前回書いたとおり、「しない」ということばは、背後に「時間の概念」や「将来への見通しをもつスキル」などを前提としており、それらのスキルに乏しい、知的障害の重い自閉症児にはとても理解や活用が困難なことばである、と考えられます。
この点について、さらにもう少し深堀りしてみたいと思います。
なぜ、「しない」ということばが、いくつもの複雑な概念を理解していないと使えない、難解なことばになってしまうのか。
それは、
・「しない」ということばそれ自体にまったく実体がないこと。
・にもかかわらず、「概念としてはとても多くの意味をもっていることば」であること。
ということが理由だと思います。
「しない」というのは、直前の行為を「否定」することばです。
否定、というのは、英語でいうとNOTになりますが、まあ少し大げさにいえば「論理学のことば」ですね。
言い換えると、「ことばとしての意味をひっくり返すことば」です。
リアリティのない概念上の議論ばかりしていることを「ことばのお遊び」などと揶揄することがありますけど、「しない」=「NOT」というのは、ことばとして発した意味をことば上で反転させるという、純粋に「ことばを操作することば」なので、ある意味まさにこの「ことばのお遊び」に該当するという側面があります。
操作している対象が「ことば」ですから、実体がありません。
「おまいり・しない」ということばの「しない」の部分それ自体には具体的な意味がありません。
「おまいり」ということばとくっつくことで、「しない」ということばには、「おまいりという行為をする」ことを否定、ひっくり返すという意味が初めて生まれます。
しかも、こんな風に実体のない概念だけのことばなのに、「直前のことばを完全にひっくり返す」という、非常に大きな「意味・機能」を持っているから、厄介なのです。
ここが、本来は対語であるはずの「する」ということばと完全に異なるポイントです。
ある行為、「A」を「する」という場合、実は「する」ということばにはほとんど付加的な意味はありません。
なぜなら、「A」ということば自体に、それがどのような行為を指しているかの情報は含まれており、仮に「する」ということばの意味が分からなくても、「A」の意味さえ分かっていれば「Aをする」ということばを「まあまあ正しく処理する」ことが可能です。
つまり、「おまいり・する」は「おまいり」だけ分かっていれば理解可能ですし、「といれ・する」も「といれ」だけ分かっていれば理解可能です。
要は「する」には、ことばとしての情報を増やしたり意味を大きく変えたりする力はほとんどなく、せいぜい「文章を整える」程度の機能しかありません。
(実際、ことばをおぼえたての子どもや、語彙の少ない障害の重いお子さんは、このように「する」を省略して動詞を使いますよね。)
これに対して、「おまいり・しない」や「といれ・しない」というのは、「おまいり」や「といれ」の意味だけが分かっていた場合には、その「分かっている部分だけの理解」と、ことばの本当の意味とが、まったく反対となります。
つまり、「しない」には、「する」とは対照的に、ことばとしてものすごい「情報量」があるのです。
実体のまったくない、「ことばを操作することば」であることに加えて、「しかも、ことばの意味をまったく反対にしてしまうという大きな情報量をもっていることば」であることが、言語スキルに困難を抱える(特に知的に重い)自閉症児に、この「しない」ということばを教えること(子どもからみると「理解すること」)を難しくしています。
(次回に続きます。)