現代の心理学は、大きく分けると次の3つのカテゴリに大別できると思います。(これはあくまで私の独断による分類で、一般的にこう分けられている、というわけではありません。)
1. 実験心理学
2. 臨床心理学
3. 心理学史・心理哲学
この3つのカテゴリを分ける最も大きな違いは、その「目的」にあります。
最も目的が明確なのは、2.の「臨床心理学」でしょう。
臨床心理学とは、実際の個人(患者)の心の問題の解決に役立つことを最大の目的とした心理学です。フロイトやユングの精神分析や、自閉症児の障害の改善を目的としたさまざまな療法はここに入ります。そしてこの領域は、もちろん精神医学ともつながっています。
これと対照的なのが、1.の「実験心理学」です。
このカテゴリの「目的」は、心を科学的に解明することです。科学的というのは端的に言えば、実験をして証明できる(他の研究者も追試できる)ということですから、このカテゴリの心理学は実験ばかりやっています。それは言い換えると「実験できることしかやらない」ということでもあります。脳の情報処理を考える認知心理学や、集団行動などを研究する社会心理学はここに入るでしょう。
そして3つめの「心理学史・心理哲学」ですが、これは「心理学って何だろう」と考えること、そしてその歴史を学ぶことを指しています。
実際の心理学の世界では、この部分が心理学の大きなジャンルの1つだという認識はないかもしれませんし、研究者も少ないのではないかと思います。
でも私は、この3つめのカテゴリを無視して心理学は語れない、と思っています。
まずは1.の「実験心理学」について書きたいと思います。
現在、実験心理学の世界はある種の危機的状況にあると思います。
それは、「心の全容解明」に程遠い現状であるにも関わらず、方法論的な限界が見えてきてしまっているからです。
現在の実験心理学のよってたつ基盤は、認知主義と行動主義にあるといっていいでしょう。
認知主義というのは、ヒトの心をコンピュータシステムのように考え、「脳」というハードウェアの上で「心」という情報処理ソフトウェアが動いている、と考える立場です。
この立場では、「ハードウェアはどう動くのか」という観点から脳神経系の仕組みを研究し、「ソフトウェアはどう動くのか」という観点から、感覚・知覚・認知といった「機能」がどのように実現されているのかを研究します。
もう1つの行動主義というのは、「実験の対象をヒトの行動など目に見えるものに限定する」という立場を指しています。
私は、このそれぞれの方法論が、いずれも構造的な限界を露呈し始めているように感じています。
まず、認知主義については、ヒトの認知の仕組みは実はコンピュータとは相当違うのではないか、という疑いがどんどん強まっているという問題があります。
コンピュータで人間のような知性を実現しようという「人工知能」の試みは、ほとんど成果を上げられず挫折の連続です。フレーム問題やバインディング問題、なぜ脳という物質のうえに「心」が生まれるのかという心脳問題などの超難問の前に、脳とコンピュータは似ているはずだ、という(狭い意味での)認知主義の大前提は崩れかかってるように私には思えます。
(そういった問題に対して答えを与える試みの1つが、私も特に強い関心を抱いている「コネクショニズム」だと言えるでしょう)
次に、行動主義については、「心を相手にするための道具としては非力すぎる」という問題があります。
行動以外の「内的概念」をまったく認めない、という徹底的行動主義は、ことばや自己意識といった高次の認知をまともに説明できなかったことから実験心理学の主流の座を外れ、行動療法やABA(応用行動分析学)としてむしろ臨床心理学の世界に流れていきました。この辺りは、シリーズ記事「行動療法-歴史的考察」を参照してください。
そして、実験心理学の世界に残ったのは、認知主義を前提に(つまり、内的過程は認める)、実験だけは行動主義的にやりましょう、という「方法論的行動主義」です。言い換えると、ヒトをある種の「ブラックボックス」と見て、入力(刺激)と出力(行動)の関係から「中はきっとこうなっているだろう」と考えるやり方です。
この方法だと、「入力と出力との関係をある仕組みで説明できたとしても、必ずしもその仕組みがヒトの中に実在することにはならない」という問題が常に残ります。
この問題の典型例が「心の理論」を巡る議論でしょう。
「ヒトには『心の理論モジュール』があって、自閉症児はそれが機能していない」という仮説を、自閉症児は心の理論課題に失敗する、という実験結果で証明しても、それはその仮説に現象の説明力があるということでしかなく、実際に脳で「心の理論モジュール」が動いていることの証明にはならないのです。
つまり、現代の心理学のよって立つ「(方法論的)行動主義に基づく認知主義」は、前提が間違っているかもしれないし、実験方法論的にも非力である、という極めて苦しい立場に追い込まれていて、しかもそれに代わる方法論は見出されていない、というのが現状ではないでしょうか。
(次回に続きます。)