鉄腕アトムと晋平君―ロボット研究の進化と自閉症児の発達
著:渡部 信一
ミネルヴァ書房
第1部 鉄腕アトムと障害児教育
日常生活はあいまいで複雑であるという前提
単純なものから複雑なものへ、スモール・ステップで発達していく?
ロボット開発のキーワードは記号計算主義
ロボット開発の行き詰まり―何が間違っていたのだろう?
障害児教育の行き詰まり―専門的な「訓練」は最高?
「人間らしさ」追求のための新たな方向性
「弱さ」と「つまづき」の再発見
第2部 自閉症の晋平君と鉄腕アトムの共通点
幼児期
小学校
ことばの獲得
訓練
最近の晋平
ロボット化する子どもたち―「学び」の認知科学
著:渡部 信一
大修館書店
第1部 二〇世紀の「学び」探求を振り返る
「学び」の常識が作られるまで
頭の中で何が起きているか
ロボットの「学び」を考える
行き詰まりと将来の方向性
第2部 二一世紀の「学び」を方向づける
日本の「学び」をとらえ直す
高度情報化時代の「学び」
「学び」の新しいパラダイム
第3部 自閉症の「学び」から考える
あいまいで複雑な日常で学ぶ自閉症
自閉症「学び」のメカニズム
自閉症児・晋平との一五年
当ブログで先日までシリーズ記事として書いてきた、自閉症の「一般化障害仮説」では、冒頭に「ロボット工学の挫折と復活にヒントを得た」という話が出てきます。
私自身はつい最近まで知らなかったのですが、これとほとんど同じ始まり方で書かれた自閉症論が既に存在していて、しかもそれが当時おおいに議論を呼んだ本だったということを知り、読まないわけにはいかなくなりました。
それが、この2冊の本だったわけです。(2冊ともちゃんと買って読みました!・・・Amazonのマーケットプレイスからですが。)
ただ、読んでみてはっきり分かりましたが、この本に書かれていることは私の考えとは全く違います。むしろ正反対だといってもいいでしょう。
なぜ出発点が同じで結論が正反対になるのか、これはなかなか興味深い考察だと思うので、その辺りを書いてみたいと思います。
ただし、議論の前にはっきりしておきたいことは、この2冊の本(ここからは、「鉄腕アトム・・」は「前著」、「学びの・・・」は「後著」と呼びます)は、どちらも認知科学の好著とは言いがたく、私としては評価できない、ということです。
前著は「認知科学からみた自閉症療育論」、後著はやや扱う領域を広げて「認知科学からみた教育論」という体裁で書かれているのですが、前著において「認知科学」と呼ばれているのは、実は初心者向けの科学啓蒙書である100ページあまりの岩波科学ライブラリー「アフォーダンス-新しい認知の理論」の内容をほとんどそのまま引き写しただけの内容に留まっています。(例えば、著者が相当なボリュームで自分の文章として書いている、ロボットがフレーム問題に悩むエピソードは、このアフォーダンス本の中で紹介されている哲学者デネットの議論の意訳を、ほとんど一字一句そのままコピーしたものになっています。)
後著ではさすがにこの本からの露骨なコピー引用は影をひそめますが(その代わり前著で重要キーワードとして扱われていたはずの「アフォーダンス」ということばがすっかり消えてしまうのが不思議ですが)、今度は逆に前著の自分の記述が膨大に引用されています。引用として明示されている部分は一字一句同じ、そうでない部分もほとんど同じ内容で、内容ではなく文章そのもののレベルで、大幅な重複があります(イメージとしては半分くらいかぶっています)。別々の本のつもりでこの2冊を買ったら、あまりの内容の重複に驚くのではないでしょうか。
後著の新しい部分といえば「しみ込み型教育」と呼ばれる日本の伝統芸能的な教え方についての部分ですが、これを認知科学と呼ぶのはちょっと無理があり、結論を導くための強引なパッチワークの感が否めません。最後に「しみ込み型教育モデル」が示され、認知科学っぽさが出てくるのかと思うと、そこで語られているのは、「周囲の人とのエントレインメント(共振)によって学びが進む」といった観点的・現象記述的なイメージだけで、仮にそれが正しいとしても、「外在する他者の行為を知覚し、それを自らの行動として反映する」というエントレインメントのプロセスがどのように起こるのかといった問題意識が出てきません。「認知科学」と呼ぶなら、この部分こそが真に重要かつ関心を呼ぶところのはずなのですが・・・
それ以外についても、日本の「古きよき」教育法にもいいところがある、という話題から、教育の西洋化が教育の崩壊や子どもたちが荒れている原因じゃないかといきなり結論づけたり、「高度情報化社会では価値観が多様化して情報の正誤もめまぐるしく変化する」という前提から、なぜか日本の伝統芸能や徒弟制度的な教育法こそが新しい時代にふさわしい、という結論に飛躍したりします。(個人的には、同じパターンを繰り返し教え込む伝統芸能的な教育法は、教える情報が多様化して正誤が変化したら機能不全に陥るように思えます)
そのほかにも、認知「科学」と銘打っておきながら、科学的な統計処理によって導かれた結論はなく、個別のエピソードから一般論を語ってしまうという「エピソード主義」に終始していることや、後著で「行動主義心理学の教育現場での横行が目に余る」と批判していながら、すぐ後で肯定的に紹介されているある徒弟制度における技術の教え方が、典型的なABAの「バックチェイニング」だったり(本書の中では別の概念で説明されていますが)と、内容の深さや厳密性に関しても疑問が残る内容です。
細分化された指導項目を積み上げ式で教えるという還元主義的な教育法・療育法に疑問を投げかけ、環境の複雑さをそのまま受け止め、その中で試行錯誤することで自ら環境の「意味」を学んでいくといったボトムアップの教育を志向すべきだという著者の「価値観」自体は、考え方としては「あり」だと思いますし、真理を含んでいると思います。(ただし、対自閉症児という観点からはこの主張は必ずしも正しくないと私は思っています。それについては後述します。)
ただ、その著者の「価値観」を導くはずの本書における認知「理論」は、率直にいって非常に脆弱で、このままではトンデモ理論と呼ばざるを得ないものになっていると思います。
前おきが随分長くなってしまいましたが、私は上記のような理由から、これら2冊の本はそもそも科学的な主張をしていないと判断していますし、「認知科学の本」と呼べるような内容でもないと感じています。
後半の記事では、本書で展開される「自閉症児の療育論」にフォーカスをあてて内容を検証していきますが、やはりそこにも、認知科学の誤った理解に基づく論理の飛躍、論理構成の根本的な誤りがあると考えています。そしてそれが、「自閉症児の療育において、TEACCHやABAのような『スモールステップの訓練志向』は正しくない」という、私とは正反対の(そして恐らく正しくない)結論を導く結果になったのだと理解しています。
長くなったので、続きは回を分けたいと思います。
(次回に続きます。)