で、昼は近所の牛丼屋に二人で牛丼を食べに行き、それ以外は家でのんびりとしていました。
「のんびり」の時間には主に、私は趣味のウクレレ作り、娘はタブレットで音楽鑑賞をやっていました。最近、娘はきゃりーぱみゅぱみゅの「インベーダーインベーダー」と「ラジオ体操第一」がマイブームです(笑)。
ところで昨日、そういう時間をすごしている中で、「ランチの時間」と「家にいる時間」、どちらにも共通する1つのコミュニケーション療育についてつらつらと思い出していたので、今日はそのことについて書いてみたいと思います。
まず、ランチのほうに関連する話題です。
いつもの牛丼屋にいくとき、娘はいつも同じルートを選ぶのですが、そのルートは行きと帰りで違います(つまり、行きと帰りで異なる1つのパターンのルートを必ず選ぶ、ということです)。
そして、そのうち「帰りのルート」の途中には小さな神社があり、娘はそこを通ると、たいていそこに立ち寄って、「おまいり」していきます。
昨日も、「おまいり」をしました。
ただ、数回に1回、その神社の近くを通っても「おまいり」しようとしないときもあります。(面倒くさかったり、早く家に帰りたいときもあるんだろうと思います)
そういうときは、そのまま素通りさせないで、あえて私たちのほうから娘にこう尋ねることにしています。
それは、後に続く娘の答えを引き出すトレーニングの機会にしようとしているからです。
「○○(娘の名前)、おまいりは?」
行きたくないときの娘の答えは、こうです。(そして、私たちもこれを期待しています)
「しない」
娘は、何かを促されて、でもそれをやりたくないときに、「しない」と言って拒否します。
これだけを抜き出して書くと、「言うことを聞かずにぶっきらぼうに断る困った子ども」に見えるでしょうか?
でも、全然違うのです。
私は、娘が「しない」と言って何かを断るたびに、本当に嬉しくなります。
なぜなら、この「しない」という「コミュニケーション」を獲得するまでの道のりは、本当に長く険しいものだったからです。
その嬉しい気持ちは、ランチタイム以外のもう1つの「しない」、つまり、「家でのんびりとしている時間」に発せられる「しない」を聞くとき、一層強くなるのです。
(次回に続きます。)
まだ連載が始まったばかりなので、どういう切り口かはわかりませんが、NOと判断し表現する尊さ、うちのムスメも実感しています。そらパパさんがどう分析し働きかけていらっしゃるか、楽しみになりました。
うちの場合は、昨年が、全てNOの時期でした。3歳後半での全てNO表現は、なかなか対応が大変だったものです。食事、排せつ、睡眠といった生命の根本にかかわる事も即座にNO表現し、自分の発言に引っ張られて混乱していました。多弁なだけに、身近な人にも障碍の特性と気づいてもらえず、出口が見えませんでした。明らかに痛いけがの時も、イタクナイ‐と絶叫して泣いていました。選択を促すこと自体がパニックに直結していたのです。
必死で、{どうしよっかなーと言えたら偉いね}{いらないかも、てことだね}と、引き伸ばしやあいまい表現を伝えつつ、小さな頭の爆発が収まる時期を待ちました。今も、本を読んでいて、本人が{あ、この子 かも が使えてるね、偉いね。}と言ったりします。すると、あの日々を思い出して、懐かしいです。
コメントありがとうございます。
返事が遅くなってしまいました。
Noと答える、というのは、コミュニケーションとしては、言われたことに従うことよりも「一段上」の難易度にあるんじゃないかな、と思います。
なぜなら、何か指示されていることがある、と認識しつつ、かつ、その指示に従わないという「メタ」の判断をしているからです。
で、こうやって書いていて、この「メタの認識」ということでいうと、もしかするともう1つのシリーズ記事である「ホワイトボードで将来の見通し、時間の概念がついてきた」ことと関係があるのかもしれない、とふと思いつきました。
そう考えてみると、療育というのは、複雑に折り重なった奥の深いものだなあ、と改めて思います。