もうかなり前のことなのですが、なぜか昨日から今日にかけてふたたび注目されている(特に「キラキラ差別」のほうの議論)ようなので、改めてこちらでもご紹介しておきます。
http://togetter.com/li/104697
「障害者もあいさつする明るい職場」という言葉の背後にある問題
障害者の働く姿の1つの理想イメージとして「障害があっても元気にあいさつする明るい職場」というのがある。これに対する問題提起から始まった一連の議論をまとめました。
http://togetter.com/li/110188
「前向きさ」を押し付ける善意の差別、「キラキラ差別」について
「感動をありがとう!」とか「障害に負けずに頑張って!」「明るく前向きにいこうよ!応援してるよ!」的な、相手の立場や困難を見ない善意から生まれる「キラキラ差別」。その問題についてのやりとり。
どちらも、「マイノリティに対するマジョリティからの特定のロールモデルの強要」という点において、以前の「名誉健常者(ロールモデル)問題」とも根っこでつながっている問題です。
よろしければご覧いただき、当時の熱い議論を共有していただければ幸いです。
色々考えさせられました。
相手方のキラキラ差別的言動に対しては、一時期は言われる度に凹んでいましたが、媚びる必要はないと最近は思います。
(もし、その人が自分の、あるいは関わっている人よりも重い状況に陥って、関わるのならその時に感じた気持ちの重さの分、その人のニードに沿う覚悟です)
一定の怒りは感じつつも「ありがとう」と笑顔で返して深入りせず、気にしないようにしてます。
その場で感じたことは相談できる専門家、当事者仲間に話してます。
話せる人、信頼できる人を増やしていく活動はいつも必要です。
メディアがキラキラを打ち出せば打ち出すほど、暗い側面、生きづらい側面が押し込められていくようにも感じます。
ダークな側面、
貧困、虐待、触法、薬物依存、マフィアとのつながり、テロとのつながり等々。
障がい者はマイノリティで、障がい特性故に危険にさらされやすい現実もあります。
キラキラしたメディアよりもまず隣近所の現実を見て欲しい。
「じゃあ、俺らどうすりゃいいのよ!!」と思ってしまうのが本音です。8年間この世界に身を置いています。
うまくいかないことばかりで本人、保護者の方には全く申し訳なく思っています。でも、腰掛の職場とは全く思っていませんし、
「向いてないから通常級へ戻れ!(上司&保護者)」と言われるまではやり続けるつもりでいます。
今これが必要だと!と思って子どもと一緒に課題に取り組むことは「キラキラ差別」なんでしょうか?単なる自己満?自己満ならまだいいですが望まれもしないまたは百害あって一利なしの支援なのでしょうか。
すみません論点が違いますね。その支援を一方的に強要したり、よしんばうまくいってできたことに感動をしている。これが「キラキラ差別」ですよね。でも少なくとも職場の者たちがやろうとしていることは、行き当たりばったりの思い付きではなく、多くの文献や研修。それこそそらパパさんのブログなどを読みあさり目の前の生徒に何が必要かを考えて日々取り組んでいます。
それが結果的にお仕着せになろうが、有難迷惑になろうが、その時はできる限りベターであろうと思われる課題設定や生活支援をしているのです。
こういった話題ではとかく批判対象になることの多い我々特学担当者ですが、すみません愚痴ってしまいました。
コトッキーさん、
こういった発言の陰に潜む差別的な「構造」に一度気づいてしまうと、それ以降ははっきりとその存在が分かってしまうだろうと思います。
このTogetterのなかでも何度も言及しているとおり、これらの用語は、そういった弱者を抑圧する構造的問題を顕わにするためのものであって、その構造に気づき、そのうえでサバイバルのための手段としてその道を歩む当事者の努力を否定するものではまったくありません。
そして、これらの問題提起は、ご指摘のとおり、メディアの安易な「障害者像」に対して強い批判を行なうものでもありますね。
こてつさん、
議論に参加してる方には特別支援教育や療育関係者の方も含まれています。
少し誤解されているかもしれませんが、名誉健常者ロールモデルやキラキラ差別というのは、ある特定の、強者から弱者への差別、抑圧の構造のことを指しています。
もしも特別支援教育に携わる先生方が、障害をもった子どもを健常児より劣った存在とみなし、劣っているんだから頑張って少しでも健常児に追いついて、「追いついた分+頑張ってるという立派な姿」で何とか健常の世界の仲間入りを許してもらおう、と考えて「指導」しているのなら、それはここでの議論で批判されているような「問題のある指導」だと考えます。
でもそうではなく、「そういう差別の構造があることは分かっている。とても悔しい。でも、そういう社会の中で生きていかなければいけない。そのためのサバイバルのための処世術として、こういう形で評価されて社会に認められていくことも必要なんだ」という、一段引いた冷静な視点から、指導を組み立てていくことを否定するものではまったくありませんし、そういった指導に対して努力で応える当事者の方を否定するものでも当然ありません。
ですから、こてつさんがおっしゃっているような「現場の方の難しい取り組み」をむしろ評価し、逆にそういうことを知らない一般の方が安易に「立派な障害者像」みたいなものを固定的において、結果的にそれを当事者に強要してしまうような構造になってしまうことを批判する、そういう議論なわけです。