今回とりあげるのは、「しない」と言う(ことでやりたくないことをすることを回避する)というコミュニケーションを「教える」こと自体がもつ難しさの1つとして、「『しない』を教える場面設定」が、子どもにとってネガティブな場面となり、そのために子どもの感情的な反応を誘発してしまうリスクが高い、という点について考えたいと思います。
ここで、何らかの行動「A」について、「しない」と言わせる療育(スキル訓練)をやる、そういう場面を想定してみます。
例えば、疲れて早く家に帰りたいと思っているときに、「おまいり、する?」と聞かれて、「しない」と答える、そういうトレーニング場面をイメージしてみてください。
この場面で、「A(例:おまいり)」という行為に誘われたときに「しない」と(子どもが)反応する、ということは、当然ですがそのタイミングではAは「やりたくないこと」なわけです。
しかも、いま想定しているのは、「しない」を学習してもらうという段階です。
この段階では、これまた当然ですが「しない、と言えばやりたくないことを回避できる」という学習はまだできていないわけです。
そういう状況で「Aをする?」と聞いたときに、子どもの側からはどういうことになるでしょうか?
それはつまり、
・やりたくないことをやれと言われている。
・しかも、やりたくないということをまだうまく意思表示できない。
という状態になります。
この状態に対し、もっとも自然に発生する反応は(「しない」が言えないのであれば)、「がまんしてやる」、もしくは「パニックして回避しようとする」のいずれかです。
このうち、前者の「がまんしてやる」という反応を見せる子どもの場合、実は扱いやすそうに見えますが、療育という観点からは実は厄介です。
というのも、「Aをやる?」と聞かれて、特段のネガティブな反応なくAを実際にやってしまうわけですから、「しない」というコミュニケーションの学習機会が発生しません。
このような状態は、コミュニケーションを教える親の側からみても、やりたいと思って楽しくやっているのか、やりたくないのに我慢してやっているのか、簡単には分からなくなるので、子どもの行動に対する適切なフィードバックができなくなります。
こういう状態だとトレーニングは端的に「できない」と言えます。
一方、「パニックする」という反応の場合、少なくとも「しない」と同等の意思表示はしているわけです。
その表現方法が不適切なだけですから、そのパニックによる「やりたくない」という反応を、より適切な「しない、ということば」に変えていけばよく、分化強化学習のやりかたが使えることになります。
このように、コミュニケーション療育の根っこにあるとても大切なことは、いつどんな場面であっても、子どもの「思っていること、感じていることを表出する」ことを伸ばすことを意識すべきであり、それらを抑制するような働きかけは(可能な限り)避けるべきだ、ということです。
これは、「しない」のような比較的高度なコミュニケーション以前の、単純な欲求表現(いわゆるマンド)の段階から意識していなければならないことです。
嫌がったり欲しがったりしてパニックする、という反応は、実はとても大切な「思いの表出」であって、「迷惑な問題行動」ではありません。
その「思いを表出する」というとても大切な「芽」を摘まないで、その「芽」を「より適切な表出手段が使えるように導いていく」ことこそが、「難しい子ども」に対するコミュニケーション療育でもっとも意識すべきポイントだと思っています。
そういう「コミュニケーションの基礎体力(=パニックでも何でも、思ったことをどんどん表出できる力)」があって、初めて、より複雑な「しない」のようなコミュニケーションに向かっていける、のです。
(次回に続きます。)