言うまでもありませんが、言葉を教えるときに必ず考えなければならないのは、「その言葉を覚えることが子どもにとってどんなメリットがあるのか?」ということです。
例えば、子どもに「おみず」「おちゃ」「じゅーす」という言葉を教えることを考えてみます。
子どもが、これらの言葉を覚えて使うことができるようになれば、それらの飲み物が飲みたいと思ったときに、的確に要求してそれを手に入れることができるようになります。つまり、これらのことばを覚えることは子どもにとってメリットがあることになります。
我が家でも、PECSカードを使ってこれら3つの飲み物を欲しいときに要求できるように娘に教えてみたところ、ものの1週間もしないうちにカードの使い方をマスターし、しきりにお茶を欲しがるようになりました。
そして、私たち自身も驚いたのは、娘は思った以上に喉が渇いているときが多くて、そういうときはジュースでなくお茶でも喜んで飲む、ということでした。
こういう、私たちが気づかなかった娘の「気持ち」が伝わってきた、という事実そのものが、娘がPECSカードを自発的な(要求ではありますが)コミュニケーションに使っているということの証明になっているといえます。
・・・話を戻します。
このように、「おちゃ」という(PECSカードによる)ことばを覚えることは、娘にとって明らかなメリットがありました。だからこそすぐに覚えたわけですし、一度覚えたら定着して忘れない、ということも期待できるわけです。
逆に、子どもにとってメリットのない言葉は、いくら訓練で覚えさせようとしても、強化されにくく定着しにくいと思われます。さらに、コネクショニストモデルによる仮説によると、自閉症児にやたらたくさんの事項を教え込むことは、むしろ学習全体を阻害する可能性さえあります。この仮説が正しいかどうかは別にしても、私たちは子どもに教えるべき事項を「精選」する必要があると思うのです。
なぜこんなことを書いているのかというと、ものの名前(名詞)に比べ、習得がより困難な概念語(形容詞、動詞、副詞などが含まれるでしょう)を教えるときは、名詞以上に、この「有用性」を意識すべきだろう、と思っているからです。
例えば、まだ、水とお茶とジュースとお菓子を区別して自発的に要求することさえできない子どもに「大きい」「小さい」といった概念語を教えることに意味があるとは、私には思えません。多くの場合、教えるのが困難な概念語よりも、子どもにとって覚えるメリットがあって習得も容易な、要求のための名詞(ものの名前)を優先して教えるほうが有効だろう、と思います。
(非言語的な「大きい」「小さい」のマッチング課題をやったりするのは、子どもにその能力があるのなら必ずしも無意味だとは思いませんが、ここでは「ことば」を教えることについて考えています。)
そういう意味では、私が前回の記事で色の概念を娘に教えてみたのは、大好きな「名前言わせゲーム」にバリエーションが出るという、娘にとってのメリットがあることと、風船と色のつながりは分かりやすいので教えるのが容易だろうということで、「試しに教えてみた」という意味合いが強いです。
たまたま覚えたので良かったですが、覚えなければさらに無理をするつもりはまったくなかったですし、今後また消えてしまっても、やむを得ないと思っています。
名詞をコミュニケーションに使えるようになるまでは、無理をして概念語を教える必要はない(たまたま覚えるものだけで十分)というのが、私の考え方です。ただ1つの、非常に重要な概念語を除いては。
その、概念語の中で唯一優先順位が非常に高いと思われることばとは「痛い」です。
「痛い」を周囲に正しく伝えることは、病気、けがの早期発見、早期治療のために決定的に重要ですし、これが伝えられないことは、周囲から無理を強いられたり、危険な体調に陥るリスクを高めます。
問題は、「痛い」の教え方です。
このことばは、訓練を設定して教えることは事実上不可能です。子どもがケガをして痛がっている絵や写真を見せても、「痛い」という自分の体の状態と「いたい」ということばをつなげる効果は期待できません。もちろん、わざと子どもに痛い思いをさせることは倫理的に問題があるばかりでなく、教育効果もないに等しいでしょう。
そこで、「痛い」を教えるための非常に重要なレッスンは、子どもが偶然痛い思いをしたときに、慰めながら痛い(と思われる)場所をさすったり指差したりしながら「いたい、いたい」と繰り返すことだと思われます。
さらにそのためには、子どもが痛い思いをしたときに、ちゃんと泣いたり親に抱きついたりという「アピール行動」を取れるようになっている必要があります。自閉症児の場合、このアピール行動そのものがない場合も少なくないですね。
我が家では、娘がかなり幼い頃から、娘が痛い思いをしたときは、本人が泣いていなくても飛んでいって、痛い部分をさすって慰める、という行動を繰り返すように意識していました。
また、パニックについても、欲しいものがあって叫んでいるときはABAの定石に従って無視する一方、痛さからパニックを起こしたときは、むしろかまってやることによって泣き叫ぶことを強化するようにしました。
こういった行動が効を奏した?のか、今では転んだりして痛い思いをしたときは、大きな声で泣いて、親が近づくと抱きついて慰めることを求めるようになりました。
この「泣く」という行動自体も、「痛い」ということを伝えるコミュニケーションとして機能しています。
そして今、この娘の行動による「痛い」というメッセージの上に、「いたい」という「ことば」を乗せようとしているわけです。
うまくいくかどうかは分かりませんし、うまくいったとしても年単位の時間をかけたチャレンジになるでしょうが、病気による体の中の「いたい」が言えるようになるという、とても大切な目標に向け、地道に頑張っていきたいと思っています。