2014年もよろしくお願いします。
さて、今年最初のエントリを何にしようかと思っていたんですが、ちょうど「聲の形」のレビューのシリーズ記事も終わってしまったし、第2巻が出るまでには2週間ほど間がありますし、以前から続いていてまだ完結していない、こちらのシリーズ記事の続きを書いておきたいと思います。
こちらのシリーズ記事では、後半部として、「しない」ということば(拒否の意思表示)を活用したコミュニケーションがなぜ「難しい」のかについて、さまざまな角度から考察しています。
前回は、「する」ということばに比べて、「しない」ということばには、「直前のことばを完全にひっくり返す」という、ことばそれ自体に非常に大きな情報量があり、かつその情報が抽象的であることから、理解し習得することがとても難しいのだろう、という話題について書きました。
この「情報量の多さ」と「抽象性」が、「する」とは根本的に異なるところであって、「しない」を学習するためには、相当程度の言語スキルの発達が前提になるわけです。
例えば、「Aをする・しない」の別と似たようなコミュニケーションスキルとして、「AとBを比べて選ばせる」というものがあります。
でも、よく考えてみるとこの2つはかなり違います。
まず第一に、選択のコミュニケーションでは、「AもBもリアルに存在する/存在させることができる」という点があげられます。
これは、実際に目の前にある、というわけではなくて、「Aを選ぶ」という行為も「Bを選ぶ」という行為も、どちらもそれ自体リアルな行為であって、「しない」のようにバーチャルな行為ではない、という意味です。
これを別の言い方をすると、例えば絵カードを作ることを考えたとき、「AかBを選ぶ」という「コミュニケーションシステム」を表す絵カードは、単にAの絵カードとBの絵カードを並べるだけで作ることができます。つまり、「選ぶ」という行為は、絵カードというシステムのなかでリアルに表現することができます。
ところが、「Aをしない」というコミュニケーションシステムの絵カードを(絵カードとして)作ろうとすると、結局、例えばAの絵カードの上にバツ印をつけるといったことでしか表現できず、絵としてのリアルかつダイレクトな表現ができない、ということです。
バツ印をつけるということは、要は絵で表現するはずの絵カードに、「バツ印」という「抽象的な言語」を取り込んで無理やり絵っぽく表現しているにすぎません。
バツ印というのは、少なくとも「絵」ではなく「記号」です。
バツ印という記号にはそれ自体意味はなく、言語的文脈に配置された記号としての意味を別途学習しなければ、その意味を理解することはできません。
そこでは「絵を見て理解する」のではなく「バツ印という記号にこめられた言語的操作を理解する」ことが必要になり、結局それは「しない」という抽象的なことばにこめられた言語的操作を理解することと本質的には何も変わらない難易度になってしまうわけです。
これ以外にも、「しない」というコミュニケーションと、一見似ているように見える「選ぶ」というコミュニケーションとの間にはいくつか見逃せない違いがあり、これらを考えていくことがコミュニケーション療育をどう考え、どう進めていけばいいのかのヒントになると思いますので、もう少し続けて書いていきたいと思います。
(次回に続きます。)
いっぱいの絵や、実例コラムを入れて、小冊子にする妄想をしてしまうくらい、NO問題は面白いと思います。
コンピューターは心を持つか?問題に発展させることもできるかもしれません。コンピューターが好き嫌いをしたり、NOを言ったりしたら、人間には不便なので、実用化はされないでしょうが、思考実験としては、{どう}したら、プログラムにプログラム自身に意味を再帰させるNOを生成させられるか、は、非常に[意味ある]テーマです。
そらぱぱさんは、ほんとに根気強い。遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。私の研究の方も、師匠が証明の大詰めにかかり始めました。自分自身は素材を集めている段階ですが、このような、情報処理と判断過程について、一端が解明されそうです。
コメントありがとうございます。
また、こちらこそさらに遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。
こちらのシリーズもだらだら続けていますが、題材として本当に興味深いんですよね。
このシリーズ記事を更新するたびに、最初のほうの記事で書いていた通り、娘がはじめて「しない」をマスターしたときの感動がよみがえります。
最近は、トイレもそうですし、本人が希望するかしないか分からないことは、すべて本人に聞いてわかるようになったのでほんとに助かっています。
(「トイレ、いく?」と聞くと「トイレ」もしくは「しない」と答えます。)