2006年10月12日

新しい認知心理学から自閉症を考える(5)

前回まで、コネクショニスト・モデルに基づく自閉症へのアプローチの意義について考えてきましたが、ここで「認知過程のシミュレーション入門」からの引用文に戻りたいと思います。

この仮説では、「学習」というやや広い概念を、一段下の「抽象化」と「一般化」という2つの構成要素(モジュール)に切り分けています。


↑「抽象化」「一般化」の情報処理イメージ

ちなみに、この切り分けについても、単なる空想から「ひねり出した」ものではなく、シミュレーションを通じて、実際にヒトと同じように環境から学ぶことのできる学習モデルとして導き出されたものになっています。

※なお、ここから先の部分は、私が参照した3冊の本(関連図書参照)それぞれで、引用されている研究は同じであるにも関わらず導かれる結論が微妙に違います。
 本シリーズ記事での記述は、「環境知覚」「環境との相互作用」という観点を特に強調しつつ、これらの本の主張を私なりに再構成したものになります。

そして最大の発見は、このような2つのモジュールによる学習モデルを考えたとき、「一般化モジュール」にとって必要なのは「最適な量の(抽象化された)情報」であって、情報量が多すぎても少なすぎても一般化が阻害されてしまう、というシミュレーション結果です。
これを言い換えると、環境知覚にとって最重要なのは、「抽象化モジュール」と「一般化モジュール」の力の適正なバランスにあり、どちらかの力が強すぎても弱すぎてもダメ、ということです。
ここで、自閉症の各種の二重解離を説明できそうなのは、「抽象化モジュールの能力>一般化モジュールの能力」というアンバランスが起こっているモデルです。

・・・少し話が先走っているので、ここで、「抽象化」「一般化」とは何か、ということをまずご説明したいと思います。

「抽象化」とは、環境とのかかわりの中で生起する事象を、脳内の情報処理で扱えるような「情報」に変換し、蓄積することを指します。
環境について「学ぶ」あるいは「ルールを見つける」ためには、環境についてのいろいろな「情報」があらかじめ蓄積されている必要があります。そういう「情報を集めて蓄積する(ネタを集める)」のが、「抽象化モジュール」の役割です。

※ここで「蓄積」というと、私たちはどうしても脳の中にハードディスクやメモリーカードのような「データ保存場所」があって、そこに倉庫の中に荷物を置くようにデータを並べることをイメージしてしまいがちです。
 今回の仮説を理解するうえではそう考えても差し支えありませんし、これからご紹介するイメージ図でもそれに近い描き方をしていますが、実はこのようなイメージでは「古い人工知能」のモデルに戻ってしまっていることになります。
 実際には、コネクショニスト・モデルにおける「情報」は、ネットワークの反応傾向として蓄積されます。
 この辺りに興味のある方は、記事の最後でご紹介している3冊の本やその他のニューラルネットワーク・コネクショニズムに関する本を参照ください。

一方、「一般化」とは、そうやって集まってきた情報を再構成し、環境に働きかけるための「ルール(かかわり方)」を学んでいくことだと言えるでしょう。
集められた環境についての情報(ネタ)は、それだけではばらばらな個別事象であって、しかも過去のことです。それらの情報を意味のある形で再構成し、「こういうときはこう行動する」といった、過去ではなく将来に向かって活用できる一般化されたルールの形で、環境との「かかわり方」を学んでいかなければなりません。このような情報処理を行なうのが、「一般化処理モジュール」の役割だといえます。

簡単にいえば、「抽象化」とは個別の経験をどんどん蓄積していくこと、「一般化」とは蓄積された個別の経験から将来に向かって適用できるような「ルール」を導き出すことを指します。
こう考えると、「一般化」というのはある種の「単純化」であることや、基本的な情報処理の流れは「抽象化→一般化」の順となることが理解されるでしょう。
そしてさらに、「自閉症」というのはこの「一般化」がうまくいかない障害なのではないか、という直感も持っていただけるのではないでしょうか。それがまさにここで解説しようとしている「一般化障害仮説」なのです。

[関連文献]:コネクショニスト・モデルに基づく自閉症論(再掲)


認知過程のシミュレーション入門
伊藤 尚枝
北樹出版 (レビュー記事

脳 回路網のなかの精神―ニューラルネットが描く地図
マンフレート シュピッツァー
新曜社 (レビュー記事

自閉症に働きかける心理学〈1〉理論編
著:深谷 澄男
北樹出版 (レビュー記事

(次回に続きます。)
posted by そらパパ at 23:04| Comment(9) | TrackBack(0) | そらまめ式 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
古典的な心理学を学んでしまってその思考の枠組みから離れられない者ですが、少し説明を加えていただけると幸いです。
 抽象化という用語が今ひとつとピンとこないのですが、たとえば、「符号化」(encoding)、あるいは「表象」という用語を使うと、どのように説明されますか?
 また同じく古典的な用語である、認知発達の「同化」と「調節」という用語ではどうでしょうか?。こうした用語はむしろ使用されるべきでないかもしれません。が、すこしでも認識を新しい枠組みにスムーズに移行したいと思いまして、お願いした次第です。
Posted by こうちゃん at 2006年10月17日 12:43
こうちゃんさん、こんにちは。

はじめに、第6回の補足で少し書いていますが、「抽象化」と「一般化」を独立したモジュールとして表現していることで、かえって古典的計算主義的な考え方との違いが見えにくくなっている面がありますね。脳の中では、この2つの処理は渾然一体、かつ入れ子構造になって進むと考えられます。

基礎的なコネクショニスト・モデルのコンピュータ・シミュレーションにあてはめた場合、「抽象化」というのはニューラルネットに入力するためのデータセットを用意することに対応します。
シミュレーションにおいてはあらかじめデータは「用意されている」わけですが、脳の中を考えてみると、入力するべきデータを作るところから始めなければなりません。この「データを作る」部分が、本論での「抽象化モジュール」に相当します。

ですから、「抽象化」というのはシンプルに「ネットワークが、同じ入力がきたら同じように反応する」ということです。例えば、今「リンゴを見る」という経験をして、仮に1分後に、寸分たがわないまったく同じ「リンゴを見る」という経験をしたときに、脳のネットワークが同じ反応ができるようなニューラルネットの「入力系」が構築されていることが、「抽象化モジュールが機能していること」です。

それに対して、さらに1分後に、それまでの2回とはちょっと違う「リンゴを見る」という経験をした場合(こちらのほうが普通ですね)に、その「少しの違い」をノイズとして排除して、それまでの2回と同じ「リンゴを見ている」という認知ができるようなニューラルネットの「出力系」が構築されることが、「一般化モジュールが機能していること」です。

そして、脳のある階層で「抽象化→一般化」のプロセスをへて出力された情報が、さらに上位の階層で抽象化された情報として入力され、一般化処理されることで、情報のさらなる一般化が進みます。
このように脳を階層構造で考えると、「抽象化→一般化」という内部構造をもったユニットがピラミッドのように上下関係を持ってつながり、それ全体でみると、下位層が「抽象化」、上位層が「一般化」の役割を担っている、という入れ子構造になります。これが、先日ご紹介した「考える脳 考えるコンピューター」でジェフ・ホーキンス氏が主張している大脳の処理システムで、私も基本的に賛同しています。
そして、本論での「抽象化」「一般化」は、どちらかというと、個別のユニット内での抽象化/一般化の議論ではなく、この、よりグローバルな脳全体の階層構造による抽象化/一般化に着目した議論になっています。

端的にいうと、「まったく同じモノを同じモノとして扱えること」が抽象化モジュールの役割、「似ているモノを同じモノとみなすこと」が一般化モジュールの役割です。
「同じモノを同じに扱う」というと当たり前に聞こえますが、ニューラルネットでは刺激に対する反応傾向は確率的にしか決まりません。ですから同じモノを同じに扱うためには、そういう反応傾向を確立するための「トレーニング」が必要です。抽象化処理が機能している、というのは、この反応傾向ができあがっていることを指しているわけです。

この辺りの詳細については、今でも頭をしぼっていろいろ考えています。必ずしもクリアなお答えになっていないと思いますが、ご容赦ください。

ちなみに、ご指摘の用語について考えると、

「符号化」というのはここでいう「抽象化」とある程度互換性のある考え方だと思いますが、ある決まったアルゴリズムで処理するためのデータを作る、そのデータの「意味」は外部から与えられる、といったニュアンスがより強いと感じるので、やはり古典的計算主義的用語であり、コネクショニズムにはなじみにくいのではないかと思います。

一方、「表象」といってしまうと、それは既にある程度一般化された「意味」をもった操作単位ということになりますが、コネクショニズムで扱っているものを表象と考えるべきかどうかについては、意見が分かれています。比較的有力で、私も基本的に賛成している意見としては、情報が脳の階層を上がっていき、「一般化」がある程度進んでくると、ある段階で、言語的に操作可能な「表象」と呼べるようなものが「創発」する(そしてこの辺りの階層レベルで「言語」も生まれる)という考え方です。
ただ、いずれにしても、本論のモデルと表象とは、積極的な意味では関係がないと考えています。

コネクショニズムと表象に関する認知哲学的論考
http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/37/37ws/37ws.html
↑このページの「10月3日午後 A会場 思考の言語とコネクショニズム」の各資料がほぼすべて「コネクショニズムと表象」に関する哲学的議論になっています。これを読むと、コネクショニズムというのは科学とか言語とか素朴心理学(心の理論)に関する私たちの常識に対しても根本的な転換を迫る、一大「科学思想」であることがよく分かると思います。

最後に、同化と調節というのはピアジェ理論の用語だと理解していますが、「同化」は一般化とほぼ対応するといっていいと思います。「調節」というのは「一般化」の質的な大転換のことを意味していると考えられますが、これは恐らく、今回の理論でいうと「脳の多階層化」に相当するでしょう。一般化の質的な転換のためには、脳の階層数がより多段化することが必要になると思いますので。

Posted by そらパパ at 2006年10月17日 21:10
そらパパさんへ
さっそく、ていねいにお答えくださりありがとうございます。リンゴのたとえがわかりやすかったです。そして、抽象化と一般化の過程が独立しているのでなく、入れ子的に機能しており、独立したモジュール単位でなく、脳全体の階層構造機能であるということが、すこし理解できたような気がします。私も、アルゴリズムにモデル還元して説明するようないわば古典的認知心理学的理解は、人の意識・行動過程を説明するにはあまりに単純化していると思っていましたので、本ブログでご紹介してもらっているコネクショリスト・モデルの考え方にはつよい魅力を感じています。でも、まだほとんど理解できていないという段階ですが。丁寧に説明いただいて、ほんとうにありがとうございます。ちなみに私は臨床心理士なのですが、ご存じかもしれませんが、たとえば広汎性発達障害を例にとっても、いまだに、ロジャーズ的アプローチや、ユング的アプローチの立場、あるいは現代精神分析の間主観的立場で、議論がなされることがままありますが、私には、それでは来談者や子どもの事象やその成長や改善過程をあまり説明できないし、成長を促進する介入の指針には十分であると言い難いという実感があり、そのため、いろいろとABAやTEACCHについて学んでいるところなのです。大学の臨床心理学の先生方は伝統的臨床心理学(ユング、フロイト、ロジャース)かせいぜいその延長の考え方をしている方がすべてとは言いませんが多いので、臨床心理士の私もそういう考え方をこれまで一生懸命学んできたわけです。それはそれで有益で基本的姿勢としては大切であると思っていますが、説明し難い臨床的事象があるのは現前としており、既存の理論以外の考えの枠組みも是非考慮していくことが必要だとおもっているのです。そして、そういう私にとって、このブログはとてもありがたいし、学んだことを、ぜひいつかはクライエントに漫然と共感的に接するだけでない有益な指針として還元できればと思います。脱線してながくなってすいません。本当にありがとうございました。
Posted by こうちゃん at 2006年10月18日 12:43
こうちゃんさん、

コメントありがとうございます。
臨床心理士の先生からコメントをいただけるというのはとても光栄に思います。

コネクショニスト・モデルは認知心理学の世界でもまだまだ傍流で、さらにそれを臨床に応用しようなんていう研究は非常にマイナーだと思いますが、実はコネクショニスト・モデルの考え方は自閉症の問題を考えるのに非常に相性がいいのではないか、と最近強く感じるようになりました。
それがこのシリーズ記事を書こうと思ったきっかけです。
少なくとも、ブログの世界ではまだ誰も書いたことのない内容を書いているつもりでいますので、よろしければ今後もご笑覧ください。

臨床心理の世界では、やはり歴史のある精神分析やロジャースが重視されているのはある意味自然なことなのではないかと思います。臨床心理士資格も、ユング派の大御所である河合先生が中心となって設立された資格だと理解しています。
ただ、素人ですので浅はかなことは書けないのですが、現に目の前の自分の娘が自閉症で、何とか療育をしていかなければならないときに頼りになるのは、やはり精神分析や心理療法ではなく、TEACCHであり、ABAであり、PECSであるのも事実です。

ほかの記事で少し書いていますが、「心のケア」のニーズがあるのは、むしろ自閉症児の子育てで疲れている親御さん、特に母親なんじゃないかな、と思っています。
そういう家族全体に対するトータルのサポートが提供されれば、本当にありがたいと思いますね。
Posted by そらパパ at 2006年10月18日 22:55
難しいなぁ。
「知覚刺激を感覚刺激化する効率が悪い」みたいな話ですか?
多数のビットを一瞬で取り込むような情報処理を可能にさせるシステムが、逆に有意味な情報をマスキングするみたいな話ですか?
Posted by 通りすがり at 2007年05月23日 00:08
「通りすがり」さん、

ビットはビットでしかなく、それをただパターン認識するのではなく、「情報」に昇華させるためには、どこかから「意味」が舞い降りてこなければならないはずですね。
その「意味」は、ある種の脳のネットワークの働きによって創発的に生じるものと考えます。それを言い換えたものが「一般化」だということもできると思います。

このあたりの議論は他のエントリにも広がってあちこちで議論していますので、そちらもご覧ください。
Posted by そらパパ at 2007年05月23日 23:46
ホームページが面白いので、なかなか通りすがれずにいますw

「舞い降りてくる」というのは詩的表現ですが、そもそもそれら「無意味パターンの中の有意味情報を抽出するシステム」は、漠然とシェマとして理解していましたが、どういった違いがあるのでしょうか?

また、「無意味パターンの中の有意味情報を抽出するシステム」の学習については、抽象化と一般化の入れ子に留まらず、環境との相互作用においての輻輳的入れ子である、としているのが面白いですね。
ひさびさに正統的周辺参加論的学習観を思い出しました。
Posted by 通りすがり at 2007年05月26日 20:01
シェマ云々のところはコメントでやり取りなされているのを発見しました。
良く見ていなくて、すみません。
Posted by 通りすがり at 2007年05月26日 20:07
「通りすがり」さん、

「舞い降りてくる」の部分についてですが、環境からの入力が脳のネットワークに与えつづけられると、ある段階で突如として「意味」が生まれてくる、というのは、考えれば考えるほど不思議なことです。このあまりの不思議さに対して、あえてこういう詩的?な表現を使いました。
もちろん、だからといって「意味」は神が与えたもうた、という議論をしたいのではなく(それはそれで哲学的には意味のある議論だと思いますが)、意味は「創発」されるのだ、という複雑系の議論になっていくのだと思っています。(まあ、「創発」といってもあいまいさは変わらないわけで、私のレベルでは深い議論はできませんが・・・)
Posted by そらパパ at 2007年05月29日 07:05
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