人とのコミュニケーションは、「目に見えない『内面』の探りあい」といった間接的なものではなくて、もっと直接的な、「目の前に実在する『人』との相互作用そのもの」だ、という気づきは、自閉症児へのコミュニケーション療育にも多くのヒントを与えてくれます。
コミュニケーションがまったくできない自閉症児に最初に教えるべきことは、ことばの模倣のような「行動の形成」ではなく、他人に対するある種の「気づき」だと思います。
自閉症児の障害を端的にいえば「ヒトに対してモノとは異なった適切な行動を取れないこと」だともいえます。
健常児は、ヒトとモノはそれぞれ違った働きかけをするべき対象であり、特にヒトに対しては、お互いに働きかけをしあう「相互作用」が決定的に重要な対象である、ということを、特に何もしなくても自然に知り、「ヒトがいる環境」にスムーズに適応していきます。
ところが、自閉症児はそのような「ヒトに対する適切な働きかけへの気づき」が発達せず、ヒトに対してもモノと同じような行動をとってしまったり、そもそも「ヒト」が自分にとって意味のある対象なのだ、ということに気づくこと自体に失敗してしまったりします。
ここで必要なことは、行動主義的に「ヒトと関わる行動」をごほうびを与えて教え込むことでもなく、精神分析的に目に見えない「内面」を理解しようとすることでもなく、あくまでも「目に見えるヒトとの具体的・直接的な相互作用」を繰り返し経験させることによって、「ヒトというものはどんな風に働きかけるべき存在なのか」ということに気づかせ、ある種の「環境への適応」という形でコミュニケーションの基礎スキルを身に付けさせることなのではないでしょうか。
ヒトと関わるというのは、本質的に、目の前のその存在自体と直接関わることです。決して、「相手の内面」を「推測」して、その「内面」に間接的に働きかけることではありません。
自閉症児が「心の理論」に障害を持っているように見えるのは、脳の中に「心の理論モジュール」が実在し、それが障害されているのではなくて、上記のようなより基本的な人間関係の段階でつまづいているために、同じ発達のレール上の、より高次で言語化された思考である「心の理論」にまで到達していないことによるものだと考えられます。
つまり、「原初的な人間関係の障害」が原因で「心の理論障害」が結果なのです。
決してその逆ではないでしょう。
(この辺りの「心の理論」の障害と「人間関係の障害」との原因-結果関係については、以前ご紹介した「『こころ』の本質とは何か」で滝川一廣氏が語っていることでもありますし、河野哲也氏も「環境に拡がる心」で同書を引用して同様の議論を展開しています。)
別の見方をすると、自閉症児がコミュニケーション障害に陥っているのは、「心の理論」が不全だから、といった高次の認知プロセスをいきなり持ち出すよりも、より包括的で原初的な「ヒトとの直接的な相互作用」に何らかの困難があるからだ、と考えたほうがよさそうな気がするのです。
では、その「直接的な相互作用」をうまく療育するには、どうしたらいいのでしょうか?
(次回に続きます。)