先日、ある方とのメールのやり取りの中で、「三角頭蓋の脳外科手術」への意見を求められるということがありました。
その返事を書いていて、これって療育にかかわる親御さんが誰でも考えなければならない大切なことなんじゃないか、と思ったので、記事にしてみたいと思います。
「三角頭蓋」というのは、一部の方はご存知だと思いますが、ある種の頭蓋骨の奇形のことを言います。この奇形のために脳が成長できないことが一部の自閉症の原因(あるいは症状の増悪の原因)になっているという考え方があり、脳外科手術によって脳が成長できるようにすることで自閉症を治療する、あるいは症状を軽減させるという療育?法があるのです。
私はこれまでこのブログでこの話題を取り上げたことはありませんでしたが、私のこの療育?法に対する立場は、現時点では明確に「NO」です。
私がこの方法に否定的である理由は、これまでに何度か取り上げているキレーションの問題と、ほとんど同じです。
なぜ、「三角頭蓋」や「キレーション」に対して、私が否定的な立場をとるのかといえば、それは端的には、私の倫理観に反するから、です。
インフォームド・コンセントという言葉があります。
主に医療の分野において、手術などのリスクを伴う処置を実施する前に、患者に対して処置の内容や期待される効果、リスクの内容を伝え、患者が納得して初めて処置を行なうという考え方です。
インフォームド・コンセントが重要な理由は、リスクを「負わせる人」と「負う人」が違うからだ、と私は思います。
リスクを負うことになる人が、そのリスクを理解し、納得して初めて、第三者はその人にリスクを負わせることができるのです。
ところで、自閉症の療育、というとき、「療」という字が入っていますね。
この「療育」という言葉は、「治療」と「教育」の2つのことばの意味が込められており、通常の「教育」よりもずっと深く、あらゆる領域の知見をフル活用して子どもの「生活力」を高めていくことを指すと考えられます。
その「あらゆる領域」の中には、もちろん医療行為も含まれます。
さて、ここで考えてみます。
医療行為であれば、そこには多少なりともリスクがあり、インフォームド・コンセントが求められるはずです。
療育におけるインフォームド・コンセントとは、どんなものでしょうか?
それは、理想的には、療育を受ける自閉症児みずからが療育の内容を聞き、リスクを含めてその処置を承諾する、というプロセスがあることでしょう。
でも、それは現実的には不可能です。ですから、やむを得ない次善策として、保護者が説明を受けて承諾する、というプロセスで代替していると言えます。
ただし、ここには少しいびつな関係が生まれます。
リスクを「負わせる」のは医師、リスクを「負う」のは子どもなのに、そのリスクを「承諾する」のは親になるのです。
子どもは、自分がリスクを「負う」ことになるのだということすら十分に理解しないままに、結果としてリスクを負うことになるのです。
これは、考えてみるととても恐ろしいことだと思います。だからこそ、「判断して承諾する」親には、高い倫理観が求められるはずです。
「三角頭蓋」と自閉症との関係については、日本自閉症協会が見解を出していますが、この見解の「4)手術のリスクについて」に、とても重要なことが書かれています。
http://www.autism.or.jp/topixdata/sankaku20040921.pdf
本人に代わって保護者が医療行為を承諾する場合、より一層明確な根拠と倫理規定が求められます。
自閉症の子どもが、少しでもよくなる方法があれば試してみたいという保護者の方々のお気持ちはよくわかりますが、明確な科学的な根拠が得られるまでは(中略)慎重な対応が必要です。
親は、こういった医療行為まで含めて、「良さそうな療育はいろいろ試してみたい」と思ってしまうものですが、子どもはその「いろいろ」によって、時には生命や健康をリスクにさらすことになるのです。
しかもその「決定」は、子どもによる承諾ではなく、親の判断という本来の姿からすると歪んだ形を取らざるを得ません。
そんな状態で、多くのまっとうな専門家から疑問が投げかけられている医療行為をさせるというのは、少なくとも私には「正しい」ことだとは思えないのです。
こういった例を考えてみましょう。
「まだ科学的に解明されてないけど、良さそうだから」という理由で、自分の配偶者が勝手にあなたの脳を開ける脳外科手術を予約してきたとしたらどうでしょうか? おそらく、変なものを信じて勝手なことをするんじゃない、自分の体のことは自分で決める、と思うでしょう。
「三角頭蓋」やキレーションを子どもにやらせる、というのは、たとえそれが良かれと思っていたとしても、本質的には上記の例と変わらないと私は思います。
「その方法でしか命が救えない」わけでもありませんし、「効果が科学的に実証されている」わけでもありませんし、「他にやり方がない」わけでもありません。
頭蓋骨を開くとか、体内の代謝系のバランスを崩すとか、そういう、リスクが決して小さいとはいえない行為について、親が子どもの判断を飛び越して「承諾する」ことができるほどの明確な正当性があるとはとても言えないと思うのです。
子ども本人の承諾なしに、子どもの健康を危険にさらしてオカルトをやるというのは、最もやってはいけないことだと私は考えています。
これは、療育についての絶対的な倫理だと、私は思います。
大論争を巻き起こすテーマですね(笑)
あえて皆様、ここにはコメントされないのかもしれません。白熱してしまいますから、、、。
でも、疑問点がありますので、コメントをつけさせていただきますね。
まず、どうやったら、子供本人の承諾を取れるというのでしょう?その場合には、きっとリスクの生じる恐れのある事には、すべて手をつけられないということなのでしょうか?だとしたら、外界からのアクションはすべて承諾が取れないので、無理ですね。たとえば予防接種も、細菌感染等の恐れがあるので、無理だということになりますし。本人の承諾を得ない食事も、全く危険性がないとは言い切れないのだし(食中毒の可能性等、なにがあるかわからないでしょう?)、食事を与えることも外界からのアクションですから、厳密に言えばできないのではないですか?
リスクというものの定義が、第一わかりません。突き詰めて言えば、この「リスク」の意味が疑問なのですね、私。リスク対象外というのは、学会で立証される、ということなのですか?絶対的な倫理ってなんですか?
ものすごく頭蓋手術や水銀排出を嫌ってらっしゃることは伝わってきます。
だけど私には、「肉牛処理場やトサツ担当者なんて、信じられない!!と声高に言う高尚な方が、パクパクお肉を召し上がっているような図が、、、、目に浮かびます。
倫理観って、つまりは他人からの目、批評の目だと思いますよ。立証されていないと批評の矢面に立ってしまう。世間体が悪くて、自分を正当化できない。
世間からどういわれようとどう評価されようと、他人から与えられる正当性なんて、何の意味があるのでしょう?
自分で考え取捨選択できる強さがある人が、「オカルトをやる人」には多いと感じます。素直にそう思えますし、そうした親をもつお子様方が、うらやましく感じます。
私が引用した、上記の日本自閉症協会の三角頭蓋手術へのコメントで指摘され、かなかなさんも同意されているとおり、自閉症児からは本人承諾を取れません。
だから、リスクに対する責任は親にあります。
リスクの定義は簡単です。コストとリターンのバランス、そして代替性です。
食事を与えるのは、与えると食中毒で死んでしまうかもしれないというリスクよりも、与えると生きて成長する(与えないと死ぬ)というリターンのほうがはるかに大きいからです。
予防接種も同様で、コストもリターンもどちらも疫学的に明確に示されています。
加えて重要なことは、「食事をする」「予防接種をする」ことよりも安全で、同等以上の効果がある方法がない、ということです。
キレーションにしても、三角頭蓋手術にしても、これらをまったく満たしていません。
育ち盛りの子どもの体に負担と健康の危険を与えるという「コスト」は明確に存在する一方で、「リターン」と称されているものは明確に示されていません。さらに、自閉症の困難に働きかける、生命の危険がなく、科学的にも効果が証明された「療育」は他にいくらでも存在します。
それを端的に「リスクが高すぎる」と呼んでいるのです。その意味は上に書いたとおりです。
「オカルト批判」を批判する人は、こういったデリケートなバランスの議論を、all or nothingの乱暴な議論に持ち込もうとしますが、リスクというのはそもそも確率事象であり、デリケートなバランスの上にしか成り立ちません。
それでも、そういった手段を「本人が理解し選んでいる」のなら、それを尊重する立場もありうるでしょう。でも、本人承諾なしに他人がやらせてはいけない、というのは限りなく「絶対」に近い、守るべきルールだと思います。ですから、「絶対的な倫理だと私は思います」と書きました。あくまで私の見解です。
また、私は「学会」が認めたからと言ってその見解を盲信することはありませんが、「あやしげな団体」だけしか認めていない見解は信用しません。
別に他人の目がどうこうということではなく、リスクを自分で選べない子どもを守るという、ただそれだけのことです。なぜ急に、記事のどこにも出ていない「世間」の話が出てくるのか分からないのですが、そんなに世間の目が気になるのでしょうか?
最後に、「強さ」に関していえば、先日の「救う会募金」のコメントでの議論が参考になると思います。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/24604734.html
私は、子どもをオカルトに頼ってまで「治療」したり「特別の才能を期待」したりしようとする人よりも、子どものありのままを受け止めて、年単位、10年単位の療育を続け、子どもが死ぬまで(あるいは自分自身が死ぬまで)子どもをサポートしていくことを受け入れる人のほうが、はるかに強いと思います。
私がここで書いているような意味での「倫理観」には、タイムラグはないはずです。
おっしゃっている意味は、臨床的には始まっているけれども一般的には「怪しいもの」として認識されているものを前向きに評価すべきだ、といったニュアンスではないかと想像しますが、私が書いているのは、「そういう段階のものを『本人の承諾なしに』実施するのは、例えその主体が親であっても、倫理的には危うい」ということです。
いみじくもkomiyaさんが「親のしてやれること」と書かれているとおり、親は子どもに対して、これをやるべきだということを決められるし、決めるべきだと考えることが多いですが、その考え方自体が、状況によっては必ずしも正しくないのではないかというのが私の出発点です。
特にそれが、自分で判断のできない幼い自閉症児が対象で、さらに実施する行為が生命や健康への危険を伴い、かつ結果が「一般的ないし専門家に認知されていない」ような医療行為もしくは医療まがい行為である場合、「親であれば子どもに何でもさせることができる」という前提から一旦離れて、冷静かつ高い倫理観を持って、それでも許されることだけをやるべきだ、と考えているわけです。
この考え方には、これまでの議論を通じて一切ぶれはないつもりです。
「可能性」を理由に、勝手に脳外科手術をされたり副作用の強いドラッグを飲まされたりするのは、私自身は絶対にイヤです。その自分の感覚を、大切にしたいと思っています。
科学的実証が不十分な治療法に対して積極的な人達の考えは、①低確率だが劇的に改善した人がいる(我が子もそうした例外的成功例になるかもしれない)、②生命危険や後遺症傷害危険は無視できるほどに小さい、③お金は惜しむべきではない・・・というものだと理解しています。そらパパ先生も繰り返し説明されていらっしゃいますが、①は、当該治療法と改善との間の科学的因果関係立証に関する情報の信頼性が問題であり、②は(情報提供者のインセンティブ不足から発生する)危険の過小認識が問題だと思っています。一般に自閉症児を持つ親は、「藁をも掴みたい」状態ですから、民間治療法に否定的な見解を持つ親でさえ、「ケチで子どもに与えない訳ではない」と都度、自問し悩んでいることと思います。(自分もそうです。)そらパパ先生の毅然とした態度に、自分の気持ちを強くすることが出来ました。あらためて感謝です。
このエントリのコメントでも、他の関連記事でもそうですが、この話題に関しては、私はとてもシンプルなことを繰り返し書いているだけなんですね。
こういった行為に関わらないことを選択している親御さんは、その選択にもっと自信と誇りをもっていいと思っています。
6歳の自閉症の息子をもつ父親です。医師(内科)をしております。
ブログいつも拝見させていただいております。そらパパさんの豊富な知識と的を得た御意見には関心しっぱなしで、一冊の本にしていただきたいほどです(ほんとに)。
ただひとつちょっと気になる点がありますので、コメントしたいと思います。
『リスクを「負わせる」のは医師、リスクを「負う」のは子どもなのに、そのリスクを「承諾する」のは親になるの』=『とても危険なこと』と述べられていますが、それはちょっと違うと思います。
たとえば、新生児や乳児の悪性疾患、意思疎通の図れない患者(もちろん子供や大人も含め)の治療方針の決定権は、本人ではなく親(身寄りがない人は、血縁関係のまったくない民生委員)が持つというようなケースによく遭遇します。私自身キレーションや三角頭蓋手術は昔は一時興味がありましたが、今は推奨できる療法とは全く思っていません。その理由は科学的根拠がないからであって、倫理的な理由ではありません。科学的根拠の得られている方法についてなら、自閉症児本人ではなく、親がするかどうか決めることは至極当然のことだと思いますが、現時点ではABAだけですよね。そらパパさんはおそらくキレーションなどの危険性の高い方法を行う前提の上での意見だったと思いますが、一般論というか医師として違和感のある部分だったのでコメントさせていただきました。
コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、私の議論は、「科学的根拠」の部分だけに留まっていません。この記事にもあるとおり、「倫理」の部分にまで踏み込んで書いています。
ちょうど先日、別の記事へのコメントでも書いたのですが、
>例えば、脳のある場所を破壊すれば自閉症が治る、
>ということが科学的に証明されたとします。
>でも、その手術によって死ぬ確率が10%あったとします。
>このとき、親は、自分の子どもにその手術を施す
>という決定をする「権利」が、あるのでしょうか?
ということなのです。
自閉症は、治療しなければ死んでしまうといった「病気」ではありません。
事実として、子どもへの医療的処置の決断を親が行なう、ということがあるということはもちろん分かっています。
でもそこには、「自分で決めて自分がリスクにさらされる」場合よりも高い倫理が求められるということを言っているのです。
その点、この記事で引用している自閉症協会の見解の前半部分、
>本人に代わって保護者が医療行為を承諾する場合、
>より一層明確な根拠と倫理規定が求められます。
は、仮に「科学的根拠が明確な医療行為」であったとしても、やはり同様にあてはまるのだと思います。
何度か書いていますが、私は、「科学的に証明された、知能指数が30向上して人生が楽しくなる脳外科手術(ただし、失敗して深刻な後遺症が残るリスクがわずかにある)」を、勝手に誰かに決められて実施されるのはいやです。
「科学的な根拠」も大事ですが、「倫理」も大事だ、そう考えているわけです。
確かにそうですね。
私が普段遭遇する対象は、生死にかかわる疾患ばかりで、自閉症と比較すること自体ナンセンスですね。
ただ、初めはどうしていいか分からず、なかなか冷静になって考えられない親も多いでしょうしすがる心境は理解できます(私もそんな感じでした)。中にはうつ傾向やうつ病に罹ってしまう方もおられると思います。現状だと情報はネット頼りですが、余計な情報の方が多いので混乱の原因になりがちです。いつも思うのですが、親へのサポート体制(普段の生活での対応の仕方、療育施設の情報提供、精神的な支えなど)を整えれば、このような混乱は起こしにくいと思うのですが、地域で差があるでしょうし、自閉症に対する理解も一定ではなさそうなので難しい問題ですかね。
あっそれと余談ですけど、ブログの本出されていたのですね。失礼しました・・・
もちろん、命に関わるケースであれば、親が判断することの妥当性が大きく高まりますので、上記のような「倫理」を踏まえても、親は十分判断できるし、していいと思っています。
「当初の親の混乱」については、確かにそのとおりだと思っています。
ささやかですが、このブログがそういった親御さんのニーズに応えられるものになっていればいいなあ、といつも思いつつ、ブログを運営しています。
「本」については、このブログ全体ではなくて、「一般化障害仮説」の部分だけにフォーカスした本になっています。
もし機会があるのなら、それ以外のテーマについてもいろいろな方法で情報発信していけたら、とは思っています。
ここに書くのはちょっと違うかとは思いますが、4年の夏頃から娘のパニックがひどくなり、リスパダールを服用していています。
副作用は少ないようですが、子供の健康の事を考えると罪悪感があります。
いつまで使うことになるのかと思うと不安です。
親のQOLと子供の健康のバランスをどう考えていいものか。。。
最近、パニックがまたでてきたので、薬の変更を医師に提案されたのですが、人体実験みたいで嫌な感じがします。
そらパパさんは薬の使用をどうお考えですか?
確か、リタリンを飲まれていると以前書かれていたと思いますが。。
コメントありがとうございます。
我が家は、リタリンではなく、リスパダールやオーラップといったあたりのいくつかの薬を処方されています。
薬の変更の提案も、娘の主治医からもしばしば受けますし、それについては基本的に「プロの意見」として受け入れて、娘の状態がよくなるよう試行錯誤をしています。
(そもそも対症療法なので、状態をよくするために試行錯誤するのは自然なことなのではないかと、個人的には思います。)
薬については、親のQOLということではなく、本人のQOLを高めるために、信頼のおける医師の指導の下に活用することは意味があると考えています。
特に、子どもには、さまざまなスキルの「伸びる時期」というのがあると思います。
そういう時期に、精神状態が悪くてパニックばかりして、「学ぶ機会」が奪われてしまうと、長期的にもマイナスの影響が出てしまうと思われます。
ですから、子どもの精神状態を安定させ、QOLを高めて、そこで生まれた「余裕」を活用して、将来に役立つさまざまなスキルや経験を積んでいく機会を増やしていく、そういう目的で「対症療法」を受ける、ということなのではないかと思っています。
もう一生使い続けなければいけないと悲観的な思いでいましたので、楽になりました。
症状が治まれば、医師に相談してやめれますものね。
コメントありがとうございます。
対症療法としての薬は、状況次第で柔軟に増減されます。
状態がよくなれば、医師の指導のもとに、もちろん減らしていくことも可能だと思いますので、信頼できる医師から勧められれば、薬の使用をためらうことはないんじゃないかと、個人的には思っています。