聲の形(5)
大今 良時
講談社コミックス
当初、障害者いじめをテーマに始まったこの作品ですが、巻を追うにつれて、「障害」だけにポイントを絞ったような話題はほとんどなくなり、登場人物それぞれが抱えるトラウマとコミュニケーション不全から生じるさまざまな摩擦、衝突、誤解、絶望、そういったものが織りなす群像劇の様相を呈してきています。
だからといって、物語のなかから「障害」が消えてなくなったわけではないです。むしろ、「障害」が投げかける「影」は、巻を追うごとに重く苦しいものになっていると言ってもいいのではないかと思います。
それは、2つの意味においてです。
1つは、「障害をもつ」ということが、社会のなかで当たり前に生きていこうとするときにどれだけバリア(障壁)になってしまうのか、ということが残酷に示されているという点です。
第5巻は、永束が提案した夏休みの映画撮影、という話題で始まります。
硝子を映画撮影の仲間に入れたい将也に対して、「仕切り屋」の川井はこう言い放ちます。
「西宮さんが障害者だからって わざわざ入れなくてもいいんだよ? それに 西宮さんに何ができるか わからないし」
ここには、西宮硝子という存在を、個人として認めるよりもむしろ「障害者」というレッテルのほうで理解しようとする心の動きと、障害者だから構ってあげるべきだ、とか、障害者だから何もできない、といった「レッテル貼り→ステレオタイプの理解(実際には理解していない)」という、典型的な「無理解」の構図がはっきりと示されています。
また、映画編の後半では、非常に不幸な事態が発生します。
ここでも、本来ならば硝子がしっかり他のメンバーとコミュニケーションが取れたなら、問題を回避できた可能性が非常に高かったのです。
でも、実際には聴覚障害ゆえに硝子は事態を把握できず、周囲の仲間はその硝子の困難を誰もサポートせず、事態は最悪の結末を迎えます。
「非障害者」の社会のなかでやっていく、ということを選択した「障害者」の硝子は、第5巻のなかで、残酷なまでに、そこに存在する「バリア」の高さに翻弄されていきます。
そしてもう1点、第5巻で「障害」が非常に重く扱われている点ですが、
硝子が障害をもって生まれてきて、障害とともに生きてきたことが、硝子にとって大切な人たちをことごとく不幸にするという「呪い」として描かれている。
ということがあげられます。
誤解してほしくないのですが、「硝子がなにか悪いことをして、それで周囲が不幸になった」ということを言って、硝子を責めるという話ではありません。
そうではなく、物語の展開として、硝子の障害がゆえに発生するさまざまな(硝子自身には責任のないまたはほとんどない)イベントにより、結果的に周囲の人間が不幸になっていくように描かれている、ということです。
例えば、硝子の母親は、硝子に障害が見つかったことを理由に、離婚されてシングルマザーになっています。
結絃は、障害ある姉を守ろうとして社会と敵対し、不登校となっています。
佐原は、小学校時代に硝子のサポート役を申し出たことがきっかけで、最終的に不登校に追い込まれました。
将也は、転校してきた硝子をいじめたことが原因で、自らがいじめられっ子に転落しました。
どれも、硝子の責任ではありませんが、硝子には、あたかも周囲の人間がみな不幸になるような「呪い」がかけられているかのようであり、この物語では、硝子の「障害」がそのような「呪いを呼び寄せるもの」という残酷な描かれ方をしているのです。
そして実際に、硝子はこの「呪い」を自覚しており、だからこそ「自分が嫌い(第4巻)」だったのだ、ということが第5巻で明らかになります。
そしてその硝子の自己嫌悪は、第5巻の後半に進むにつれて、悲劇的な方向に転がり落ちていきます。
今回は、あえてネタバレ的な要素はここまでに抑えておきます。
このレビューを読んでから第5巻を読まれる方にも、新鮮な気持ちで読んでいただければと思いますので。
ともかく、第5巻では、単なる「いじめのネタ」としての障害ではなく、もっともっと重い、硝子の生きざまのすべてを握るようなスティグマとして、「障害」が描かれています。
そういう、少し高い目線から第5巻を読み直したとき、当ブログのテーマである「自閉症・発達障害」とも、広く重なる「障害をテーマにしたまんが作品」として読むことができることに気づかれるのではないでしょうか。
何より、本書の最大のテーマは「ディスコミミュニケーション」なのですから。
なお、本作品は、全7巻完結、連載は11月で終わることが、準公式アカウントからのツイッターで宣言されています。
はい。予定通り全七巻、今年の51号で終了予定です。僕も残念ですが、引き延ばしはとうの昔に諦めました。すみません。。応援ありがとうございますm(_ _)m RT @gon001_dradra 聲の形ってもうすぐ完結しちゃうんですか?
— 班ちょ(漫画編集者) (@betsumaga) 2014, 8月 4
本書が第5巻ですから、あと2巻で完結です。
第5巻は間違いなく、「起承転結」の「転」にあたる激動の内容になっています(一方、現在連載中の第6巻の内容は、「結」の方向で収束に向かっています)。
とても読みごたえのある、密度の高い内容になっていますので、これまで単行本を順に集めてきた方も、途中までで止めている方も、またこれまで興味がありつつもまだ買っていない方も、ぜひ手にとっていただければ、1ファンとしてとても嬉しく思います。
ただし…。
第5巻は、ものすごく続きが気になるところで終わります。
連載をまったく知らずに、第5巻を読まれた方は「うわーなんでこんなところで終わるんだ勘弁してくれ」状態になってしまうかもしれません(^^;)。
どうしても先を知りたい(でもモロのネタバレは避けたい)、という方のために、5巻を読み終わった方専用の微ネタバレエントリを別ブログで書きましたので(笑)、5巻のラストで悶絶された方はよろしければアクセスいただければと思います。
植野の肩を持ったのでしょうが、腹の内で何を考えているにしても……
口にすることが下劣だという認識すらないということにぞっとさせられました。
半ば永束のワガママで参加を決めたにも関わらず、真柴の賛成だけで掌を返してしまうあたりにも薄っぺらさを感じます。
川井は人物というよりも、裁くものの一人として描かれているのかもしれませんね。
コメントありがとうございます。
川井が、意見をあっさりとひっくり返すシーンは、連載の最近の真柴回でも出てきましたね。
正義とか道理を語っているのに、周囲の意見でその主張が180度変わるというのは、まさにおっしゃるとおり、この登場人物の「底の浅さ」を表現しているんだと思います。