2006年06月16日

「内面」はあるのか?-コミュニケーション療育の方法論(6)

今回のシリーズ記事では、「内面はあるのか?」という問題意識から、自閉症児へのコミュニケーション療育への新しい視点を考えてきました。

ここで改めて、前回ご紹介した「世界への働きかけ」の発達マップを見てみます。



「世界にあるもの」に対する働きかけは、モノ→動物→ヒトと進むにつれて、難しく複雑になっていきます。

特にここで注目すべきは、「モノ→動物」の段階です。
「モノ」の段階から「動物」の段階に進むためには、「この世にはこちらから一方的に働きかけるだけでなく、向こうからの反応に対して双方向的に働きかけあうというものが存在するんだ」という発見、「気づき」が必要です。この「気づき」に到達することは、「モノ」だけの世界に生きている発達段階から考えると、非常に大きな飛躍だと考えられます。
そして、この「気づき」があって初めて、「相手から反応が欲しい」という欲求、つまり社会性やコミュニケーションへの意欲が生まれてくるのだと考えられます。
それに比べると、「動物」から「ヒト」の段階というのは、コミュニケーションの中身が高度化するだけで、「モノ→動物」ほどの劇的な飛躍はなく、むしろゆるやかに連続して上がっていくようなものだと考えられます。

自閉症児のコミュニケーションにおけるつまづきとはつまり、この「モノ→動物」の段階の「気づき」に至らず、コミュニケーションの意味や必要性を実感できないままに、「ヒト」の世界に放り込まれているところにあるのではないでしょうか。

だとすると、ここで重要なのは、「モノ→動物」の段階の「気づき」を療育すること、つまり、直接見て知覚できる体験の範囲だけで、世界との双方向的な働きかけに気づけるようなシンプルなコミュニケーション環境を作り、その中で繰り返し双方向的な働きかけを行なうことだ、といえます。

この「動物の段階」の療育を最もダイレクトに導入する方法は、動物を登場させることです。つまりこれが、私の考えるアニマルセラピーの意義です。
ここまでの考え方が妥当だとするならば、アニマルセラピーは、「モノと違って双方向性があるが、ヒトほど複雑でない」というシンプルなコミュニケーション環境をサポートする療育として、合理性があることになります。

アニマルセラピーについては、科学的な部分とオカルトな部分の切り分けも含め、改めてじっくり考えてみたいと思います。
言うまでもなく、動物と関わるだけで「不思議な力で自閉症が治る」などというのはオカルトですし、ここで考えているアニマルセラピーとはまったく違うものです。
ただ、こういったセラピーでしばしば話題になる「不思議な力」、例えばヒトには無関心な自閉症児が動物が相手だと表情豊かに関わりあったりするといった現象は、上に述べたような「ヒトよりもシンプルで分かりやすいコミュニケーション環境」が有効に働いた結果である可能性があるのではないか、と思っています。

誤解していただきたくないのですが、ここでは、単純に自閉症児にはアニマルセラピーがいい、と言っているのではありません。

そうではなく、コミュニケーションスキルが育っていない自閉症児を療育するときに大切なのは、実は「ことば」や「内面」ではなく、むしろそれらから離れた、直接的な働きかけ-反応の連続体を作っていくことにある、ということなのです。

よく言われる、子どもへの「声かけ」も、もちろん大事でしょう。
でも、もっと大切なのは、子どもが「声」の意味がわからなくても、親から「働きかけ」を受けていることに「気づき」、それに反応するとまた別の反応が返ってくることに「気づき」、それが繰り返されることで親とのコミュニケーションの原型に「気づく」ことなのです。

そして、私たちが自分自身に問うべきなのは、自分が自閉症児に対して行なっている「コミュニケーション」は、目で見て、体が触れて、それだけで分かるような直接的な働きかけに満ちているだろうか? 言葉や「内面の伝達」に頼ろうとしていないだろうか? ということです。

さらに、この考え方は、子どもを動物のように扱う、ということでもありません。むしろ全く逆です。
ここで問題にしているのは、子どもから見た「コミュニケーション」が直接的で分かりやすいかどうか、ということです。つまり、「子どもを動物扱いする」のではなく、「あなた自身が動物のように『分かりやすくなる』」ことが求められているのです。視点を裏返さなければならないのです。

現時点では、この視点からのこれ以上具体的な療育法を紹介できるには至っておらず、まだまだ療育の方法論としては未完成です。
既存の療育法の中につながりを見出すとすれば、感覚統合訓練に含まれる「親子の呼応的な動作が含まれる遊び」や、多少言語的な世界に足を踏み入れてしまいますが、「PECS」による要求表現のコミュニケーション療育は、原初的な双方向性への「気づき」を促すことができるかもしれません。

補足:
ちなみに、ここで言っている「直接的な働きかけ」は、俗に言う「ハートでぶつかれ」といったニュアンスとはまったく違います。勘に頼るのでなく、あくまでも、「知識を身に付けた科学的なアプローチ」として、直接的な働きかけを行なわなければならない、と思っています。
posted by そらパパ at 20:43| Comment(2) | TrackBack(0) | そらまめ式 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そらパパさん!
再度のヒットに感激してます。
膨大な記事の為、拾い読みさせて頂いていますが、「自閉症児の対人関係の発達経路=モノからヒトへの過程」 にピンと思いあたるものが有りました。
息子PRは12歳にして、ほとんど言語コミュニケーションしない(どうしてもの時に使う5~6語は有ります)重度の自閉症児ですが、とてもやさしく、陽気な子です。
小さい頃、彼が冷蔵庫の中のものを取りたい時に、私の腕をつかんでクレーンしたのは、母親に助けを求めたかったのではなく、私の「腕=冷蔵庫を開けるモノ」が必要だったのですね。そんな気がしてました。
男性を見ると、父親であろうが、初対面の人であろうが、肩車をしてくれる、「乗りモノ」と思ったのでしょうか、直ぐよじ登ろうとしていましたし。
また、自閉症児は象徴的遊びはしないと言われますが、確かにママゴト遊びや人形など、場面設定した遊びに興味を持ちませんでした。が、モノに対する認識は良く、外出したい場合は靴や、私のバッグを持ってきたりしましたし、パパの場合はブルゾン(1歳半頃から)。ここで言う「モノ」は象徴的とは言わないのでしょうか・・?
昨日友人夫妻が、愛犬の若いハスキー犬を連れて家に遊びに来ました。
狭いアパートなのに、部屋の中まで犬を連れて入る訳ですが、PR君に紹介すると、犬の方は匂いを嗅ぎながら後をつけまわすのに、PR君は大きな犬が苦手で(道で出会うと怖いのか警戒して遠周りして避けます)逃げまわり、しまいに、大声で叫びだしました。
「優しい犬だから 大丈夫よ」といっても、うろうろされるのが不安なのか、自分の部屋へ隠れてしまいました。一度気になって出てきましたが、また犬に圧倒され、端の方に追い寄せられる始末。
完全に犬に制圧されたと言う感じで、それからずっと、友人達が帰るまで、部屋から出て来ませんでした。いつもなら、ワーワー、ギャーギャー 大声で、自分の存在を示すかのように何度もこちらに来るのですが、この日は部屋でやけに静かにしていました。
我が子にかわいそうな事したというよりも、彼のリアクションに、ちょっとした、人間関係のようなものを見うけ、驚いたのです。強いものと弱いものの関係みたいな。面白いのは、以前、道で小さな犬に出会った時は、チョコチョコ動くその小さな物体を面白いがって、足で蹴ってみたりしたんです・・・この子は。また、子どもの遊び場で、床のマットに寝かされていた あかちゃんを蹴ってみたことも有ります。
あの あかちゃんも「モノ」だったのだと思います。
最初、友人は息子に、「この子(犬)を殴ったりしたらだめよ そしたら噛むわよ」などといって、しきりに「動物を虐待してはいけない、優しくしてあげなければ」
と教え聞かせようとしました。そこで私は
「大型犬であろうとなかろうと、虐待をするのは健常児であって、そういう子は動物を下等なものと思っているからでしょう。PR君は犬も自分や親達と同じにみているから、自分より強そうなこの犬に、反対に脅かされているのよ」と説明?しました。
通所施設では、女性の先生にはひっかいたりして攻撃的行動が有るらしいのですが、男性の先生の言う事は聞き、うまくいってるそうですので、力関係はここにも現れています。
PR君と犬との様子は、怖がりながらも、悪いと言うわけではなく、どちらかというと、ポジィティブに感じました。それで、なんとなく、「犬はしゃべらないし、算数をしたりもしないし、なれれば PR君にとって落ち着く仲間になれるのではないか・・・」と思っていたところです。
 <「相互作用」という最も重要な要素はしっかりとのこしながら、ヒトとヒトとのコミュニケーションにありがちな複雑さを徹底的に排除する> 
このそらパパさんのご意見に共感します。
陽気で人を見てはニコニコしていたPR君が、子どもに出会うと、泣き叫んで嫌がったり、顔を背けたりするようになったのは2歳半頃からです。例えば アババーだけの1歳児を前にしても、「聞きたくない~」という感じで、避けるようになったのです。他の子は皆しゃべれるとでも、思ったのでしょうか・・・?それとも、違ってみえたのでしょうか・・・?刺激が多すぎて、不安だったのでしょうね。
言葉をしゃべらず、関係を求めてくる犬 (猫はダメとおもいます・・・子ども嫌いですから・・・)というパートナーは大正解と思います。
テラピーなどと言うのではなく、人間の友人と同じという意味で。
通所施設では、ポニーに乗ったり世話をしたりということはしていましたし、それはそれで、良かったのですが、家のなかでは飼えませんし、ポニーのほうから寄ってくる訳ではありませんから・・・。
なんとか、庭のある広い家で犬と暮らせるようにしないといけませんね~。
友人の言っていた、「動物も、人間と同じように心があり、優しくしてあげればよい付き合いができるし、酷い事をすれば、噛み付いてもくるのよ」と言う言葉は結果的に使えて、この「動物」と「人間」を置き換えればよいかしら。「モノ」の取り扱いから、動物・人間との関係へと、段階を上がれるよう、こどもの身の丈になって、共に努力したいと思います。



Posted by maman de PR at 2007年08月07日 10:35
maman de PR さん、こんにちは。
長文のコメントありがとうございます。

自閉症の子どもが、外出したいという意思を外出に関連するグッズを持ってくることで表現する、というのは、象徴というよりは「表象」あるいは「記号」といえるのではないかと思います。

つまり、そういったグッズを、「外出したい」という意思を表すことばの代わりとして提示している、ということです。

そして、なぜそんな表象関係が学習されたのかということを考えてみると、これは、「親が外出するときにはいつも××というグッズを身に付けている」という関係から、「××というグッズを親にくっつければ、親は外出してくれる」という(あまり正しくない、むしろ誤った)「ルール」を導き出しているのだとも考えられますね。

動物とのかかわりについては、そんなに複雑に考えずに、怖くないものには探索行動がまさって、怖い大型犬の場合には手も足も出ない、単純にそういうことだと個人的には思います。(このシリーズ記事のポイントは、「内面」ということをあえて考えずにシンプルに環境とのかかわりを考えてみよう、という点にありますので、そう整理してしまったほうがいいように思います)
そして言ってみれば、これは環境に「適応」している、ということだと思うんですね。

ともあれ、自閉症児の療育では、「環境(のさまざまな要素)との相互作用」という視点を常に持ちつづけることが、とても重要だと最近ますます感じています。
Posted by そらパパ at 2007年08月07日 23:02
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