さて、夕食のメニュー提示をきっかけに、娘と家族との間で始まった「ホワイトボードを使ったコミュニケーション療育」は、結果として娘に「時間の流れ」という、非常に大切な要素を伝達する機能を得たころで活用範囲が広がり、それまでの方法では解決できなかった(であろう)、「夕食後の手持ち無沙汰な時間を構造化し、見とおしがつかないことによる崩れ・パニックを軽減する」という別の目的にも応用することができました。
今では、娘は夕食が終わると、妻に「かいて」と言ってホワイトボードを手渡し、夕食後の家事の流れをホワイトボードに描くことを要求するようになりました。
そして、その家事が1つ終わるごとに、その家事のイラストを着実に消していくことを求め、もしうっかり消し忘れてそのまま次の家事を進めたりすると、怒ってすぐに消せと詰め寄ってきたりします。
ちなみに、既に書いているとおり、夕食の間は夕食の間で、別の夕食メニュー用ホワイトボードに描かれた夕食の流れ(夕食 → 食後の果物 → 親の晩酌タイム(笑))を順に消していくことを要求してきます。(ちゃんと消さないと先に進めません。)
ホワイトボードによるコミュニケーションを始めてからは、娘はホワイトボードに情報を描いたり消したりというステップをきっちり取ることを非常に重視するようになり、そのぶん、イラストを描く側の親の負担は、もしかすると少し増えたかもしれません。
また、「ホワイトボードに情報を描く」という点だけに注目すると、それがないと先に進めない分、ある意味何かをするために追加の時間がかかるようになった、ともいえます。
ですから、こういう娘の行動の変化を傍から見ると、自閉症児特有の「こだわり行動が出てきた」といったように見えるかもしれません。
でも、そうではない(というか、そういうレッテルを貼るような見方をするのはあまり適切ではない)と思います。
娘にとっては、先が見えない不安を解消して、自分が分かる見通しを立てられるための頼りになるものが、事実上このホワイトボードしかないのだ、ということなのだと思います。
私たちだって、たとえばまったく言葉が分からない海外で迷子になって、使える情報が手持ちの貧弱な地図1枚だけになってしまったとしたら、その地図に首っ引きになって、必死にそれだけを頼りに何とか問題を解決しようとするでしょう。
そんなときに、仮に近くにいた子どもがいたずらでその地図をかっぱらって走り去ってしまったら、それこそ死に物狂いで追いかけて何がなんでもその地図を奪い返そうとするのではないでしょうか。
それを「こだわり」とは言わないと思います。
大切であり頼りにしているものを、実際に大切にし心から頼りにしている、そういう気持ちの当然に行動に現れている、それだけのことなのだ、と思います。
それが仮に、外から見て「こだわり行動」と映ったとしても、それに安易にそういったレッテルを貼ってネガティブな評価をするのではなく、むしろ逆に「娘にとって、このツールはとても大切で価値があると感じられているんだ(だから、こちらもその期待にしっかり応えよう)」と理解することが、私たち支援する側にとっては大切なことなんだろう、と思います。
そして、夕食のメニュー、夕食後の家事、と活用範囲が広がってきたホワイトボードの「活躍の場」はこのあとさらに広がっていきます。
(次回に続きます。)
うちの子が、帰宅直後と夕食後に崩れるのが続きました。崩れた時に激しい暴言と暴力を伴ったので、真面目にホワイトボードを再導入しようかな、と考え始めてます。
それこそ書くのが面倒なんですけど、崩れてやらかしちゃって、上手くいかなくって悲しんでいる本人を見ると、自閉特性ってこういうときつらいだろうな、少々の手間で、新学期ストレスともども軽減できるなら、と、思います。
コメントありがとうございます。
はい、このエントリは、もう少し引っ張ってあと何回かは続けていくつもりです(手持ちのネタもそんなにないので、引っ張れるだけ引っ張ります(笑))。
ホワイトボードもそうですけど、なにか「手間」をかけるのは、別の部分で「手が抜ける(=ラクになる)」こととセットにしていきたいところですよね。
その「ラクになる」部分が、支援する側なのか、支援される側なのか、それはどちらでもいいのではないかと思います。