ただ、これまでの議論をふまえて考えると、この意見は、本来「過程」であるはずの療育を、ある「瞬間」に還元するという誤解に基づいている可能性があると考えられるのです。
既に書いたとおり、自閉症療育の目的は、「アフォーダンス知覚を発達させ、環境との相互作用の能力を高め、ニッチの広がりと豊かさを向上させていくこと」にあります。つまり最初に考えるべきは、「アフォーダンスを知覚すること」、言い換えると、「環境がもつさまざまな『意味』や『価値』に気づくこと、そしてそれを実際に利用できるようになること」にある、ということができるでしょう。
自閉症児は、その部分にまさに困難を抱えていて、現実の社会・環境そのままではそこにあるアフォーダンスが十分に知覚できない状態にあるからこそ、さまざまな具体的な障害が現れてくるのです。これは、車のギアがニュートラルに入っていて、アクセルを踏んでも(周囲からの一般的な働きかけを行なっても)車が前に進まない(その働きかけを子どもが受け止められず、相互作用が始まらない)という状態にたとえられるでしょう。
ですから、例えば課題場面における構造化の意義とは、そういった困難を抱えた自閉症児にとっても理解できるような特別な環境を提供することによって、まずは重要なアフォーダンスのいくつかが知覚されるようにする、つまりさまざまな発達課題について、車にたとえればギアを入れてアクセルを踏んだらちゃんと前に進むようにする(こちらからの働きかけがちゃんと相互作用を生むようにする)ための、重要かつ有効な「環境設定」である、と言えると思います。
そしてその構造化は未来永劫続くものではなく、子どもの「環境との相互作用能力」が十分に高まれば必要なくなるものです。逆にいえば、訓練によって到達した水準においてもまだ必要な「構造化」は、子どもの生活の質を維持するためには継続して残すべきものだとも言えます。
こう考えてくると、TEACCHの構造化は、(TEACCHと対立することも少なくない)ABAにおける「プロンプト」と同等の機能を持っているケースも少なくないであろうことにも気づきます。
「環境への働きかけ」に関連する第2の話題は、「道具」に対する働きかけです。
このシリーズ記事の冒頭で、私たちは「かけ算ができる」と自認しているけれども、それは紙やペンといった道具を介して、初めて実現できる能力だ、ということを書きました。言い換えると、私たちが「能力」だと思っていることは、多くの場合、私たち自身の身体だけでなく、紙やペンといった道具を使うことによって実現可能なものを指しているということです。つまり、私たちは「道具」によって、自らの能力(あるいは身体)を拡張しているのです。
そして大切なことは、ある能力を実現するための「道具」は1つではないし、それぞれの使い勝手も異なる、ということです。
かけ算の例に戻れば、紙とペンを使う代わりに電卓を使うことももちろんできますし、少し昔ならそろばんを使う人もすくなくなかったでしょう。(私も習いました)
逆に、これらの道具を何らかの理由で使いこなせない人にとっては、かけ算は純粋に頭の中で暗算でこなさなければならない課題となってしまい、難易度が非常に高くなってしまいます。
どこかに移動するというのも同じですね。使える交通手段が限られると、目的を達成することがより難しくなります。
私がニューヨークに出張したとき、マンハッタンの移動手段として地下鉄は使えたのですが、バスは良く分からなくて自信がなかったので使えませんでした。マンハッタンでは、大ざっぱにいうと地下鉄は南北に、バスは東西に動いているので、私のマンハッタンでの移動は地下鉄で南北方向に移動して、その後東西方向に歩いて目的地に達する、といったものになりました。これは、目的地の場所によっては非常に不便なことがありました。
皮肉なことに、社会というのは、能力のある人ほど生活が容易で、そうでなければないほど、同じ目的を達成することさえ困難になっていくのです。そしてその困難さ・容易さを決める1つのキーポイントになるのが「道具の使いこなし」にあるのです。
だとすると、ここにもう1つの重要な「働きかけ」の余地があることに気が付きます。
(次回に続きます。)
特別支援学校に勤務しているgogh54と申します。ABAやTEACCHのこと、それから様々な書籍、これまでそらパパさんのサイトをたくさん参考にさせてもらって勉強させてもらっています。
私の周りには「環境への働きかけ」を目的として行っているようなところがあり、とても違和感を持っていました。でもそらパパさんの「道具」という言葉を見て、なんとなく腑に落ちたというか、納得できました。
これからもお邪魔させていただき、たくさん参考にさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
いつもお世話になってる。
「ゲルストマン症候群」という高次脳機能障害があって、これは手指の失認を招くのですが、同時に失書や失算も招くんですねぇ。
環境が脳の延長であるように、脳も環境の延長って事ですかね。
逆もまたそうでしょうけど。
私も、「環境への働きかけ」という取り組みは、多分に誤解されつつ実施されているという印象を強く持っています。そのことを書きたくて、今回のシリーズ記事を書きはじめました。
「環境」と「からだ」の接する付近の境界というのは、特に機能面から考えると、実際にはとてもあいまいなものだと思います。その「境界」で活躍するものの1つが「道具」だということだと思います。
gestaltgeseltzさん、
ご指摘の脳機能障害はよくは知りませんが、脳のワーキングメモリは狭い意味での脳の認知的過程の「外側」、つまりどちらかというと環境の側にある「メモ帳」や「電卓」と考える立場もあり、私自身もその立場をある程度支持しています。(認知哲学者の信原幸弘氏がこの考え方ですね)
手指の失認というのは外から見えている「現象」で、実際には脳の認知的過程を環境の側に拡張していく動きの障害なのかもしれませんね。
まさに「cogito ergo sum」ですね。
しかし何が自分で何が環境かというのは最終的に循環論にならないんですかね?
ある意味、皮膚より外側が環境とか、Central Nervous Systemより Peripheral側が環境とか、そういう線引きは明白だとおもいますが、・・・。
そういった明白な線引きはなく「比較的環境側-比較的本質側」というPervasiveな奥行きを持つものだという解釈ですか?
そういう意味では、逆にそらぱぱさんにとってのこのブログも、比較的自己なんでしょうね。
循環論ではなく「入れ子構造」なのではないかと考えています。脳のワーキングメモリも一種の「外側」だ、と考える立場は、ある「外側」からみて「内側」に見えるものも、さらにその中では「外側」と「内側」に分けることができる、ということを指しています。
逆に道具を使うときに「自己」が拡張するような感覚を持つことから、ある立場からは「外側」だと思われることも、別の立場からは「内側」と解釈されることがあるということが分かります。
ここで、「内側」の領域を拡張していくような哲学的立場をとるのがギブソン理論、「内側」の領域を絞り込んで本質に近づいていこうとする哲学的立場をとるのがコネクショニズム、ということができるのかもしれません。
そして、私がとっている「一般化障害仮説」の哲学的立場とは、この両者は連続していて、入れ子構造をとっている、そして徹底的に「本質」にさかのぼっていったときに見えるであろう認知の根源機能とは「抽出(抽象化)」と「一般化」である、という考え方だと整理しています。
無限の入れ子ってのは怪しげな雰囲気。むしろリゾームっぽい雰囲気なんだけど。
しかし、認知機能の本質・根源機能が「抽象化」と「一般化」だとはとても思えない。
たとえばそのあたりで定形発達と非定形発達の差異が出始める、ぐらいなら仮説としてありだろうけど。
もちろん無限後退にならないと思っているからこそ、「循環論ではなく入れ子構造」と書いたつもりです。
一般に考えられている「皮膚の内側-外側」という基準線に対して、「外側」にゆるやかに拡張していく方向性をもつのがギブソン理論(ですから「最外」というのは明確に境界づけられずに拡散していくようなイメージでしょう)であり、「内側」にしぼりこんでいって、脳の情報処理の本質を純粋化しようというのが計算主義、特にコネクショニズムだと思います。(ここでは、「最内」には、純粋な表象の操作が残ると考えられます。が、この「表象の操作」さえ「外側」であり、脳の情報処理の本質はニューロンの反応パターンの全体的な変化だけである、というのが、最も過激なコネクショニストの主張です。---私はこの説もかなり好きです。)
でも、それらは「境界」の位置を単純にずらそうという働きかけではなく、「内」と「外」とが多層的に折り重なったものであるという理解だと思います。
「認知処理の入れ子構造」とついていえば、これは「一般化障害仮説」の12-b、12-cの回や、ジェフ=ホーキンスの「考える脳 考えるコンピューター」のレビューでも触れているところですが、脳の情報処理は、たかだか数十個のニューロンを模したユニットで実現できる「抽出(抽象化)」と「一般化」という「根源的な」情報処理機能が、これまた多層的に入れ子構造になって、最終的に高度な知性を創発させていると考えられます。
(gestaltgeseltzさんとは、「抽出(抽象化)」「一般化」というキーワードでイメージされている処理が違うのかもしれません。)