私たちは、それぞれが「心」、ないしは「内面」を持っている、と信じています。
そして、他人を理解するというのは他人の「内面」をわかることだ、と信じています。
そして、自閉症というのは脳の障害によって起こる「内面の障害」だ、と信じています。
そして、私たちの自閉症児への療育は「内面への働きかけ」だ、と信じています。
でも、もしかするとこれって全部間違い(幻想)かもしれない、というのが、最近私が考えていることなのです。
これまでのブログの記事を読んでいる方なら、私のこういった考えは、ギブソンの「生態学的知覚心理学」(より知られたことばで言うなら「アフォーダンス理論」)、さらには、それに基づき独自の「生態学的哲学」を展開する河野哲也氏の考えに触発されたものだ、と推測がつくかもしれません。
考えているのは、例えばこんなことです。
目の前にいる人が怒っていて、それでもその相手と話をしなければならないとすれば、私たちは、相手が怒っているということをふまえて、言葉を選びながら、その相手とのコミュニケーションを図ろうとするでしょう。
このような状況を、「内面」という枠組みを使って説明しようとすると、こんな感じになります。
私たちは、相手の言動から、相手が怒りの感情を内面に抱えていると推測する。
このように推測した私たちの「心」は、これから話す内容を意識して修正し、怒りの感情を抱えている人に対して適切な言葉を選んで話をする。
この説明は、一見、何の問題もないように思えます。しかし、よくよく考えてみると、本当に私たちはこんなことをしているのか? という疑問が湧いてくるのです。
第一に、「怒っている」というのは、相手をぱっと見て直感的に分かるものではないでしょうか? 私たちは本当に、常に「怒りの感情を内面に抱えている」という「内面化」「心理化」を行なってから相手を判断しているのでしょうか?
自分自身が意識する「怒っている」という感情も、特定の身体の状態(例えば、「アドレナリンが分泌され興奮している」)にラベルづけをしているだけかもしれません。
ましてや、他人が「怒っている」という判断は、見た目の表情や行動パターンが表していることそのものであり、私たちはそのような直接的な知覚をしていると考えるほうが、実感に近いと思います。
それでは、怒っている相手に「気を遣って話す」という部分はどうでしょうか。
私たちは話すとき、これから話す文章が完全に頭の中にあるでしょうか? せいぜい、話の大雑把な「方向性」「話題」くらいが意識にあるだけで、どんな「文」を話すかは、実際に話してみないと分からない、というのが普通でしょう。
「気を遣って話す」ときも、そういった大雑把な意識のうえに、更に「気を遣う」という方向性が追加されるくらいで、やはり話す内容自体は、話してみないと分からないはずです。
こう考えていくと、相手が「怒っている」というのも相手の外見上の言動から直接・直感的に知覚され、その相手に「気を遣って話す」というのも、意識がことばをコントロールしているというよりは単に過去の経験に基づき対人関係に適応しているだけだといっても説明がついてしまいます。
つまり、今回の例でいうと、「内面」という概念を使わなくても説明できてしまうし、むしろそのほうが、私たちの実感とも近いように思うのです。
「内面」がまったくない、と言っているのではありません。
ただその「内面」は、意識して論理的に考えたりする場合だけに立ち上がる適用範囲の限られたものであり、日常の人との関わりなどは、もっと直接的な環境の知覚と相互作用によって多く成り立っているのではないか、と思われるのです。
(次回に続きます。)
先日あったパリのpsychologue(日本語では心理療法士とか、カウンセラーになるのだと思いますがよくわかりませんので言語のまま書きますね。)は自閉症児には体が”一体(ひとつのまとまりの意)”であるという認識がないというか、一つのまとまりとして機能していない。ゆえに知覚し、知覚した内容に準じた行動を起こせないのだと言っていました。ゆえにそっぽを向きながらテーブルの上にコップを置く、様な普通ではしない行動様式を取るようです。
知覚から行動に向かうきちんとした脳の経路が自然に発達していないのだから、ちゃんと機能するように教えてやることが必要であるということになります。上記psychologueの息子さん(17歳)も自閉症でお母さんとのトレーニング(2-7歳)の結果、今、知能指数の非常に高い高校生になっていますが、彼も逐一、きわめて具体的に教え込むことが必要だと語っています。急いでいますので、続きはまた。