自閉症―これまでの見解に異議あり!
著:村瀬 学
ちくま新書
新書の新刊ということで早速買ってみましたけど、こりゃひどい。
今まで読んだ自閉症本の中でもワーストを争う本と言えそうです。
この本を買うくらいだったら、同じ方向性でずっとまともな「こころの本質とは何か」を読むべきです。
普段、こういう本はレビューも書かずに古本屋行きなんですが、新刊で興味を持っている方もいるかもしれませんし、最近ネタ切れ傾向なので(笑)、一応記事にしておきます。
この後、ダメだということしか書いてませんから、特に「続き」をクリックして読んでもらう必要も実はないです。物好きな方だけどうぞ。
そもそも、こういう独善的で下品なタイトルの本にはロクなのがないという予感はしていましたが、その嫌な予感が完璧に当たってしまいました。
まず最初、10ページくらい読んだところで、思わず本の最後を見てしまいました。
引用されている本がどれも信じられないくらい古くて、「これって、大昔の本の復刻本?」と思ったからです。
公平のために、冒頭から順に、引用されているすべての本の年代を拾っていくと、1980年、1967年(これは小説ですが)、1977年、1976年、1982年、1985年(これは記録)・・・となります。どうやら、この著者の時計(ないし研究)は20年~30年前で止まっているようです。
「これまでの見解」の1つとして、著者がTEACCHを批判しているところも引用してみましょう。
「自閉症」が存在するのは前提であり、その前提にそって「訓練プログラム」が考案されたのだと考えて疑わない。だから、私がそういう「TEACCHプログラム」に、自分と共感するところがあると思っても、そこで「自閉症」という言葉が、まったく反省される気配もなく使われているのを見ると、そういうプログラムの根本にあるアカデミズムの気持ち悪さを感じざるを得なくなる。そうした「プログラム」や「スキル」が、子育てする親や教師をしばしば「訓練至上主義」に仕立ててきた弊害を、私は今までさんざん見てきたからだ。子どもを常に操作対象としてしか見ないような「訓練法」に、私は共感を覚えることはできにくい。
・・・えーっと、いったいこの人は何を批判したいんでしょう??
どうやら著者が言いたいのは、「自閉症」という概念の必要性が本当にあるかどうか疑問だからそれを疑う気もちを持つべきだ(それを持たないTEACCHは「気持ち悪い」)、「プログラム」とか「スキル」とかいう言葉を使うのは訓練至上主義であって弊害がある(だからTEACCHには共感できない)、ということのようですが、これって実はTEACCHのことを何も語っていない、ただの言葉のお遊びです。
言葉じりじゃなくて、本当にTEACCHが「訓練至上主義」なのかそうでないのか、著者はまじめに研究する気はないんでしょうね。その証拠に、ここでTEACCHを批判している割には、TEACCHの参考文献も一冊も出てこないし、TEACCHについてのこれ以上の言及はまったくありません。
この後も、「数や暦や地図は人類の偉大な知恵だ」とか「赤井英和の記憶術」とか、とりとめもない話がだらだらと続きます。
その後は、心理学者で当ブログでも紹介したことのある熊谷高幸氏の「自閉症からのメッセージ」を徹底批判します。これにしても、13年も前のこの本じゃなくて、出たばかりの「自閉症-私とあなたが成り立つまで」を批判すればいいと思うんですが、多分これも読んでないんでしょう。
著者は、この本での熊谷氏の立場を異様な「症状」ととらえ、この本から「症例1~11」と称して11か所も引用し、12ページにわたっていかに彼がおかしな「症状」にとわれているかということを力説します。
確かにこの本は、私もエッセイ的で内容の薄い本だとは思いましたが、逆にここまで必死に批判しなければならないような本だとも思えませんが・・・。
かと思うと、この後、自閉症が「認知障害」だと理解されるようになったのは国家の政治的思惑があると言ったり、フィクションである「レインマン」の細部の描写から「自閉症」論を熱心に語ったり、山下清の性癖の話題から浅草レッサーパンダ事件のルポである「自閉症裁判」の話になったりと、論旨があっちこっちに飛んで全く一貫性を感じることができないまま、終わります。
で、本書の(少なくともタイトルから期待されるような)ポイントであるはずの「これまでの見解とは違う、著者ならではの自閉症についての見解は何?」の「答え」ですが、これがよく分からないのです。
文章はやたら読みにくいし、論旨も一貫していないし、他人の意見と自分の意見がごちゃごちゃだし、これで「見解」を読み解けと言われても困ってしまいますね。
まあ、辛うじて読み取れる「見解」を整理すると・・・
・自閉症の原因を脳の障害とか認知・言語障害などという「わけが分からない」ものにもとめる必要はない。
・自閉症者が「特別」に見えるのは、彼ら独自の記憶術を用いているからである。
・その「特別」さが、かかわりにくさ、つまり「自閉的」と映るのである。
・「自閉症」というのは、突き詰めると、この「自閉的」ということだけが中核であり、それ以外はただの「おくれ」でしかない。
・したがって自閉症は障害ではないし、そもそも「自閉症」という概念すらいらない。
・「おくれ」は社会や文化が作るものである。
・自閉症は「研究」や「訓練」の対象ではない。
・自閉症者を、私たちと同じ世界に住む生活者として理解すべきである。
まあ、こんなところでしょうか。
最後に、はっきり書きましょう。
著者は、何十年も前の、自閉症の原因が良く分からなくて、特段の「療育」もできずにただ自閉症児と感覚的に「かかわっていた」時代、漠然と思想的、あるいは断片的に自閉症を語ることが許された時代へのノスタルジーを感じているだけでしょう。
それに対して、はるかに研究内容が科学的になり、実際の症状を軽減できるような療育法がどんどん生まれている「いま」に対して、「異議あり!」と言いたくなったのでしょう。
でも実際にできたことは、20年も30年も前の文献をベースにした、ほとんどイチャモンとしか思えないような言葉じりをとらえた批判だけでした。
「哲学者が科学者の方法論を批判する」というのはよくあることなんですが、それにしてもこの本は「敵の研究」もろくにせずに、自分の頭の中だけにある(しかも20年以上前の)仮想敵を一生懸命批判しているだけで、何の説得力もないと言わざるをえません。(哲学者の自閉症本でも、こんなに素晴らしいのもあるんですが・・)
まあ、下記のリンクを見ると、この人は、「言葉のお遊び」とか「ことばを勝手に解釈して勝手に盛り上がる」常習犯のようですから、今回に始まったことではないのかもしれません。
参考リンク: http://www6.plala.or.jp/Djehuti/522.htm
※その他の「ちゃんとした」ブックレビューはこちら。
※内容を一部修正しました。
うちも朝日新聞なのですが、うっかり見逃しました。
まあ、こういう本が好きな人もいると思いますから、肯定的に受け止める人がいるのも理解できますし、書評というのは基本的にはほめる場所ですから、そういう文章が掲載されやすいのも仕方のないことだと思います。
ただ、私がかえすがえす残念だと思うのは、書評が載るかどうかに関係なく、いまマンガや週刊誌以外で一番売れている「新書」の、「自閉症」に関する最新刊として本書が「出てしまって」、自閉症に関心を持つ方が偶然手に取る可能性のある本の最右翼になってしまっていることです。
自閉症についてよく知らない人がこの本をいきなり読んだ場合のばくぜんとした印象は「自閉症というのはよく分からない障害だけど、無理やり訓練するんじゃなくて普通の人間として受け止めなきゃいけないんだな」といったものでしょう。
これでは、まさに30年前の精神分析的な「受容」の姿勢と何ら変わらないわけです。
本書が、自閉症に関する世間の知識レベルの時計の針を逆に回さないことだけを祈っています。
http://book.asahi.com/author/TKY200609060283.html
もしかするとこの著者は、high-functional autismの訳語でしかない「高機能自閉症」の「高機能」という言葉を、そこだけ取り出して「独自の解釈」をして、さらにそれを批判するという一人芝居をしているのかもしれませんね。
本書の中身もそうですし、このインタビューを見ても思いますけど、観念的な言葉遊びがやたら好きな人のようです。
45で助教授,最近ようやく教授ポストということを考えても,ろくでもない研究しかしてこなかったということがわかります.学会からも無視されていますが,なぜか出版社はこういう方に執筆させるのですよね.ちゃんと研究をされている先生ほど,慎重なモノ言いになるので,こういったエセ学者のセンセーショナルな妄言ほどど無責任な出版社にとっては価値があるのでしょう.筑摩書房はときどきこの手の新書を出しますね.
コメントありがとうございます。
先日気づいたのですが、この本、背表紙だけ見ると、なんと「自閉症」とだけ書いてあるんですね。
下品なサブタイトルは本を手に取らないと出てこないのです。
となると、これはどう見ても、一般の読者からは、「ちくま新書の自閉症についての定番本」のように見えてしまうじゃないですか。それが情けないですね。(--;)