自閉症の子を持って
著:武部 隆
新潮新書
第1章 「障害児の親」を自覚した同時多発テロの夜
第2章 心の「鬼」と向き合いながら
第3章 民間施設で訓練を開始
第4章 行き場のない子どもたち
第5章 息子の見ている世界が知りたい
第6章 福祉が当てにならない理由
第7章 得たもの、失ったもの
著者は社会事業問題などを扱う時事通信社の記者で、自分の息子が軽度自閉症と診断されたところから物語は始まります。
私が、この本を評価しているのか、評価していないのか? と聞かれれば、正直いってまったく評価していません。読んで得られるものは残念ながら何もないでしょうし、かえって自閉症について誤解を広げていると感じてしまう部分も多々あります。
逆にいえば、だからこそ、多くの自閉症児の親が(本書の著者のような、俗に「インテリ」と呼ばれるような人を含めて)陥りがちないくつもの問題を、そのまま浮き彫りにしているとも言えます。
著者は、繰り返し繰り返し、現在の自閉症児のための福祉の「重度優先主義」を批判し、自分の「ごく軽度の」自閉症の息子に対する処遇が不十分だと嘆きます。
では、その著者が受けたという「不十分な処遇」がどんなものかを本書からざっと拾ってみると・・・
①7月の二歳半児検診で専門医を紹介され、市の訓練所を紹介される。
②訓練所に申し込むが、個別コースは4月のみ募集なので7か月待たされることに。仕方ないので集団コースにも申し込んで順番待ちすることにした。
③さらに市の保健センターに電話すると、市内の公立の療育施設を紹介してくれた。でも、そういう「障害者」の行く施設には近づけたくなかったので断った。
④発達障害児をみてくれる私立の幼児教室を見つけ、通わせることにした。(それにより発達指数が80まで上がった)
⑤やがて市の訓練所で受け入れてもらえ、訓練が始まった。
⑥幼稚園探しをしている頃、市の保健センターから連絡があり、児童福祉課の職員からコンサルティングを受けたが、入園斡旋はしてくれず、また紹介してくれた集団生活に慣れるための市の訓練施設も順番待ちが必要だったので「収穫なし」だった。
⑦母親の情報網から、入園を認めてくれる幼稚園を見つけ、入園させた。
⑧(開始時期は本文からは不明だが)スイミングスクールにも通わせ始めた。
・・・ええっと、私にはこれのどこが「不十分」「重度優先主義」なのかまったく理解できないんですが・・・。むしろ、こんな風に行政から療育サービスを3つも4つも紹介されるというのは、「重度」の自閉症児にとってもあまりない、恵まれた環境だという印象さえ受けます。
そして、著者のいう「不十分な処遇」の真相というのは、どちらかというと、市が提供しようとする療育が好みに合わなくて、「もっと違うのはないのか」と要求しては「そんなものはありません」と言われる、それを「希望する療育が受けられない」と受け止めているようにしか思えません。
例えば、本書の上記③に該当する部分を引用してみると、
その施設の存在は、市内に住んでいる者なら誰でも知っている。しかし、一般市民から見れば、そこに通う子どもは紛れもない「障害児」だった。
長男は、訓練によっては健常児と同じレベルまで発達する可能性があると言われている。しかし、いくら発達を促すためであっても、療育施設に通い始めれば、長男が社会的に障害者と認定されてしまう気がする。そうした場所には、できるだけ近づけたくなかった。(初版46ページ)
・・・ごめんなさい、私が市の職員で、相談を受けた親御さんに療育施設を紹介して、こんな態度(口に出さなくても伝わるでしょう)で拒否されたら、やっぱり「じゃあ勝手に探してください」といったニュアンスの言葉を返すと思います。
この「感情」については、著者も「この気持ちが差別なんだということにはまだ気づいていなかった」とフォローしていますが、著者の、「『障害者』の世界からできるだけ逃げて、『普通』の世界にできるだけ踏みとどまりたい」という差別的ニュアンスを含む感情は、結局、最後まで消えることはありません。
病院で受けた発達テストで、標準的な子どもを100とした「発達指数」は69と判定された。発達指数は知能指数の乳幼児版のことだ。「指数80以上が正常範囲内」とも言われたが、どうすればあと11上がるのかは、まったく分からなかった。(初版61ページ)
三歳の春から夏にかけて、長男はスピードこそ遅いものの、着実に発達を続けた。
しかし、言語面、行動面いずれについても、同じ年齢の健常児に比べ一歳から二歳分は遅れている感じがした。ほかの子どもたちも急激に発達する時期なので、長男の発達ペースではむしろ格差は開いていたのだ。(初版89ページ)
著者と妻は、長男をぜひ普通学級に通わせたいと考えていた。(中略)ただ、決して親の見栄で普通学級への入学を望んだわけではない。
長男には将来、親兄弟の介助を受けずに生活できるようになってほしいと考えている。そのためには、普通学級で学習し、周囲との人間関係を築けるレベルにまで発達してもらわなければならない。(初版171ページ)
著者が徹頭徹尾要求している「サポート」というのは、「『普通』になれるための訓練」です。
でも結局それについて言えば、私立の幼児教室に通わせることでそれなりに目的は達成できています。(この幼児教室、なぜか具体名がバンバン登場して、著者の息子の成績があがったという話とセットで長々と語られているので、まるでこの本はこの教室の宣伝本のように見えて、ちょっと違和感があります。)
わたしは、福祉サービスも限られた社会の財によって営まれている以上、「公」と「私」のバランスが重要だと思っています。「私」で適切なサポートが受けられるのなら、それはそれで「満たされている」という側面もあると思います。
その一方で、「重度」の子どもは、受け入れてくれる幼児教室もほとんどないでしょうから、どうしても「公」の福祉サービスに頼る部分が大きくなるでしょう。
「すべてを『公』のサービスに頼ろうとする」というのは、著者が「公共事業、地方財政制度、社会保障政策などに詳しい」(本文より)職業記者だということを考えると、ちょっと議論が幼稚すぎるという印象をぬぐえません。
全体として、子どもが自閉症児だったことへのショック、親として何とかしたいという願望と、それがかなえられないことへの愚痴に近い批判、それらが延々と書かれているだけの本、という印象が強いです。
もちろん、こういう話を親しい友人から酒でも飲みながら語られたら、親身になって聞いて、愚痴に対しても「そうだよな、ひどいよな」と返すでしょう。でも、それは親友の酒飲み話だから意味があるのであって、買って読む本である以上、ただの愚痴ではなく、読者が興味を持って読めて、何か意味のあることを提供できなければならないはずです。残念ながら、本書にはそれが欠けています。
また、本として出ることで、社会に対して「これが自閉症児の親の代表的な意識であり主張なんだ」という印象を与えるでしょう。確かに、親としての1つの意識の典型は映し出していると思いますが、全員がこう考えているわけではありません。
この内容、この議論のレベルでは、商業出版として出すべき本ではなかった。それが正直な私の感想です。
※その他のブックレビューはこちら。
何か、この子(長男さん)かわいそう・・・
私が一番に思った感想です。
『普通』になれるために、どれだけ無理させられたか・・・?と想像したら、かわいそうになってきました。
この子のありのままを受け入れることは出来ないのか?その上で、それに合った無理のない療育をしてあげられないのか?
疑問に思います。もっとこの子を認めてあげて欲しいな・・・
私の周りにも、そういう人がたくさんいて、いつも疑問に思い、悲しくなります。
この子の将来を考えるからこそ、無理なく、楽しく、ひとつずつゆっくりと、出来ることを増やして行ってあげるべきじゃないかな?と思います。
親として、自分は何か努力しているのでしょうかね?行政に頼ってばかりのように見えますがね・・・
そして、何より子ども自身が一番頑張らされているようにしか見えませんよね!
いっくんママさんのようなコメントがもらえて、正直、ちょっとほっとしました。
療育イコール「普通になる・させるための努力」だ、という考えがもしも当たり前なのだとしたら、私の主張のほうが異端だということになるわけですから・・・。
ご指摘のとおり、本書の最大の問題は、目の前にいる子どもそのものではなく、『普通になった』子どもの幻しか見えていないのではないか、という点にあると思います。
レビューではあえて引用しませんでしたが、著者が通わせたという幼児教室も、市の「訓練所」も、どちらも子どもが嫌がってもあくまで課題をやらせるような、少なくともABAの視点からは首を傾げたくなる教育方針で、その中で子どもが必死に適応していく様子は、読んでいて辛くなります。
「子どもが幼児教室に通い始めて最初に覚えた物の名前以外のことばは『がまん』だった」というエピソードがそれを物語っています。
それでも、子どもの適応能力ってやっぱり素晴らしい、と思うのは、こんな環境の中でも適応して能力が伸びていくところです。
それを素直に感激して喜べばいいと思うのですが、幼児教室の先生から「この程度で喜ばずに、もっと上を目指しなさい」と言われて納得してしまうあたりにも違和感を感じます。
療育を続けるなかで、親はついつい、「努力」しているのは自分であるかのような錯覚に陥ってしまうことがありますが、一番努力していて、一番苦しんでいて、だからこそ一番すばらしいのは子ども本人なんですよね。
そのことに気づいたら、誰かと比べて優劣を語るなんてできるはずがないと思うのです。
18年4月に3歳になったばかりの長男が自閉症(中度)の診断を受けた40歳の父です。息子が診断されて以来、そのパパさんや奥さんのブログをはじめ、いろいろな書籍から情報を集めて自分が勉強していくなかで、ある時期、この父親のような考えを持ったこともありました。しかし、さらにいろいろ勉強していく中で、本当に考えてやらなければならないことは、息子ができることを一つでも多く増やしてやって、親が高齢になり、またはいなくなった後に
社会の援助を受けて人生をどんな形にせよ全うできるようにしてやることだとつくづく思うようになりました。このためには、まず親が、身近なところで利用できる「公」のサービスを上手に利用し、最終的には両親がどこまで愛情を持って、あきらめずに冷静に息子に働きかけてやれるかということだと
お気持ちは理解できます。
自分や家族の障害やがんなどを告知されたとき、最終的な「受け入れる気持ち」にいたるまでに、否認、怒り、抑うつ、取引、受容という5段階を必要とするとよくいわれます。
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00105/_kamoku/kiso/2000/sakasita.html
子どもの自閉症を告知された親の立場で噛み砕くと、こんな感じでしょうか。私もやはり、これに近い段階は踏んでいったのではないかと思います。
否認=子どもは自閉症でないと思い込む。
怒り=周囲の親や子への怒りやねたみの感情に支配される。
抑うつ=ゆううつな気分になる。
取引=神に祈る、自分が何かを頑張るなどの行為によって子どもは治るのではないかといった気持ちに支配され「わずかなチャンス」のようなものに賭けてみたくなる。
受容=子どものありのままの障害を受け入れる覚悟を決める。
本書の著者は、本質的な意味で「受容」にたどりつかずに、「取引」の段階に留まっているように思われます。子ども、特に著者の息子のように「軽度」と診断されたようなケースでは、実際に療育によってかなり伸びる部分もあり、「普通」を目指す「取引」の段階が長く続く場合があるようです。
もちろん、子どもの療育を頑張るというその点においては素晴らしいのですが、もし本当に「取引」の段階にとどまっているとすれば、それは目の前のありのままの子どもを受け入れていないということにもなりますので、それが問題なんじゃないかと思っているわけです。
ひかりお父さんはその段階を抜けて、子どもを受け入れつつ必要なサポートを与えていこうという気持ちに到達されていると感じますので、今後、親子双方にとって有意義な療育に取り組めるだろうと確信しています。
決して平坦な道のりではないですが、お互いに前を向いて進んでいきましょう!
(コメントが途中で切れているようでしたが、意味はとおると判断したので公開させていただきました。)