環境に拡がる心―生態学的哲学の展望
著:河野 哲也
勁草書房 双書エニグマ
序章 淡い主体と鮮やかな主体
第1章 出来事としての身体
第2章 他人のいる環境、他者ではなく
第3章 環境と心の受動性―対話とテクノロジー
第4章 動物による人間の心の形成
第5章 心は主体だろうか―自由と意図について
この本の内容に気づいたときは、ちょっと驚きました。私の現在の関心のベクトルにぴったり合った本だったからです。
まず第一に、本書はタイトルからはまったく分かりませんが、自閉症に強く関連する本です。
さらに、本書のベースとなっているの、かの「アフォーダンス理論」を創設したギブソンの生態学的心理学です。
そして、自閉症、アフォーダンスといったテーマを扱いながらも、本書は一義的には、「哲学」の本なのです。
本書は、「自閉症だった私へ」で有名なドナ・ウィリアムスが登場したテレビのドキュメンタリー番組への印象から始まります。
そして、そのドキュメンタリーのいくつかのシーンから、自閉症者であるドナ(とその夫)の「心」のあり方は、近代的な主体性とは違うところにあるのではないか、と洞察します。
この洞察をきっかけに、著者は、デカルトに始まる近代的な「主体」のあり方、捕らえ方への問題意識を展開していきます。
著者である河野氏は、現象論的立場からギブソンのアフォーダンス理論に触れ、本書のサブタイトルでもある「生態学的哲学」という立場をとっている哲学者ですが、その一方で、障害児者の特別支援教育にも十数年関わっているという変わった経歴を持っています。
本書の内容は著者のそういった経歴抜きには語れないもので、障害児者とのかかわりの中で生まれた、近代的な「主体」というものへの疑いを、ギブソン心理学に基づく「生態学的立場」から解明していこうとするものになっています。
哲学的議論が続く中にも、最初から最後まで「障害児者への真摯なまなざし」が透けて見えるという、不思議な雰囲気に満ちています。
自閉症に関する本、という視点から本書を見てみます。
冒頭のドナ・ウィリアムスの「心」「主体」に関する話題に続き、第2章では「心の理論と自閉症」という節で、近年話題となっている「心の理論」の障害によって自閉症の障害を説明しようというアプローチへの根源的な疑問を投げかけます。
ここで著者が問うている最も大きな疑問とは、こういうものです。
「心の理論」の前提になっている考え方、すなわち「人はそれぞれ目に見えない『心』を持っており、それに基づいて行動しているので、他人を理解するとは、目に見えている『他者』の背後にある目に見えない『他者』の『心』を推測することだ」という考え方そのものが、デカルト的二元論(心と身体を分離する考え方)から生まれた狭い見識で、その狭い枠組みを人間理解そのものだと考える「心の理論」のアプローチには、近代心理学の陥った個体主義、心理主義の誤りがそのまま反映されている。
・・・うーん、易しく書くつもりが全然そうならないですね。(^^;)
例えを使って説明してみます。
本書には、あの動物王国のムツゴロウこと畑正憲氏の話題が登場します。動物に顔を寄せ合って交流するムツゴロウさんは、その動物を「理解」できていないのでしょうか? そんなことはありませんね。
では、ムツゴロウさんは動物と交流し、理解を深め合っているとき、目に見えない動物の「心」を、同じく目に見えない自らの「心」でもって推測しているのでしょうか? それも違うでしょう。
恐らく、実際に動物に触れ、声をかけ、匂いをかぎ、じゃれあう、そういった身体的な相互作用の連続そのものが「交流」であり、その経験を重ねることで培われていくのが「理解」なはずです。
もちろん、距離をおいて動物の「心」を考える瞬間もあるでしょうが、それは「交流」のごく一部でしょうし、動物の理解の本質が、そのような言語化、擬人化した「理解」よりもむしろ、リアルな身体的相互作用の中にあることは間違いないでしょう。
だとすれば、なぜヒトとヒトの交流を考えたとたんに、そういう身体的な相互作用の重要性、本質性がごっそりと抜け落ちて、妙に哲学的な「目に見えない心を推測する」といったものだけが本質であるかのように登場するのでしょうか?
「心の理論」がまったくの誤りである、ということではありません。そうではなくて、「心の理論」がカバーする他人との交流、理解の領域は狭く限られたものでしかなく、しかもそれは生得的というよりは社会的に獲得される「他人の理解法」なのだ、ということを言っているのです。
この主張は、実に本質的なところを突いていると感じます。
さらに議論は続きます。
自閉症児者(および知的障害者)の中には、このような「心の理論」の獲得を含めた「デカルト的主体」が確立されていない人が多数存在します。
現代社会では、そういった人は主体性がないと判断され、契約行為ができないなどの制約を受ける「特殊な存在」として隔離されてしまいます。
しかし、デカルト的主体がないことは、ヒトとしての主体性がない(動物同然)こととイコールでしょうか?
この、直感的には明らかに誤りだと思われる、しかし哲学的に考えるとなかなか答えのでない問いに、著者は、デカルト的主体性を「鮮やかな主体性」、そこまでは到達しないが、環境との相互作用の中に見出すことができる主体性を「淡い主体性」と名づけることで解消しようと試みます。
つまり、「自閉症スペクトル」ならぬ「主体性のスペクトル」を考えるわけです。
これも、障害児者の社会的位置付けを考えるとき、非常に重要な視点であるように思われます。
このように、著者の展開する「生態学的哲学」とは、「私」の存在をデカルト的二元論から解放し、環境とかかわり、相互作用の中に立ち現れる存在として描きなおそうとする試みだと言えます。その試みの基盤となっているのが、ヒトは実際に環境との相互作用そのものを知覚し、行動しているのだ、というギブソンの生態学的心理学、アフォーダンス理論なのです。
河野氏の著作をもう1冊ご紹介しておきます。こちらはより一般的に、著者の「生態学的哲学」を紹介する本ですが、やはり特別支援教育について触れられた章があります。
「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学
著:河野 哲也
NHKブックス
※その他のブックレビューはこちら。
私は、ごく最近、統合失調感情障害と思われていた19歳の息子が、約8か月通った精神科医から発達障害(アスペルガー)ではないかと言われ、自分もアスペルガーだなと思い至った56才の会社員です。30才くらいからずっとマーケティングリサーチの仕事をしています。(大学は電気工学科でした。)
精神科医から言われるまで、発達障害のことは、意識の外にあったのですが、言われた時にすぐ思い出したのは、河野氏の下記の本です。
意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)
ご存知かも知れませんが、この本にはズバリ、アスペルガー当事者(綾屋紗月さん)のお話(当事者研究)がでてきます。
これを読んでいたおかげで、ステレオタイプな自閉症観に陥らずに済んだと思っております。
コメントありがとうございました。
また、電子タイマーキットへのお申込み、ありがとうございました。
河野氏は、自閉症について考えるときに非常にヒントになるような本をたくさん書かれていて、私の中では「心の師」のひとりです(もちろん「意識は実在しない」も読みました)。
自閉症のことを考えるとき、外せない哲学者だと思っています。