前回の記事くらいから、少し昔話を書いていますが、もう少しお付き合いいただければと思います。
これまで娘への療育として取り組んできた、さまざまな「時間の構造化」の働きかけの結果から、娘にとって、時間を構造化すること=時間を時間として認識し、理解し、その知識を実際の生活のなかで生かしていくことは、とりわけ難しい、もっとも困難なことの1つであるらしいということを実感している、という話を書きました。
これはもちろん、現在でも同じです。
改めて考えてみると、「時間」というのは非常に難解な概念です。
時間は、目に見えません。
そして、よくよく考えてみると「実体」そのものがないとも言えるでしょう。
あくまでも、我々人間が作り上げた「概念」に過ぎないわけです。
私たちは「時間」という概念を当たり前のように使っていますが、突き詰めて考えていくならば、それが何なのか、というのは実はとても難しい問題だと気づきます。
「時間とはなにか」というのはいまだに哲学のポピュラーなテーマでもあり、また物理学においてはアインシュタインの相対性理論で扱われるような難解なテーマです。
空間の謎・時間の謎 ― 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学(中公新書)内井 惣七
「時間」を哲学する (講談社現代新書)中島 義道
時間は実在するか (講談社現代新書)入不二 基義
そんな、私たちにとっても「要は何なのか」がよく分からない「時間」というものを、どうやって「分かっていない子ども」に教えればいいんだ、というのが根幹的な問題の1つだということです。
(以前も書きましたが、療育というのは、ときに(しばしば)哲学的な問いとなります。)
加えて、時間という概念を理解するには、数についての一定以上の認知力が不可欠です。
つまり、「大きい・小さい」「前・後ろ」「先・あと」「増える・減る」といったさまざまな数的概念の理解であったり、1から12(ないし24、60)までの数字を見て、少なくともそれらの順序くらいは分かることなどが必要になってきます。
娘は、この領域のスキルに非常に大きな困難を抱えていることが分かっています。
各種の発達検査を受けると、これらの数的概念についての理解・数的操作スキルの成績が際立って落ち込み、あらゆるスキルのなかでも常に最低となります。
ですので、療育施設や学校の先生からも「数的概念の理解の難しさが、日常生活のなかでは順番が分からない、将来の見通しが持ちにくい、待つということが理解しにくいなどの困難として現れてくるのだと思います」というアドバイスを受けています。
実際、娘と接していると、この部分でしばしば問題にぶつかることは非常に明確です。
だからこそ、PICマイコンについてゼロから勉強し、アセンブラプログラミングに挑戦してまで電子タイマーを自作するくらい、この領域についてはあらゆる試行錯誤を続けてきているわけです。
(電子タイマーについてはこちらの記事もどうぞ)
もちろん、それら働きかけの結果として、伸びたと感じられる部分はたくさんあって、以前の状態を考えると、はるかに前進はしているとは感じられまs。
それでも、娘に「時間」という概念を(生活上困らないくらいに十分に)理解させることができた、あるいは理解「させる道筋が見えてきた」と感じられるところまでにはなかなか至っていない、というのが正直なとkろだと思います。
そんな「時間」に対する試行錯誤を繰り返しているなかで、それとは少し別の系列の働きかけとして出てきたのが、既にお話ししてきた「夕食のメニューをホワイトボードのイラストで提示する」というものでした。
そしてさらにそこから、「ホワイトボードに描かれたメニューのイラストを、食べ終わったら順次消していく」という新たな取り組み(視覚的支援)が生まれました。
そして、さらに続いて「夕食後に崩れる」という問題(課題)が生じ、その問題への仮説として「夕食後の時間を構造化し、見通しを持たせることが有効なのではないか?」というものを設定することにしたわけです。
(ここまでが、既にこれまでのシリーズ記事で書いてきたことでした。)
だんだん、つながってきました。
(次回に続きます。)