前回までの記事で、心理学にはどのようなジャンルがあり、それぞれのジャンルの心理学の目的は何なのか、どのような方法論を採用しているのか、そして「心理学」と「エセ心理学」を分けるものは何なのか、といったことを思いつくままに書いてきました。
重要なことは、今回のシリーズ記事で書いているのは私の理解する「心理学」であって、これが心理学の世界の共通の認識だということではない、ということです。
なぜこんなことをわざわざ書くのかというと、ここにこそ、心理学の難しさがあり、心理学史や心理哲学を心理学のジャンルの1つとして捉えることの重要性があると思うからです。
実は、「心理学とは何か」という質問に、1つの答えで答えることはできません。
それどころか、心理学は何についての学問か、という(より簡単なはずの)質問にすら、1つの答えで答えることはできません。
例えば、私の大学時代に心理学の研究室にいた教授陣の1人は、ひたすら神経細胞の化学変化や電位変動ばかりを研究している人でした。もちろんフロイトやユングは全否定で、心理学とは自分がやっているようなことを指すんだ、と学生達に熱く説いていました。
かと思うと、同じ時期に受講していた別の心理学の授業では、子どもの認知発達やカウンセリングを「心理学」として教えられ、フロイトやユングも堂々と?授業の中に登場していたりしました。
同様に、ある授業では「心などというものはない」と言われたかと思うと、別の授業では「心について考えましょう」と言われたものです。
これはまるで、バベルの塔のエピソードのようです。
バベルの塔を建てようとした民衆に神が与えた天罰は、民衆のことばをお互いに通じないようにすることでした。
同じように、心理学の世界でも、いろいろな名称の「心理学」が並び立ち、まったく違うことを研究していて、お互いにことば(専門用語・概念)も通じず交流もほとんどない(むしろ敵対している)という状態が続いています。どの学派もみな、「自分たちの研究こそ真の『心理学だ』」と信じて譲りません。
一体これはどういうことなのでしょうか?
私は、このような混迷の最大の原因は、すべからく心理学が「心とは何か」という、非常に難しい哲学的問いから始めなければならないということにあると考えています。
「心とは何か」「心の科学とは何か」という問いに対する答えは、そのまま「心理学とは何か」ということにつながりますが、この問いに対する完璧な回答はいまだありませんし(そんなものがあるのかどうかさえ分かりません)、どの回答が「主流」かということについても、歴史の中で変遷を続けています。
ところが、私自身、心理学を履修するという立場に身を置いていて感じましたが、多くの「心理学者」は、こういった問題について一度自分の「立場」を固めてしまうと、それを疑ったり変更したりすることはとても難しいし、だから結果として、学生に対しても自分の「立場」に沿った講義のみを行ない、学生は学生で、研究室が持っている「空気」と異なる心理学的立場を取ろうとしても、冷笑され居場所がなくなってしまうのがオチです。
(まあ、こういった問題は心理学に限らず学問の世界ではみな同じなのかもしれませんが)
だからこそ、特定の立場だけに自分を閉じ込めずに、心理学の深刻な「バベルの塔」問題に取り組んでいくこと、つまりは心理学史や心理哲学を心理学の重要な一ジャンルとして確立していくことがとても大切なんじゃないか、と思ったりするわけです。
最後に、この話題に関する本を2冊ご紹介します。
論争のなかの心理学―どこまで科学たりうるか
著:アンディ・ベル、訳:渡辺恒夫・小松栄一
新曜社
まさに今回書いたような「心理学史・心理哲学」を考えるためにぴったりな本。
以前ご紹介した下記の本のコンパクト版といってもよく、あまり哲学に深入りせず「心理学の本」としてスマートに読める点からも、おすすめできます。
入門・マインドサイエンスの思想-心の科学をめぐる現代哲学の論争
著:石川幹人、渡辺恒夫
新曜社
以前レビューを書いていますので詳しくは書きませんが、「心理学とは何か」を哲学的・心理学史的に深く考えるための本です。かなり難解であり、かつ、やや「哲学寄り」の議論が中心になっています。
(次回に続きます。)