療育において、「子ども自身のスキルトレーニングをすること」と、「環境の側に介入すること」は、両者を近づけて「接点」を作り出す(そしてアフォーダンス知覚を獲得・発達させる)という共通の目的を持っています。
本シリーズ記事の冒頭でも触れたように、「環境の側に介入すること」について、それは子どもを甘やかしているだけだといった否定的な立場があることも知っています。
でも私は、こういった働きかけに対して払う努力は、子どもの訓練に努力することと同じように大切だと思いますし、同じように子どもの将来の社会適応に有効だと思います。
これは、安直な社会依存論でも、子どもを「いたわる」といったような抽象的な議論でもありません。
繰り返し書いているように、「障害をかかえた子どもが社会に適応すること」とは、必ずしも「その子どもが健常児と同じレベルまで訓練されること」ではありません。それだけが唯一の目的の実現方法だと考えることは、療育する側にとっても、そして言うまでもなく子ども自身にとっても過酷であるばかりでなく非生産的だと考えます。
私たちがかけ算をするときに紙やペン、電卓を使うのと同じように、療育の場面において環境の側にも適切な介入を行なうことによって子どもの社会適応の機会と可能性を増すことは、子どもにとっても療育者にとっても、「ハッピーで生産的な療育・社会適応」を実現するために必須のことだと思います。
この辺りの議論を、再びギブソン理論に添ったかたちで整理してみます。
私たちも自閉症児も、身近な環境、つまり特定のニッチの中で生きています。障害を持つ子ども自身への働きかけは、子どもが自らニッチを開拓し豊かなものにしていくことにつながりますし、環境への働きかけは、ニッチの側に手を加えることによって、やはり子どもにとってのニッチを豊かで広がりのあるものに変えていく効果があります。
ある目的を実際に達成できるという経験をすることによって、子どもは初めて環境の中に何らかの「意味」(アフォーダンス)を知覚し、学習することができます。ギブソンのアフォーダンス理論とは、別の言い方をすれば、「ヒトは意味のないものは知覚することさえできない」ということでもあります。
環境の側への働きかけによって子どもが目的を達成できれば、次からは子どもはその環境に対するアフォーダンスが知覚できるようになり、それを利用するために自ら動くことができるようになります。そうすれば、今度は環境の側の調整がなくても子どもは目的を達せられるかもしれないのです。
療育とは、一言でいえば、「子どもと環境との接点に働きかけ、相互作用を促進すること」です。そのために、子どもの側には「訓練」、環境の側には「能動的な介入(調整)」という働きかけを行なうわけです。それぞれは一見ばらばらに見えますが、あくまでも「両者の接点における相互作用」こそが、療育の本質的なターゲットなのです。そう考えると、実はこの2つは、本質的に「同じものである」ということすら言えるのではないかと思っています。
ところで、ここまでの議論は、実は、近年強く主張されるようになった「ノーマライゼーション」の考え方を少し変わった角度から説明したものにもなっています。
次回は、このノーマライゼーションについて少し書きたいと思います。
(次回に続きます。)