c.宗教やオカルト
宗教の意義を否定するつもりはありません。
自閉症児と共に生き、長い療育生活を乗り切っていくためには、精神的な強さが必要です。
そもそも、自立した大人が精神的なよりどころを持つことは真に必要なことであり、その一端として宗教が果たす役割は極めて大きいものがあると確信しています。
しかし、宗教で自閉症は治りません。
宗教に限らず、「科学で証明されない力や存在」、すなわちオカルトに頼って自閉症を治そうと考えてはいけません。
そういうものに頼ってしまうことは、療育のための限られた時間やお金を無駄なことに使ってしまうことであり、子どもの「伸びる可能性の芽」を摘んでしまうことでしかありません。
繰り返しになりますが、地道に子どもに働きかけて、適切な経験とスキルを積み上げていくことでしか、子どもを伸ばすことはできないのです。「不思議な力を持った人」や「不思議な力を持った動物」や「不思議な力を持ったアイテム」なんてものは存在しないのです。「不思議な力を持った療育の達人」はいるかもしれません。でもそういった人の持つ「不思議な力」というのは、実際には長期にわたる療育の経験と知識から地道に作り上げられたものです。
このカテゴリでを具体的に指摘しておきたい療育法には、ファシリテイテッド・コミュニケーション(Facilitated Communication、FC)およびドーマン法、聴覚統合療法(感覚統合療法とは別物です)や特殊メガネといったものがあげられます。中でも特に有名なファシリテイテッド・コミュニケーションというのは、介助者が腕の動作を「助ける」ことによって、言葉のなかった障害児でも高度なコミュニケーションが可能になるというものですが、多数の統制実験によって、これらが単に介助者(ファシリテイター)による作文であり、一種の「こっくりさん」のようなものであることが確認されています。
関連記事:
http://www.geocities.com/validationluna/index.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/atoz3/ask/teacch/teacch3.html
d.自閉症と引きこもりを混同している療育法
自閉症が「治る」と豪語する療育法には大きく分けて2つあって(どちらも誤りですが)、1つは自閉症の何たるかはある程度理解していて、そこにオカルト理論を乗せて自閉症を「治す」と称するものです。キレート療法などはこちらに入ります。
もう1つが、ここで考えているような、「自閉症=引きこもり・極端な内気」という勘違いからスタートして、子どものやる気を出したり性格を明るくするようなアプローチで「自閉症が治る」と言ってしまうタイプの療育・教育法です。
これはもう出発点から間違っており、検討する価値すらありませんが、幼児教室や一部の幼稚園・保育園などではいまだにこういった誤解をしているケースが見受けられます。
書かれていることを読んで、あるいは話を聞いて、相手がこういった誤解に基づいて語っていることに気づいたときは、その療育・教育法は無条件に排除していいと思います。なぜなら、繰り返し書いているとおり、自閉症は特別な配慮を必要とする脳の障害であり、間違った前提からはとうてい適切な療育はできないからです。
(次回に続きます。)
はじめまして。
白石といいます。
私は自閉症の研究を独学でおこなっています。
今日、はじめて、そらパパさんのホームページに出会いました。
まだ読み始めたばかりで、これから読み進めていきますが、気になったことがあるので、異議を書きます。
ファシリテイテッド・コミュニケーションですが、東田直樹君をご存知でしょうか?
彼は重度の自閉症の少年ですが、作家です。
ファシリテイテッド・コミュニケーションで童話を書いています。
最近は、調子が良いときは、ひとりで書けるようになったそうです。
このことは、介助者の作文だという批判が的外れであることを示しています。
言葉の出ない重度の自閉症の人にとって、ファシリテイテッド・コミュニケーションは強力なアイテムだということを、知ってほしいです。
(私は、何人か立ち会ったことがあります。)
推測だけで、検証も無く、批判するのは科学的な姿勢とは言えません。
訂正をお願いします。
はじめまして。
webページもざっと拝見しましたが、私とは自閉症のみならず、心理学、さらには「科学」というもの自体の捉え方がかなり違う方だとお見受けしました。
東田さんのことは存じ上げています。
ただ、率直に申し上げて、彼が筆談のようなことができるということと(それは事実かもしれませんし、彼が発達の過程でその能力を身に付けたという可能性はあるでしょう)、FCが有効だったかどうか、あるいは、彼が「書いた」と言われている文章がすべて本当に彼の意思によって書かれているのかどうかということは別問題だと考えています。
「推測だけで、検証も無く、批判するのは科学的な姿勢とは言えません」という意見は、私から言わせると科学的な姿勢とは言えません。
証明がないものは疑ってかかるのが「科学的な姿勢」だと思います。
もしもFCは科学的に正しいと主張するなら、評価の高い心理学ないし医学の学術雑誌に掲載されている、統制された実験が提示されなければなりません。
少なくとも、上にも掲げている、
http://www.geocities.com/validationluna/index.html
を見る限り、そういった有力な実験はなく、むしろそれを否定する実験ばかりであることが分かります。
手品を「立ち会って、見て、タネが分からなかった」といっても、だから「ハンドパワーは実在する」というのは科学的ではないですよね。
同じように、仮に白石さんがFCの場に立ち会って、それが有効であるような印象を実際に受けたとしても、それでもまだそれだけでは、「科学的に正しい」とは言えないのです。
この辺りは、本当に「科学的な姿勢」とはどんなものであるのかという考え方のかなり奥深い部分の議論だと思います。
白石さんのwebページを見る限り、その辺りの見解について、私と白石さんとの間にはかなり隔たりがあると感じますので、私が書いていることは理解していただけないかもしれません。
東田直樹君の本を、お母さんが書いていると考えているのですか?
そういうことですよね。
否定する実験ばかりということですが、下の記述がありました。これは、東田君と同じです。
そして、この記述はクリックしないと出てこないところにありました。したがって、どういう訳か、表面上は否定する記述ばかりです。
「米国において何人かの人たちが、オーストラリアにおいては多くの人たちが、一人だけでタイプできるようになれることを示してきた。一人でタイプできることは実現可能な目標であるので、Rosemary Crossleyはこの手法のことを“ファシリテイテッド・コミュニケーション訓練”と呼んでいる。」
言葉のない重度の自閉症の人でも、コミュニケーションできるということは非常に重要なことです。
手品師にはだまされるかもしれませんが、私が知っていて信頼している人には、だまされる余地はほとんどありません。しかもそういう介助者が2人です。私が信頼している人が、2人でそろって私をだましているという可能性は限りなく0に近いです。
確かに、疑ってかかるのは科学者の姿勢ですが、エセだと断定しブログに書くのは、話が違うのではないでしょうか?
すでに疑うのを止めて、結論を出しているということです。
また、結果として多くの人を侮辱しています。
私が尊敬している人がからんでいるので、感情的な表現になってしまいました。
その点はお詫びします。
「だましている」とは、必ずしも私も思いません。おそらくそこには善意しかないのかもしれません。
ただ、発達障害や教育問題については、因果関係の錯誤ということが往々にしてあるのです。
手品の例では納得いただけなかったようなので、別の例で書きましょう。
ある人がてるてる坊主を下げたら、翌日晴れたとします。
あなたはてるてる坊主を下げるところも、実際に翌日晴れたところも見ているとします。そして、その人が「てるてる坊主を下げたおかげで、晴れてよかったね。」と言ったとします。
ここには、悪意もだましの意図もなく、しかも「晴れにしよう」と思っててるてる坊主を下げて、実際に「晴れになって」います。
これだけの条件がそろっても、やはり「てるてる坊主を下げると晴れになる」とは「科学的には」言えないのです。
発達障害は、ある止まった状態ではなく、発達しながら遅れていくという、動的なものです。
仮に、ある働きかけをしたら、子どもに何らかの変化が現われたとしても、もしかすると「その働きかけがなくても」その変化は現われていたかもしれないのです。(それが上記の「てるてる坊主」と「晴れ」の関係になります。)
ですから、白石さんがそこまでおっしゃったとしても、それでもそれだけで、FCが有効だと主張することは、私からは「科学的だとはいえない」と映るのです。
前回のコメントでも書きましたが、この辺りは、「科学的であること」に対するかなり深い哲学的態度に関わることですので、私自身、白石さんを「説得」しようという意図はありません。
あくまで、私の考え方はこうで、だから私のブログではそう書いている、ということです。
ちなみに、FC情報に関連するリンク先についての指摘ですが、おっしゃっていることは正しくないと思います。
賛成意見にしても反対意見にしても、要約は表示されていますし、詳細はリンクした先にしかありません。扱いは同じです。別に「表面上は否定する記述ばかり」ということはありません。
東田さんの文書については、あまり深入りしようとは思わないのですが、もし本当に彼があれだけの文章が書けると仮定すれば、彼は自閉症ではないことになるでしょう。また、彼は「自閉症者としての生」しか生きておらず、「健常者の生」を想像することすらできないはずなのに、なぜ自らの障害のことを客観的に解説できるのかという根本的な疑問もあります。この部分は、自分の「自閉症者としての認識のズレ、思い込み」から辛い経験を繰り返す藤家寛子さんやニキリンコさんの生々しい経験談と比べれば、あまりに明らかです。
厳しい言い方かも知れませんが、科学的に有効であると証明されていない療育法を、仮に善意であったとしても、安易に周囲にすすめることは避けなければならないことだと思っています。
その考えかた、そしてFCに対する私の立場は変わるものではありませんので、ご理解願います。
>厳しい言い方かも知れませんが、科学的に有効であると証明されていない療育法を、仮に善意であったとしても、安易に周囲にすすめることは避けなければならないことだと思っています。
この表現であれば、私も異議はありません。
したがって、ブログの以下の表現は訂正していただきたいと思います。
>中でも特に有名なファシリテイテッド・コミュニケーションというのは、介助者が腕の動作を「助ける」ことによって、言葉のなかった障害児でも高度なコミュニケーションが可能になるというものですが、多数の統制実験によって、これらが単に介助者(ファシリテイター)による作文であり、一種の「こっくりさん」のようなものであることが確認されています。
>彼は「自閉症者としての生」しか生きておらず、「健常者の生」を想像することすらできないはずなのに、なぜ自らの障害のことを客観的に解説できるのかという根本的な疑問もあります。
まったく言葉のない自閉症の子どもが、1回だけちゃんと話した、という逸話があるのをご存知でしょうか?
「ビー玉返して!」とか。
これはかなり多くの本で報告されています。
したがって、まったく言葉のない子どもでも、内面で言葉が育っているという可能性は否定できません。
ただしこれが、すべての言葉のない自閉症の子どもに当てはまるのかどうかは解りません。
できれば、FCがどれぐらいの子どもで有効なのかデータが欲しいのですが、現在FCは否定されているので、ゲリラのように潜行しています。
もし若手の研究者がFCの研究発表でもしたら、おそらくこの業界から追放されてしまうでしょう。
私もこのあたりで書き込みを止めようと思います。
批判的な書き込みであるにもかかわらず、ご丁寧な返事をいただきありがとうございました。
私もこの辺りでやめようと思います。
FCについての私のコメントは、私の理解です。何度か引用しているリンク先の記事等を読み込んだ結論として、私はFCについてそのように理解している、ということです。
次の話題については、言葉が話せるかという問題ではなくて、生まれたときから「自閉症者としての知覚経験」しかしていない自閉症者が、自閉症について客観的に語れるはずはない、という単純な議論です。(客観的に語る、ということは、自閉症者ではない「神の視点」ないし「健常者の視点」から語るということです。これは理論的に言って不可能なことです)
最後に、FCが有効かどうかを本当に調べるのなら、同じ条件の子どもを多数集めてきて、FCを行なう群と行なわない群を一定期間追いかける必要があります。
前回も書きましたが、自閉症の子どもも常に「伸びて」はいるので、FCをやったかやらないかに関わらず、一定の時間が経過すれば、ほとんどの子どもは伸びていきます。発達指数が上がったか下がったかという評価をするとしても、確率的に50%の子どもは一定期間経過後発達指数は上昇します。
簡単にいえば、「FCをやった子どもの2人に1人がコミュニケーションに改善が見られた」場合、FCには効果がないのです。(それはランダムレベルなのです)
この辺りが、教育・療育を科学的にとらえるときの難しさなのだと理解しています。
ホームページ、半分ほど読み進めたところです。
次へつづく、を付けてもらえるともう少し読みやすくなると思うのですが。
FCについては、これ以上論じても平行線のままだと思うので、話題を変えて質問します。
外界を適切に知覚できるかどうかが重要だと考えているようですが、健常の赤ちゃんが、生まれて最初に知覚するのは何だと考えますか?
こちらからの話題の投げかけに応えずに話題を変えるのはあまり健全な議論の戦わせ方ではないように思います。また、ブログのエントリの内容からずれた議論に持っていくのもどうかと思いますので、簡単に答えるにとどめます。
今回の「新たな話題」についての私の考えは、ほぼ次の記事に書いてあります。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/26463706.html
私がブログで書いている「知覚」というのは、ギブソンのアフォーダンス知覚に近い概念です。
赤ちゃんは、最初に「知覚すること」そのものを学ぶ必要があります。そのためには、周りに広がる「世界(環境)」の存在に気づいていく必要があるでしょう。
ですから、ご質問に対する私の答えは「自分の周りに広がる世界(環境)」となります。
>こちらからの話題の投げかけに応えずに話題を変えるのはあまり健全な議論の戦わせ方ではないように思います。
ふたりとも、止めようというコメントを出した後だったので、コメントを出すのをひかえました。
また、私の主張は、東田君の文章は東田君自身のものであってお母さんのものではない、ということです。
>多数の統制実験によって、これらが単に介助者(ファシリテイター)による作文であり、一種の「こっくりさん」のようなものであることが確認されています。
この文章を読んだ人は、なんの疑いもなく信じてしまうはずです。
この文章に対しての抗議です。
訂正してもらえないようですが、抗議のコメントを載せてもらったということで、一応、私の目的は達成されました。
FCが療育に効果があるかどうかは、論じていないし、論じるつもりもありません。
>生まれたときから「自閉症者としての知覚経験」しかしていない自閉症者が、自閉症について客観的に語れるはずはない、という単純な議論です。(客観的に語る、ということは、自閉症者ではない「神の視点」ないし「健常者の視点」から語るということです。これは理論的に言って不可能なことです)
この文章の意味が理解できません。
神の視点という表現をしたら、その視点は神しか持てないということをすでに意味として含んでいます。
また、「神の視点」ないし「健常者の視点」、という表現も理解できません。
私は、東田君は自閉症のことを客観的に書いているとは考えていません。
主観的に書いていると考えています。
健常の赤ちゃんが最初に知覚するのは、「自分の周りに広がる世界(環境)」というのは、大きすぎて、がっかりしました。
確かに、間違いではないでしょう。
私は、ここが自閉症と健常の分岐点になると考えています。
そらパパさんも、そのように考えていると思っていたのですが。
私は、ホームページにも書いていますが、この問いへの答えが自閉症を解き明かす鍵になると考えています。
ここまでは、白石さん自身の仮説についてはあえて論説を避けてきましたが、話がそういった方向に進んでいるようですので、端的に一点だけ指摘させていただきます。
白石さんの仮説の根幹には「刷り込み」があるようですが、この白石さんが使っている「刷り込み」という用語を、明確に定義していただけないでしょうか? そうすると、恐らくその定義の中に「愛着形成」という概念が入ってくるのではないかと思います。だとすると、「刷り込みによって愛着が形成される」という表現は「愛着形成によって愛着が形成される」という文章に変換可能なので、同語反復(トートロジー)になります。
さらに、この「愛着」という用語(他にも「共鳴」「安らぎ」などいろいろ登場しますが)そのものも厳密に定義する必要があるでしょう。そうしないと、「わからないものをわからないもののせいに」している( http://soramame-shiki.seesaa.net/article/22992896.html )だけになってしまいます。
心理学に関わる現象を、明確に定義できない「内面的」「観念的」用語を交えて語ることは、極めて高い確率で、ことばを置き換えただけのトートロジーに陥ってしまいます。これは心理学を学ぶときに最初に理解すべき事項です。(一般教養レベルでは、そこまで実感せずに終わってしまうことがほとんどかもしれませんが・・・) それを避けるためには、それらの用語を厳格に定義し、しかも同語反復に陥らないことが必要なのですが、それは非常に難しいことだと思います。
(ちなみに私の理解では、「刷り込み」というのは特定行動の学習に係る現象のことを指しており、本来、学習・行動レベルで定義されているものです。「愛着」とか「共鳴」といった内的・観念的概念を「刷り込み」の中に持ち込むことは、科学的心理学の立場から離れ、精神分析的な「解釈」の世界に入っていると言わざるをえません。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%B7%E3%82%8A%E8%BE%BC%E3%81%BF
また、赤ちゃんが最初に知覚するのが「世界(環境)」だというのが「大きすぎる」とのご批判ですが、だとすれば白石さんが仮説のなかで書いている「母親」とか「人」などのほうがはるかに「大きすぎる」と私は思います。
ここには、「なぜ赤ちゃんは、網膜や鼓膜、皮膚感覚器等から入ってくる電気信号だけから、自分の周りに『世界』が広がっているということを知るのだろうか?」という根源的な謎があります。
ヒトに限らず、あらゆる生物にとって、「世界」というのはアプリオリに生まれたときから存在するのではなくて、生まれた後に感覚器から入ってくる信号を構造化することによって後天的に立ち現れてくるもののはずです。
「母親」とか「人」といった、「世界」のなかに存在する個別の要素を「知覚」できるようになるのは、そもそも「世界」が知覚できるようになった後だ、というのが私の考えであり、「鏡の療育」をはじめとする私の最初期向けの療育技法は、その前提を出発点にしています。(本能に基づいて反応しているのを「知覚」と呼ぶなら多少違う説明もできるかもしれませんが、それはあくまで「反応」であって「知覚」とは少し違うように思います)
こういったことを考えるときは、「外から観察して解釈を与える」という態度を徹底して排除しなければならないと思います。ある現象・状態が、当事者自身にとってどのような知覚経験となっているのか、そして過去にはどのような知覚経験が学習され蓄積されて現在に至るのか、そういったことを謙虚に追いかけていく必要があります。
(実は、私が東田さんについて言っていることも、まさにこの部分に関連があります。自閉症者としての知覚経験のみで現在に至っている人には、健常者の知覚世界がどんなものかは想像することもできず、結果として「自閉症の○○はこういう意味なんだよ」という解説もできないはずだと言っているのです。)
刷り込みの全貌は、まだ掴めていません。
解っていることも多いですが、解っていないことも多いです。
したがって、刷り込みの定義はできません。
自閉症と同じです。
定義されていないからこそ、探求しているのではないでしょうか?
また、私は心理学には関心はありません。
関心があるのは自閉症のことです。
デズモンド・モリスの、『赤ん坊はなぜかわいい?』という本から引用します。
『新生児をつぶさに追った最近の研究で、赤ん坊はお産の衝撃から回復すると、深い眠りに落ちる前に、1時間ほど母親の顔を一心に見つめることがわかった。もちろん、母親から離さずにおけばの話である。病院によっては、この「母子の最初の見つめ合い」を取り上げるところがある。母子ともにお産で疲れているのだから「休ませてやるべきだ」との配慮だろう。』
また、クラウスは、生後40分の新生児で、母親が口を開けると赤ちゃんも口を開け、母親が舌を出すと赤ちゃんも舌を出すという現象を報告しています。
新生児は母親の顔を、1時間も、ただぼーっと見ているわけではありません。
>自閉症者としての知覚経験のみで現在に至っている人には、健常者の知覚世界がどんなものかは想像することもできず、
これは、「健常者としての知覚経験のみで現在にいたっている人には、自閉症者の知覚世界がどんなものかは想像することもできず、」という意味になりませんか?
「刷り込み」が定義できない、分かっていないのに、「自閉症の原因は刷り込みの問題だ」というのは、まさに「わからないことをわからないことのせいにする」ことそのものですね。
もしそうだとしたら、その仮説は何も説明していないのと同じです。
「自閉症が分からない」ことと、白石さんがそれを説明するために使っている「『刷り込み』が定義できない、分からない」ことはまったく別のことです。
赤ちゃんの行動についても、安易に「外部から観察して解釈する」ことは危険を伴いますね。これもこれまでの議論の延長線上にあります。
たとえば、新生児の視力はものすごく悪くて、0.001程度だということを知っていますか? その一方で、生まれながらにして顔や目に対する不思議な選好性もあります。
大人の表情の模倣という現象も非常に難しい問題ですが、少なくとも「見つめて理解したからマネしている」という「解釈」がNGであることだけは間違いありません。
動作模倣というのは、視覚情報を運動というまったく異質なものに変換するという極めて難しい課題です。
自分の顔を見たこともない生後まもない赤ちゃんにこの課題がまっとうにできるとは考えにくいので、赤ちゃんの動作模倣は反射の一種であるという説も有力です。大人の表情と赤ちゃんが返す表情が微妙に違っているという指摘もあります。だとすれば、「模倣」と安易に呼ぶこと自体が、実は「外部からの観察による解釈」になっている可能性もあるわけです。
とにかく、自閉症にしても赤ちゃんの行動にしても、私たちは「外部から観察して解釈する」ということによる落とし穴にはまらないように、極めて慎重にならなければならないのです。
心理学に興味がない、とのお答えですが、白石さんが引用されている各種の心理学的知見は、このような配慮のもとに慎重に取り扱うべきものばかりですので、興味がないからなおざりでいい、ということにはならないと思います。
最後の白石さんの指摘は、私のなかではまさにそのとおりです。私たちは、自閉症者の知覚世界がどんなものか、ほとんど想像することすらできません。ですから、外から観察して解釈するという安易なトップダウンの道だけに頼ることなく、自閉症児の知覚障害・認知障害とはどのような本質を持っているのかを解き明かし、そのような知覚障害を基礎として成り立つ知覚世界とはどんなものでありえるのかを演繹的に導き出す、ボトムアップのアプローチをあわせて考える必要があるでしょう。
その一つの試みが、当ブログで公開している「一般化障害仮説」です。
はじめまして、初代(しょだい)と申します。
「ハツヨ」とは読みませんでして、自閉症児の父親です。
『自閉症の僕が跳びはねる理由』読後の違和感から、こちらを訪ねて参りました。
それはさて置き、こちらのブログは参考になることが沢山で、とても勉強になり、有難く思います。
今回、「行動療法」の基礎ということで紹介されていました『行動分析学入門』の方を読ませて頂くことにしました。
尚、私のページは自閉症関連ではなく、趣味でマニアックに宗教・精神世界を斬っているものですので、不都合でしたらこのコメントと共にカットしていただいて結構ですので。
コメントありがとうございます。
新書の「行動分析学入門」は、私もいろいろ新書を読みましたが、ピカ一の出来のものの1つだと思います。
直接実践につながる内容はあまりかかれていませんが、行動療法の根っこの考え方を知るには最適の一冊だと思います。
これからもよろしくお願いします。
お忙しいところ、お返事ありがとうございました。
アマゾンで即行購入後、読み始め3分の2ぐらいのところまできましたよ。
実践編ということで紹介されていました『みんなの自立支援を目指すやさしい応用行動分析学』も次にと2冊を取り寄せておきました。
知らずとも経験的に使っていること(テクニック)もあり…知らぬがゆえに逆の対応を重ねてきたことも発見でき…相手ではなく自分自身の「強化」の方にこそ着目すべきであったことに気付かせられたり…。
しかし、「直ぐに介入することの効果」と、「パニックが治まるまで無視・見守る」等の障害に合わせた対応で、こちらの体が固まってしまいそう。深く追求していけば、これに対する答えもあるのでしょうけど。
何れにしても、この考え方に基づいて正しい対応が自然に素早く出来るようになるには、相当に自らの訓練が必要なのは確かですね。
我が子に関しては、軽度(知的にも自閉特性的にも)なので、くたくたになる程の家庭での療育ということはなく、今日まで来ました。
私はというと、子供の障害をキッカケに福祉の勉強を遅まきながら始め、こちらの世界へ転職しまして、現在は成人の知的及び身体障害者の通所授産施設での直接の支援を仕事にして3年半になりました。来年、介護福祉士の資格を取ろうと考えているところです。
利用者さんに動いてもらいたいこと、減らしたい行動、また利用者さん同士の衝突を避けたり、トラブル後の対処にも使えればと思います。
こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します。
パニックが収まるまで無視、というのは実際には難しい対応ですね。
ですから、このブログではパニックの無視ではなく、「代替行動の強化」を強く推進しています。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/26463933.html
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/26464082.html
初代さんも書かれているとおり、ABAを学ぶことの最大の意義の1つは、自分自身の行動も強化の原理によって形成されているという気づきを得られることだと思います。
>このブログではパニックの無視ではなく、「代替行動の強化」を強く推進しています。
リンク先、読み直しました。
望ましい「代替行動」を用意してあげるのでしたね。それから、「手助け」を減らしていくことも。
ひとつ具体的にイメージできましたので、何か試せそうです。
ご丁寧に、ありがとうございます。
パニックは、それ自体を直すべき問題行動ととらえるよりは、何らかの別の問題が分かりやすい形で行動化した「結果」だととらえ、その真の「原因」に働きかけることが大切なのではないかと思っています。
ピーターソンの母さん、
はじめまして。
東田さんの一連の話題や、著作と呼ばれている本については、率直に申し上げて、ピーターソンの母さんが感じられた「違和感」は正しいと言い切ってしまっていいと思っています。
特に、彼が自閉症について説明している、と称している一連の文章には、自閉症ではない外部の人が「観察して解釈した」文章だとしか思えないものが多数含まれています。
残念ながら私は、東田さんや「奇跡の詩人」日木さんなど、いわゆるFC法がらみで、本当に障害を乗り越えてコミュニケーションができるようになったと確信できるような実例に会ったことはありません。
話は逸れましたが、FCですか・・・。この子達って、こちらのちょっとした動作やパターン、表情から何をすればよいか、とても反応するので、お母さんから伝達してるかもですね・・・。まだはっきりしてないですけど。
それでは、いつも専門的な答えや情報をありがとうございます。当方の男児もつらいつらい幼児期を過ぎ(癇癪を起す子供に癇癪を起す旦那・・・よくまだ薄暗い公園で子供といっしょにすごしていました。こんなお母さん多いはず・・)、今はだいぶ落ち着いていっしょに楽しめる時間も増えました。
まだまだ療育は続いていくと思いますが、私だけではなく、皆さんがんばっているんですよね。これからも色々教えてくださいね♪
コメントありがとうございます。
東田さんについては、私はもう興味をかなり失っていて、今回の番組も見ていないのですが、Twitterのタイムラインでは少々盛り上がっていたので、彼をとりまく「現象」について、批判的な意見を中心に拝見していました。
当事者の世界の解説、ということでいうと、いまは「あたし研究」のような、誰でも読めるわかりやすい本もありますので、いち読者としては、あえてFCのような要素を含む彼の世界よりに向かうよりは、そういった新しい本を参考にするのがいいかな、と思っています。
療育については、我が家もそうですし、周囲を見ても本当に皆さん頑張っていますよね。子どもの成長の歩みはゆっくりで、ときに逆戻りしたりもしますが、焦らず粘り強く、着実に進んでいくしかないですよね。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします!
別に「自閉症だから」というわけでは必ずしもありません。
はじめまして、かずパパと申します。3歳の息子が自閉症です。
つい最近、息子に自閉症の診断が下り、途方にくれておりました。そんな時、そらパパさんの「自閉症の子どもと家族の幸せプロジェクト」を読み、大変勇気をもらう事ができました。ありがとうございました。
実はもう一人、勇気をもらった方がいます。「東田直樹」さんです。(^^;
そらパパさんの本からこのブログにたどり着き、拝読したところ、東田さんに否定的な書き込みをされているので、ちょっと時期的に遅いかもしれませんが、ご意見を伺えればと思います。
先日NHKで放送されたドキュメンタリー番組「君が僕の息子について教えてくれたこと」を私が拝見した限りにおいては、東田氏は、全ての受け答えにおいて、物理的な介助なしに、自分で発言して受け答えをしていました。
もし番組中のこの受け答えのやりとりにおいて、不正が行われていたとするならば、以下の方法が考察できるかと思います。
(1)編集操作が行われていた。
(2)質問内容が事前に伝えられていた。
(3)質問者・撮影スタッフに気づかれない方法で介助が行われていた。
(4)本当は重度自閉症ではない。
以下補足説明します。
(1)編集操作が行われていた。
現場において実際に物理的介助が行われていたにも関わらず、制作側によって、自らの能力で話しているように編集されていた。
もし、この様なことが本当に行われていたのならば、それは「演出」ではなく、「捏造」ではないでしょうか?
佐村河内氏の件があって間もないNHKなので、こうのような事があったとは考えにくいのですが、もし、この疑いがあるのならば、意見書や公開質問状なりの抗議をする必要があるのではないかと思いますがいかがでしょうか?
(2)質問内容が事前に伝えられていた。
質問内容が事前に伝えられており、予め受け答えの練習をしていた。
こちらの件が真実ならば、NHKだけでなく、インタビュアー(デイヴィッド・ミッチェル氏、杉山登志郎氏)も共犯者だと言えると思います。二人とも著名な方だけに、簡単にその様な不正に加担するのかは疑問です。また、事前に内容を伝えられていたとしても、重度自閉症者が、練習であの様な受け答えをする事が可能なのでしょうか?
(3)質問者・撮影スタッフに気づかれない方法で介助が行われていた。
例えばメガネに何かが仕込まれている。超小型イヤホンが使われている等、考えられなくはありませんが、介助をしていると思われる母親がずっとそばにいる以上、周りに気づかれないで行うことはほぼ不可能ではないかと思います。そうなると別の誰かが別室で介助しているのでしょうか?
(4)本当は重度自閉症ではない。
真実がこれであったら一番救われるような気がします(笑)。
もし、これが演技だとすると、20年間欺き通した彼の演技力はすさまじいものがあります。ダスティン・ホフマンを軽く凌駕します。作家を目指すより俳優を目指したほうが良いと思います。
以上の考察について、そらパパさんの意見を伺えれば幸いです。
もちろん、私は東田氏の意見・考えや東田氏に対する療育方法が全ての自閉症者に当てはまるとは思っていません。
私が知りたいのは、「先日の番組における東田氏の受け答えにおいて不正が行われていたのか?」その一点のみです。
コメントありがとうございます。
まずお断りしておきたいことは、私はご指摘の番組を拝見していません。(そういった番組があった、ということだけ噂できいただけです。)
ですので、その内容について語ることはできないということをご了承ください。
ただ、彼の比較的最近の映像を以前拝見した範囲では、彼は言語による日常会話や簡単な受け答えといったコミュニケーションがかなりの程度(少なくとも「重度」と定義されるレベルではなく、「中度」かそれ以上のレベルで)可能な発達水準の青年である、ということです。
また、与えられた文章をそのままキーボードで入力したり、それを記憶して入力したりといったこともできるようです。
ご指摘の番組で「不正」があったのかどうかはそもそも内容を見ていないのでお答えできませんが、少なくとも(1)とか(3)のような悪意に満ちた不正があったとは考えられません。
一方、「うまくいった場面」だけを編集したり、事前にリハーサルみたいなことをやったり、何らかの「情報」を事前に与えて「失敗を減らしたり」といったことは、障害のある方や小さな子どもを題材にした番組を撮るときには普通に行なわれる「演出」だろうと思います。
以前も書いたかもしれませんが、私は彼に対してはもうあまり関心がなく、もし関心があるとすれば、既に「彼がどんなことができるか」とはまったく違った、「彼をとりまく環境」が少し気になるくらいです。
ですので、現在はあまり彼についての話題についていくことができず、申し訳ないと思います。
東田氏の番組をご覧になってないとのことですが、現在「NHKオンデマンド」で視聴する事ができます。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2014058033SA000/
216円の出費を強いるのは心苦しいですが、議論が進みやすいかと思いますのでご覧いただければ幸いです。
>彼は言語による日常会話や簡単な受け答えといったコミュニケーションがかなりの程度(少なくとも「重度」と定義されるレベルではなく、「中度」かそれ以上のレベルで)可能な発達水準の青年である、ということです。
これは、「元々重度自閉症だった彼が「中度」かそれ以上のレベルまで、成長・発達をした」と言うことでしょうか? それとも「初めから重度ではなく、「中度」かそれ以上のレベルだった」と言うことでしょうか?
いずれにしろ、「東田氏は、介助なしに、言語によるコミュニケーションがかなりの程度できている」と認めているように読めますが、その通りでしょうか?
>また、与えられた文章をそのままキーボードで入力したり、それを記憶して入力したりといったこともできるようです。
>一方、「うまくいった場面」だけを編集したり、事前にリハーサルみたいなことをやったり、何らかの「情報」を事前に与えて「失敗を減らしたり」といったことは、障害のある方や小さな子どもを題材にした番組を撮るときには普通に行なわれる「演出」だろうと思います。
上記の文面を読むと、私の提示した「(2)質問内容が事前に伝えられていた」の疑いがあるように読めるのですが、そうでしょうか?
もし、その疑いがあるとおっしゃるのであれば、NHK等の関係者に問い合わせさせていただこうかと思っています。(もちろんすんなり不正を認めるとは思えませんが、一石を投じるだけでも意味はあると思います)
少なくとも、私はこの番組において、事前に質問内容を告げていたのであれば、それは「演出」ではなく「捏造」だと思います。
>私は彼に対してはもうあまり関心がなく、もし関心があるとすれば、既に「彼がどんなことができるか」とはまったく違った、「彼をとりまく環境」が少し気になるくらいです。
関心のない所、お付き合いいただきまして大変恐縮です。ただ、自閉症の子を持つ私にとって、「彼がどんなことができるか」はかなり重要だと思っています。なぜなら、あの番組で彼が行ったことは(かなり高度な)コミュニケーションだと思えるからです。
もちろん、彼が出来たことが、そのまま自分の息子に出来るとは思っていませんが、少なくとも「希望」にはなっています。
ただ、もしそれが不正によるものだとしたら、それにすがって生きていくのはなんとも虚しいものがあります。
できれば、自分の中でそれに決着をつけて次に進みたいのです。
コメントありがとうございます。
熱心にコメントくださっているところ恐縮ですが、私は彼の個別の番組に、そこまで「深入り」して議論するつもりはありません。
ですので、私のこの件に関するコメントは、前回コメントさせていただいた内容どまりとさせていただければと存じます。
いずれにしても、彼はいろいろな意味で、極めて特殊な環境のなかにおかれている当事者であることは間違いないと思います。
そのことをふまえたうえで、目の前のお子さんを誰かと比べたりすることなく、しっかり観察して、療育を進めていかれることが大事だと思っています。
ご希望に沿うようなコメントにならず、申しわけありません。
質問にも答えていただけないと言う事ですね。わかりました。
私は自分の子供と東田氏を比べているつもりはなく、ただ、東田氏が本当に信頼できるのかどうか知りたいだけなのです。
その事を、信頼していた、そらパパこと藤居学氏を通して知りたかったのです。
「関心がない」と言う理由でコメントされないのは結構ですが、あなたはその「関心がない」人に対して疑惑を持った書き方をされているということは認識していただきたいと思っています。
失礼な書き込みになってしまいましたこと、お詫びいたします。
ここから先は、ご返事いただけなさそうなので、独り言です。(; ;)
そらパパさんは2007年03月14日の書き込みで東田氏を疑問視する理由として、
「彼は「自閉症者としての生」しか生きておらず、「健常者の生」を想像することすらできないはずなのに、なぜ自らの障害のことを客観的に解説できるのかという根本的な疑問もあります。」
と書かれていますが異論があります。
例えば「「男性としての生」しか生きておらず、「女性の生」を想像することすらできないはず」と言えるでしょうか?私は男性ですが、女性のさまざまな意見や考えに接することで「女性の生」を想像することができます。東田氏も同様に健常者のさまざまな意見や考えに接することで、「健常者の生」を想像することが出来たのではないでしょうか?逆に、健常者が「自閉症者としての生」を想像できないのは、自閉症者の意見や考えに接する機会があまりにも少ないからだと思います。
結局は「健常者が自閉症者の事を想像出来ないのに、自閉症者が健常者の事を想像出来るわけがない」という「思い上がり」ではないでしょうか?
他にも、東田氏の記憶に対する記述が、そらパパさんが提唱する「一般化障害仮説」と一致するところがあるなぁとか思ったりしたのですが、今となってはどうでもいいです。
いろいろ含むところがあって、このような形でコメントを書かせていただいているのですが、そういったニュアンスが伝わらなかったことは残念です。
また、「彼を信頼できるか否か」という一般論としてのご質問にはお答えできませんが、彼がいま「このような人物である」として認知されているところの姿について、「私が」どう感じているのか、ということであれば、「『私は』彼の実際の姿はあのようなものではないと今でも思っている」とお答えしたいと思います。
ということで、私のご回答はここまでに留めさせていただきたいと存じます。
実は私は多少コミュニケーションに問題があるようで、「場の空気を読む」「行間を読む」と言ったことが苦手です。(息子は私の性質を強く受け継いだのでしょう)
ですので、そらパパさんのおっしゃる「ニュアンス」も認識することができませんでした。
「『私は』彼の実際の姿はあのようなものではないと今でも思っている」と言うことであれば『あなたの』その理由を伺いたいと思うのですが、言えない事情があるのであれば結構です。
前回はちょっと感情的な書き込みになってしまい、申し訳なく思っています。
そらパパさんのブログは非常に参考になることが多く、療育を続けながら、この活動を長年続けられてきたことに本当に頭が下がります。
今後も一読者として参考にさせていただきたいと思っています。
これからもがんばってください。