聲の形 第1巻・第2巻・第3巻
大今良時
講談社 少年マガジンKC
それでは、現場、どうぞ。
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はい、こちら現場です。
現在、週刊少年マガジンで連載されている「聲の形」は連載第35話まで進んでいる(単行本に収録されているのは全3巻、第23話までですから、単行本と連載の「格差」がだいぶ大きくなりました)のですが、その第35話で、大きな動きがありました。
いま連載は「夏休みにみんなで映画を撮る」という、「映画編」とでもいうべきストーリーのなかを進んでいて、今回、ロケハンの許可を得るべく、将也と真柴(第4巻で将也と友達になる人物)の2人で、あの、将也にとってはトラウマの塊であるかつての小学校に顔を出すことになります。
そして、案の定遭遇するかつての担任、竹内。
竹内は聞かれもしないのに昔の話を懐かしそうに語りはじめ、そして、西宮の件をこんな風に話してくるのです。
「聲の形」第35話 9ページより
「よくいるんだよ あーいう 肩書きを利用して 周りに迷惑かけてもいいと思い込んじゃう人達」
「『自由と勝手をはきちがえてた』んだよ」
このシーンについて、私はツイッターで、当号発売日にこんな風にツイートしています。
今週の聲の形で、担任が西宮一家のことを「よくいるんだよ、ああいう障害を理由にして権利を主張して健常者に迷惑かけてもいいと思っちゃうような勘違いが」(一部意訳)といってるのをみて、ああ、このまんがはほんとに「本当の敵」がどこいにるのかをよくわかってるな、と改めて思った。
— そらパパ (@sora_papa) 2014, 4月 23
ただもんじゃねえなほんとに。
— そらパパ (@sora_papa) 2014, 4月 23
確かに、西宮母は硝子の転校について、多少強引なところがあったのかもしれません。
しかしながら、小学生編の描写を見れば、そこで「要求」されたことは、単に「みんなと一緒に勉強して、クラスの活動にも参加する」ことだけだった、ということは明確です。
「きこえの教室」と普通教室を行き来しながら、主に普通教室で学習する、そんなナチュラルなインクルージョンへの願いを「社会の福祉システムをかさに着た過剰な要求」「自由と勝手をはきちがえてる」ととらえ、自分のクラスが硝子を受け持つことになったことを「ハズレくじ」と評し、そのことによって起こるいくつかのトラブルを「みんな(その中には硝子は入っていない)への迷惑」ととらえ、最終的に支援学校に転校させたことを「自分の功績」、「家族のためになること」と整理してしまう、ここに学校ぐるみのいじめ、差別がある、と思わずにはいられません。
そんな竹内は、このあとのページで、硝子のことを「かわいそうな子だった」と回想します。
「聲の形」第35話 10ページより
竹内としては、「子どもは悪くない、悪かったのは親のわがままだった」といったことを言いたかったのでしょう。
でも、そこにあるのは決して硝子への切実な共感ではなく、他人事として片付けた事件に関する事象(子どもがいじめられた)への、通りいっぺんの陳腐なラベリング的感情でしかないのではないでしょうか。
硝子とその家族は、まさに「障害当事者とその家族であるがゆえに」、担任から、福祉制度に乗っかって勝手なことをいい迷惑をかける存在と「ラベリング」されます。そしてそれによって切実な願いは抹殺され、学校全体から疎外されていきました。
硝子が転校初日に、筆談ノートを見せて笑顔で「このノートを通じて仲良くなりたい」…と伝えていたとき、すでにこの学校は、硝子を排除する「システム」として動きを始めていた、ということです。
そして、その「システム」のなかに、将也も組み込まれていた。
もちろんそのことは将也を100%免罪しませんが、決してこれは「子どもと子どもの摩擦」なんていう枠の中だけのお話ではないということです。
分かるでしょうか?
小学時代に、硝子が「本当に戦っていたもの」の大きさとその闇が。
将也個人の行いなんかよりもっと深く暗い、本当の敵(の1つ)が、まちがいなくここにいるのです。
そして、それをしっかり射程に捉え、逃げることなく描いている大今先生の凄みといったら。
その「敵」に対して、他の誰でもない将也を直面させるという場面の設定の恐ろしさも。
…やっぱりただもんじゃない。
現場からは以上です。