2006年11月21日

幼児期の療育を考える(7)

自閉症の療育を考えるときに、私がとても大切だと思うのは、自閉症という発達障害は「量的なおくれ」ではなく「質的なおくれ」である、という視点です。
もちろん自閉症児も、療育を続け、年齢が上がるにつれて成長・発達してきますが、その発達のしかたは、必ずしも健常児のたどる道すじと同じものを「ゆっくりたどってくる」わけではなく、健常児とは異なった道を歩いて発達してくるのです。その発達の進みかたも能力によってまちまちで、特に対人コミュニケーション(社会性)やことばの発達は大きく遅れることが多いといわれています。

そして、残念なことですが、このような自閉症児が持っている「困難」は、一生を通じて消えることはありません。自閉症については、厳密な意味での発症機序も、障害の起こっている場所も、認知障害の詳細も分かっておらず、「治療」という意味においては現時点ではまだまだ手も足も出せない状況です。このことを突き詰めて考えると、自閉症というのがどんな障害なのかという疑問そのものが、厳密にはまだ解けていないのです。
本当に効く自閉症の治療薬・医学的治療法を開発すれば、恐らくノーベル賞は確実でしょう。

※このことを知っておけば、現時点で自閉症が「治る」と自称している治療法はすべて眉唾だということが理解できると思います。自閉症に関して「治る」と言ってしまうことは、その発言者が自閉症に関して無知であるということを判断する、もっとも簡単な指標だとさえ言えます。


発達のおくれが量的なものではなく質的なものだということは、その遅れをサポートし、発達を促していくためには特別な配慮が必要だということを意味します。言い換えると、普通の子どもに対する教育と同じことを、レベルだけ下げて教えるというやり方ではうまくいかない可能性が高いのです。
そしてさらに、「治療」して治してしまうということが(少なくとも現時点では)できないことから、障害と一生付き合っていくことを前提として、子どもの生活・自活力、認知力を引き上げていくことを目指さなければなりません。
つまりそれこそが、自閉症児のための「療育」ということになるわけです。自閉症児の療育とは、能力を発揮し、ストレスなく生活するための「特別な配慮・サポート」を「一生を通じて提供する」ことにあるのです。

そして、たどる道が異なるということは、その発達過程そのものの中に自閉症児の多くの特異な行動的特徴も組み込まれている、ということでもあります。
自閉症児の特徴としてよく指摘される、特定の行動パターンへのこだわりや自傷や対人行動の異常などは、発達の最初期よりもむしろ、ある程度発達が進んだ途中の段階で目立ってくることが多いように思われます。そしてその後、順調に発達を促していくことができれば、やがて軽快していくのです。ですからこういった「自閉症の症状」は、自閉症児が「違う発達の道のり」を歩いている過程の一端が現われている姿だと理解することもできるのです。

※自閉症のいくつかの特徴が遅れて出てくる、ということは、お子さんに対する早期のセルフ・チェックに悪い影響を及ぼす場合があります。
 よく聞かれるのが「うちの子はこだわりが少ないから、自傷とか他傷がないから、○○という自閉症の特徴がないから、自閉症ではないんじゃないか」という判断ですが、このような判断はむしろ危険です。早期診断はあくまでも、M-CHATテストが問うているような「非言語コミュニケーションの遅れ」に焦点を当てて行なわなければなりません。

さらに、「質的なおくれ・発達の歩みの違い」を持っていることはつまり、自閉症児が、私たちとは違う世界を見て、感じて生きているということでもあります。
自閉症児の多くに感覚異常があることは、私たちには何でもない音に耳をおさえてパニックを起こしたり、普通の子どもは気にもしないようなタグ付きの服を嫌がって脱いでしまうといった数多くの事例や、自らの感覚体験を語る自閉症者の著書などからもよく知られています。
それだけではなく、耳から聞いた情報が拾いにくく、視覚的な情報に強く依存する傾向があることや、部分ばかりに注意がいって全体を見ることが難しかったり、「例外」や「条件」が含まれるようなルールを学ぶことができなかったり、時間の感覚がうまく持てなかったりといった、認知面での困難も数多く抱えているようです。
一言でいえば、「ヒト・モノ・社会・時間・ルール、あらゆる『環境』と適切に関わることに困難を抱えている」のが、自閉症児なのです

ですから、優れた自閉症児のための療育というのは、これら自閉症児が抱える特別な困難、特別なニーズ、その他の特別な特性に配慮し、自閉症児の感じるストレスを軽減し、最も効果的に子どもの能力を発揮する特別な環境を整えていくものであるはずです。
そしてそこには、特別な知識が必要になります。
手厳しいようですが、「スパルタ教育」とか「無条件の愛情」とか「右脳開発」とか「こまめな声かけ」のような一般的・観念的な教育・子育て理念だけでは、自閉症児を適切に療育することはできないと考えたほうがいいでしょう。

(次回に続きます。)
posted by そらパパ at 22:58| Comment(2) | TrackBack(0) | そらまめ式 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そらぱぱさん、こんばんは
すこしお久しぶりですね。
ブログは毎日のように拝見させていただいています。

「自閉症児が、私たちとは違う世界を見て、感じて生きている」

私もようやく理解できるようになったというか、価値観が違うからこそ、当然私たちが価値を見出していたものに彼らは価値を見出さないだろうということに気付いたとき、私は健常に近づけることがすべてだという気持ちを断ち切ることができましたし、なにより心理的に楽になりました。

そして心理的に楽になると子どもに一定の余裕と優しさと一貫性をもった態度で接することができています。すごいことです。
家庭の育児(療育)で接し方の態度に一貫性を持たせるのは接する時間が長いものにとっては実に大変です。
気持ちに余裕がないと一貫した態度をとることは難しいですからね。

無理させず、安全だと思える場所の確保と、そして自立を目指すためのABAの日常の生活の中での取り入れ・・が私の療育方針です。
自分がいなくなった後のことだけが心配ですが、信頼できる志のある方を後見人として見つけておくことも私の目標です。
(まだ気が早いですが)

やっとあの焦りのような葛藤の日々から抜け出せたといった感じです。どうやら私も子どもから成長させていただいているようですね。
Posted by marine at 2006年11月22日 23:47
marineさん、こんにちは。

ブログは定期的に見させていただいています。
最近、記事の内容からもmarineさんの気持ちが穏やかになってきていることを感じていました。

「場所をつくる」っていい言葉ですね。
療育をするのも、地域や行政に働きかけるのも、「後見人」を探すのも、すべては突き詰めていくと、子どもが幸せに生きていけるような「場所をつくる」働きかけなんですよね。

そして振り返ってみると、自分自身が幸せになるための努力というのも、結局のところ「自分の居場所をつくる」ことそのものだということに気づきます。

さらに思いをめぐらせれば、子どもの療育に前向きに取り組むということは、この両方を同時に満たしていく、とても有意義な営みだということに思い至ります。

私たちも、子どもから、あるいは周囲の環境から、絶え間なく成長させてもらっているんだと実感しますね。(^^)
Posted by そらパパ at 2006年11月23日 17:07
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