前回、私たちが当たり前のように前提にしている「内面」って、本当に私たちが考えているような形で実在しているんだろうか? という疑問を書きました。
ところで、今回のテーマにかなり近い内容を、私とは違った切り口で考察している新書を発見したので、寄り道してちょっとご紹介します。
「心」はあるのか―シリーズ・人間学(1)
著:橋爪 大三郎
ちくま新書
自閉症に関する興味深い洞察を含んだ本として以前ご紹介した、「『こころ』の本質は何か」と同じシリーズです。Amazonのレビュー評価がいいのと悪いのと、極端なのが面白いですね。
この本は読み終わっていますので、近いうちにレビューしたいと思います。
さて、本論に戻ります。
河野哲也氏の「生態学的哲学」などでも考察されている立場から考え直すと、他者とのコミュニケーションとは、相手の「内面」を推測する私の「内面」の動き、といったとらえどころのない間接的なものではなく、実在する人間同士の直接的な相互作用としてとらえられます。
それでは、他者の心を推測する、といった「心の理論」的な考え方はどこに行ってしまうのでしょうか?
私の考えでは、「心の理論」も消えてなくなるわけではありません。
人が何かを「頭の中で」考えて、その考えによって行動が決まる(その考えを推測しないとその行動を理解できない)ことは、当然あるでしょう。
重要なことは、常にそうであるわけではない、ということ。
「私」とは「心」であり、「心」とは身体とは独立した「内面」であり、「私」の行動は常に「内面」によってコントロールされている、という考え方が正しくない、といっているのです。
「私」が「内面」によって行動していると言い切れるのは、頭の中で意識して言語的な思考を行なっているときでしょう。こういう状態は、ことばの音量をミュートしてしゃべっているようなもの(いわゆる、「内言」といわれるものですね)で、外からは何を考えているのか分からなくなります。
こういう状態の人の行動を考えるときにだけ、私たちは「心の理論」のような考え方を必要に迫られて使っているのでしょう。しかも「心の理論」に基づいて人の行動を推測している私たち自身も、同様に言語的な思考をするという特別な状態(内言的な状態)に入っていると考えられます。
つまり、私たちの考える「内面」とは、実は「言語的な思考」の言い換えにすぎず、それは「私」のヒトとしての活動全体の中のごく一部でしかないと考えられるのです。
繰り返しますが、人と人とのコミュニケーションの本質は、何も介在しない直接的な相互作用にあるのであって、「目に見えない『内面』同士がお互いの内面を探り合っている」という、冷静に考えると非常に不気味な構図を前提にする必要などないのです。
このような立場に立つと、自閉症児に対するコミュニケーション療育観も大きな修正を迫られることになります。
何より、自閉症児にミュニケーションを教えるとき、「内面に働きかけなければならない」と考える必要はなくなります。
そうではなく、子どもとの間の直接の「相互作用」をどう構成していけばいいのかを考えればいいのです。適切な相互作用が、子どもに利益を提供するという経験を繰り返しながら、その状況に「適応」させていけばいいわけです。
このあたり、回を改めてもう少し詳しく書いてみたいと思います。
(次回に続きます。)