ここまでの「一般化障害仮説」の内容を改めて簡単にまとめてみます。
①この仮説の背景にあるのは、新しい認知心理学である「コネクショニズム」の考え方です。
②この仮説では、環境から学習する脳のしくみとして「抽象化処理」と「一般化処理」を考えます。
③「抽象化」とは、環境とのかかわりの中で生起する事象を情報として蓄積する処理を指します。
④「一般化」とは、集めた情報を再構成し、環境に働きかけるルールを導き出す処理を指します。
⑤この2つの処理能力にアンバランスが生じると、一般化がうまくできなくなります。
⑥「抽象化>一般化」というアンバランスにより一般化処理が阻害され、環境との相互作用がうまくできなくなるのが、自閉症の発症機制だと考えられます。
ここからは、この「一般化障害仮説」に、私がもともと考えていた「環境知覚障害仮説」、すなわち、環境との相互作用の障害が、自閉症の具体的な症状の本質であるという視点を融合させ、さらに理論を拡張して自閉症の全体像に迫り、さらに療育の方向性について考えていきたいと思います。
まずはこの図をご覧下さい。
これが、私の考える、拡張された「一般化障害仮説」のイメージ図になります。(ちなみにこの図は健常者の状態を表したものです。)
図の真ん中に、大きな1つのサイクル(循環)が存在するのが見て取れると思います。これが「環境とのフィードバックループ」であり、ヒトが環境との相互作用を繰り返しながら学習・適応していく過程を表現したものです。
環境からのさまざまな「入力」、またヒトの側から環境へのさまざまな「働きかけ」、さらにはその働きかけに対する環境からの「フィードバック」、これらの一連の事象が脳で抽象化されて蓄積され、さらに再構成されて一般化されることによって、私たちは環境を知覚し(知り)、環境に対して適切に働きかけていくことができるようになり、さらにそれによってより効率的に環境から学ぶことができるようになり、社会に適応するための「知性」を発達させていくと考えられます。これが「大きなサイクルが健全に回る状態」です。
この「環境に働きかけて影響を与え、与えた影響について環境からのフィードバックを受ける」ことの繰り返しこそが「知覚」であり、この「知覚」のためには、「自らも環境の一部として場を占めている」という意味での「からだ」が必要です。つまり、知覚の主体としての「からだ」は、脳や皮膚の中に留まっているわけではなく、環境の一部にまで拡大した「環境に広がる『わたし』」として存在します。
もちろん、ここで考えている「環境」というのは非常に広い概念で、モノ、ヒト、自己が存在する「空間」としての意味、時間といったものまで含めた「『わたし』を取り囲み、『わたし』の外側に広がる世界」を意味しています。
従来の「環境知覚障害仮説」では、この図のうち「脳の内部」をブラックボックスとして考え、自閉症児は環境との相互作用に失敗するという仮定を出発点として自閉症の機制を考察しました。
今回の新「一般化障害仮説」では、ブラックボックスだった脳の内部をモデル化し、環境とのフィードバックループを回すことこそが「環境との相互作用」であり、そのサイクルのある種の異常が「自閉症」であると考えることにより、さらに仮説として踏み込んだものになっています。
ここで、脳の内部のモデルとしては、既に説明した「抽象化処理モジュール」と「一般化処理モジュール」に加え、抽象化モジュールに対する「刈込み機能」を想定したいと思います。
「抽象化処理」に最も関連すると思われる海馬という脳領域では、一旦大きく成長したニューロンのかなりの部分を自殺させて「シェイプアップ」する、刈込みという現象が発達の過程で複数回起こることが分かっています。
(参考記事)
http://www.pref.fukushima.jp/seisinsenta/specify/kawara/brain_develop.html
脳のネットワークを「ニューロン本体」と「ネットワークの配線(ニューロン同士の接続)」に分けて考えると、刈込みは、ネットワーク形成に役立たないニューロンを消すことで、ネットワークの配線を広げるためのすきまを確保する、脳の適応プロセスだと考えられます。そして、非常に大ざっぱにいえば、「ニューロン本体が増えること」は抽象化処理の向上に、「ネットワークの配線が増えること」は一般化処理の向上に、より強い関係があります。
この仮説においては、抽象化処理が肥大化しすぎない(ニューロン数が増えすぎない)ようにするために刈込みが行なわれると想定します。つまり、一般化処理モジュールとのアンバランスが起こらない「適切なパワー」になるよう、抽象化処理のためのニューロン数を増やしたり減らしたりしながら微調整している、と考えるわけです。
[関連文献]:環境のなかに「わたし」を見出す、生態学的哲学の本と療育理論。
環境に拡がる心―生態学的哲学の展望
著:河野 哲也
勁草書房 双書エニグマ (レビュー記事)
遊びを育てる―出会いと動きがひらく子どもの世界
野村 寿子
協同医書出版社 (レビュー記事)
(次回に続きます。)
この「新しい認知心理学から・・・」のシリーズを何か新しい流れの胎動から誕生までをたちあっている感じで読んでいます。過去、さまざまな療法・理論がただ直輸入されてきては消えていきました。が、教条でなく、閉鎖系の理論でないものが、体験と理論の相互作用からなにかが生まれつつある感じです。わくわくしますね。これからも追わせていただきます。
ちなみに、「手続き記憶」の概念は、この図にどう関連しますでしょうか?。このループのサイクル全体が関連してくる気もしてきますが。古典的な概念ばかりでもちこんで、場が読めてなくてすいません。陳述記憶でなく、環境や文脈における手続き記憶がキーとなる気が臨床的に日々するもので、気になっていまして。おひまなときにコメントいただけると幸いです。
ふたたびのコメントありがとうございます。
おっしゃるほど大したものではないと思いますが、精一杯自分なりの力を出し切って書いていこうと思っています。
お尋ねの手続き記憶の件ですが、この「一般化障害仮説」は必ずしも脳の働きの全貌を明らかにするものではないので、以下の説明はある程度この仮説とは独立して私が考えていることだと理解いただければと思います。
以前もコメントした「大脳の階層構造」を極限まで単純化して3つに分けて考えると、最下層に感覚野と運動野、その上の層に運動連合野、最上位に前頭前野というピラミッド構造を考えることができます(簡単のため、言語などを司る側頭連合野も、ここでは前頭前野の中に含んでしまいます)。
ここで、感覚野は感覚器からの入力を体制化し、運動野は筋肉を動かし、運動連合野は感覚と運動を統合的に調整し、前頭前野は運動連合野で統合された知覚がさらに階層をのぼって「一般化」されていく結果、ここに表象が生まれ、言語が生まれ、概念が生まれ、倫理が生まれ、さらには「意識」が生まれると考えられます。
つまり、ピラミッドの最上位層である前頭前野は、そこに至るまでの下位層での情報の度重なる「一般化」のおかげで、高度に概念化された表象を扱うことができるわけです。
ところが、この「一般化」の力が弱いと、このような大脳内の一般化ピラミッドを上がっていくときに、本来のペースで「一般化」が進んでいかず、下位層の雑多なノイズを含んだ情報がかなり上の層にまで食い込んできてしまうことになります。
そうすると、本来は運動連合野くらいまでで済むはずの処理が前頭前野にまで食い込んできてしまって、前頭前野の本来の仕事である抽象的思考や言語や概念操作(当然ここには高度な社会的営みも含まれるでしょう)が十分にできなくなってしまうでしょう。
以前も触れたジェフ・ホーキンス氏の大脳モデルを参考にして、「抽象化・一般化」についてさらに踏み込んで考えると、自閉症の脳の障害のモデルとして、上記のようなものが考えられるのではないかと思います。
さて、一般的に言われる手続き記憶というと、自転車に乗るとか飛んできたボールを受け止めるといった技能の修得に関わる記憶だと理解していますが、これは本来は運動連合野よりも下位の階層で完結するフィードバックループの中で記憶されると考えられます。(ですから、まさにこの図の中に組み込んで考えることができます)
さらに、ご指摘のとおり、「意識されていること」以外のほとんどのヒトの行動も、手続き記憶に基づいてなされています。話すことも、コミュニケーションも、相手の表情を読むことも、「心を読むこと」も、みんなそうですよね。これらの「より高度な手続き記憶」は、今回の言い方でいうと前頭前野まで上がってきて、そこで記憶されると思われます。
このように、大脳は、ものをつかむことのような比較的単純なことから相手の心を読むといった非常に複雑なことまでを、脳の階層のあらゆる(その行動の複雑さにふさわしい)場所に、ネットワークの反応パターンとして「記憶」します。
単純なことは下位層に、複雑なことは上位層に記憶されるわけです。
自閉症児の場合、各階層での「一般化」がうまくいかないため、本来運動連合野以下で済んでしまうような手続き記憶であっても、もっと上の階層まで使い込んで、なんとか「一般化」して学習しているのかもしれません。その結果、運動などの手続き記憶は「見かけ上」問題がないように見える(でも自閉症児はやはり多少不器用な場合が多いですよね)一方で、その大脳容量の「使い込み」によって、より複雑な社会性や言語を処理する階層・容量がなくなってしまい、障害がおこってくるという可能性が考えられます。
すみません、これもまだ思索中の考えの一部になってしまっています。まだ修正が必要だと思いますし、ご期待されているような答えになっていないかもしれません。(でも、こういった質問をいただくことで、新たな着眼点が得られますし、私の頭の中も整理されます。ありがとうございます。)
さっそくですが質問があります。
そらパパ氏は抽象化モジュールに対する「刈込み機能」を想定とあり、その参考記事をあげられています。ですが上記参考記事にはシナプスの刈り込みとあり、シナプス、つまり配線に対する刈り込みなわけですからここに理論の飛躍がある気がします。
海馬にてニューロンそのものへの刈り込みがあるという見地があるのでしょうか?
私は素直に配線の刈り込みによって過学習を抑制すると考える方が自然だと思います。ただその場合アスペルガー型を刈り込みモジュールへのダメージとして説明されているので再考する必要があるかと思います。
そらパパ氏の御意見をお聞かせ下さい。駄文失礼しました。
確かに刈り込みの対象になるのはシナプスのようですね。混同して書いてしまっていたようです。失礼しました。
ただ、ニューロンの動作の本質はネットワークにありますから、ここの議論のニューロンをシナプスに置き換えても、他の議論にはほとんど影響を与えないと思います。(過学習の抑制、というと過去だけを向いた議論になってしまいますが、配線の過剰なニューラルネットワークは、将来に向けた学習アルゴリズムにも不調をきたすと思われるので)