて育てているという状況をふまえれば、むしろ「鬱状態」のほうが自然な(というより、確率的に高い)状態なのではないかとさえ思ってしまいます。
以前ブログで書きましたが、私もいっとき鬱になりかけた(原因は病気でしたが)ことがあり、そのきっかけがそんなに劇的でなく、あるときくるりと転回してそうなる、といったものであることも体感的に理解しているつもりですので、なおさらそう思います。
JKLpapaさんがおっしゃるように子供の可能性を最大限に伸ばすのと同時に、大人であり親である私たち自身も、たった1回しかない人生を、自閉症の子どもと格闘することも「こみこみ」で最大限充実したものにしていくことが、長い人生を乗り切っていくうえで、本当に大切だと思っています。
それぞれ家庭の事情があります。その中でできる精一杯のことを、作者は命がけでやってきたのですよ。
コメントありがとうございます。
指摘されている点がよく分からないのですが、ともさんがおっしゃっていることは記事の前半で同じように受け止めています。
ただそれは、記事の後半で書いているような内容について、「かわいそうな人を批判するな」といった言論封じにはつながらないと思いますし、つなげてはいけないと思っています。
私自身、重度の自閉症児の親です。
ときに私自身も、同じような、憐れみの混じった受容的な態度を他人から向けられることがあります。
でも、それは結局、障害をもった人やその家族をそうでない人から区別して、さらに進めば「差別」することにつながっていく、危うい「配慮」なんだと思っています。
ともさんが指摘するような意味でいえば、私もこのブログを「命がけで」書いているという側面もあるのです。(というほど深刻ではなくて、生きていくポジティブな意味を見つけるためにやっている、という程度の意味ですが(^^))