自閉っ子、自立への道を探る
服巻 智子
花風社
自閉っ子、故郷に生きる(藤家寛子さん)
生活のバランスを探る
作家デビューと生活上の挫折
だから支援が必要だ! ほか
子どもの気持ちがわかるから…(風花さきさん)
みんなも我慢してるんだろう
なぜ教師を目指したか
こんな工夫をしている ほか
自閉ライダー、前進!(成澤達哉さん)
わざとじゃないのに
家族の印象
学校生活 ほか
タイトルが「自閉っ子、自立への道を探る」となっていて、立ち読みでちらっと目を通すと、以前このブログでもご紹介した、同じ花風社の「自閉っ子、こういう風にできてます!」と同様に、「自閉っ子」が社会自立への道を自らのユニークな視点から語る、といった内容なのではないかと期待して読みました。
ところが実際には、確かにそういう面もなきにしもあらずなのですが、本質的な内容はかなり違うものでした。
私にとっての「期待とのずれ」というのは、具体的にいうとこういうことでした。
本書のタイトルが、「自閉っ子、自立の道を探る」と、「自閉っ子」の後ろに読点が打ってあったこともあり、私はそれを「自閉っ子が自立の道を探る」、つまり自閉っ子の(自立に関する)生の声がフィルターなしにそのまま聞ける、といったイメージを持っていました。
というのも、その部分こそが、私が以前の「自閉っ子、こういう風にできてます!」を読んで、最も面白かったと感じた部分だったからです。
ところが実際は、同じようにタイトルに加筆して明確化するとすれば、「自閉っ子の自立の道を著者が探る」といった内容でした。つまり、自閉症者自身の生の声というよりは、著者である服巻さんが解釈した「自閉っ子の世界」が主として語られる本だったのです。
(最初から、著者としてクレジットされているのが服巻さん1人だけで、「自閉っ子」の方の名前が入っていないというということに、もっと着目すべきだったのかもしれません。)
つまり、服巻さんが、苦労しながらも社会的自立を達成しているアスペルガー症候群の成人の方との対談を通じて、「自閉っ子」が社会的自立をするにあたって、
・どのような支援が必要で、
・どのようなことを考慮すべきで、
・現実にはどのような苦労が待っているのか
といった問題について、著者としての意見を語ることが本書の内容の中心になっています。
さらに、対談相手の自閉症者の言葉について、著者の豊富な自閉症支援の経験にもとづく「解釈」が大胆に語られるのも、本書の大きな特徴でしょう。
服巻さんが非常に豊富な経験をもち、自閉症者支援に多大なる貢献をされていることは、例えばこの放送などから知ることができます。
http://www.nhk.or.jp/fnet/arch/wed/40128.html
NHK 福祉ネットワーク/シリーズ わがままと言わないで
2.アスペルガー症候群・思春期の子どもたち
一般論としていえば、自閉症支援とはいかにあるべきかについて、これ以上適任者はいないと思われる著者が語り、さらにそこに「実際に自立への挑戦を続けている自閉症者」の発言が加わることで、リアリティのあるメッセージが打ち出せている良書と言えると思います。
主張の軸もぶれておらず、内容も明快です。
ですから以下は、「読む前の期待を少し裏切られた」私の、単なる個人的な意見としてご理解ください。
私は個人的には、本書のようなスタイル、つまり障害なり問題なりを抱えた人の発言を、その問題の「プロ」が「解釈」し、本人の発言内容を超えた意味をもたせたり、一般論として解説したりする心理療法的なやり方には、多少の違和感を感じます。
例えば、以下のような文章です。
周囲の動きや提供される情報が、周りの人と自分にどのような関連があるか、瞬時に把握することが困難な脳なのです。だから、提供されている情報が大切なことだというブックマークがつかないんです。聞いてても情報の重要性や優先順位を判断したり、処理したりできないから。
情報処理のキャパがおそらく小さいんですね。そして自分の中で自分なりの物事の優先順位があるから、自分にとって優先順位の高い情報でキャパが埋まってしまうんですね。
で、それ以外の、本人に重要だという認識がない情報は、社会的・職業的に重要なものであっても、海馬が捨ててしまうんでしょうね。聞こえているんだけど、捨てていくんですよね。
引っかかった情報がいったん短期記憶に保存され、それから長期記憶に移るんです。そしてそこをまた空にして新しい情報が入ってくるんですね。(初版122~123ページ)
これは、アスペルガー症候群でありながら教師という困難な道を歩んでいる方との対談の中で、著者が発言している部分を3つ連続で拾ったものです。
例えばこの部分に対して、私は次のような2つの「違和感」を、どうしても感じずにはいられないのです。
第一に、これは個人的な感覚の問題かもしれませんし、本の構成そのものの問題なのかもしれませんが、個人と面と向かって「個別」の経験や実感について話しているときに、こういう「一般論」による解釈で答える、という対話のスタイルに、どうしてもかなりの違和感を感じてしまう、というのが一点。
それと、例えばここで「脳」とか「海馬」とか「短期記憶・長期記憶」といった脳科学系のキーワードが登場しますが、これは「海馬=記憶中枢」というような、どちらかというと紋切り型の脳に対するイメージに基づいていて、必ずしも脳科学と自閉症の最新の知見に基づいているわけではないように感じられました。
こういった内容は、自閉症の認知特性についての説明として普通に語られるのであれば間違いではないと思うのですが、わざわざ「脳の海馬の短期記憶が・・・」と言う必要はないと思うのです。
この部分に限らず、いろいろな意味で「そこまで拡大して『解釈』してしまっていいんだろうか?と感じられる箇所が散見される、というのが違和感のもう一点です。
私がいつも考えているのは、自閉症の障害を「経験」できない私たちは、自閉症者の「理解者」になることはできても、「解釈者」になることは実はできないんじゃないか、ということです。
「理解者」と「解釈者」の境目はどこにあるんだろうか、私にとってはそんなことを感じずにはいられない一冊ではありました。
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