この段階に入った子どもは、必然的に、次のような複数の、非常に重要な気づきに導かれていくはずです。
1.自分が何かすると、反応して鏡像が動くという現象がある。
これは、相互作用ないし因果関係への気づきを導きます。
そして、漠然とした形かもしれませんが、そういう主体的な行動をする存在としての「自分」への気づきも芽ばえてくるでしょう。
つまり、これこそが世界と自分との二項関係への気づきへのきっかけとなるのです。
2.「世界」という空間が存在する。
「鏡」は常に固定されており、それに対して自分が相対的に動くことによって、鏡像の「見え」が異なってきます。関心を持つあまり鏡に近づきすぎると、動いたときに鏡に手が当たって痛いでしょう。
つまりこれは、動いているのが自分で、それに対して固定された「鏡」があり、その関係は自分の動きによって変わる、ということ、つまり、自分は空間の中を動いている存在なのだという気づきへとつながっていきます。
(これまでに何度も書いてきたとおり、「空間」というものは生まれながらに知っているものではなく、発達の過程で「気づく」ものだと考えるべきです。)
3.自分が動かしているものと、動いて見えているものは、似ているが違うものである。
これは、鏡に手を伸ばすことで分かってきます。
鏡に手を伸ばすと、伸ばしている自分の手と、鏡像として映っている手の2つが同時に見えます。
鏡以外の場所で手を伸ばすと、伸ばしている自分の手だけが見えます。
こういった経験の繰り返しから、自分の体への気づき(ボディ・イメージ)と同時に、それに対応するものとしての自分の体以外のものの存在(これまで何度も書いてきた「世界」)への気づきのきっかけにもなっていきます。
4.見えている動き(鏡像の動き)は、自分の動きと同じである。
これも、腕や足などの「見えている体の部分」と鏡像を対応させることにより気づきが始まります。
これは、「自分の動きはこんな風に見えているんだ」という気づきでもあり、自分の動きをモニタリングするということにもつながります。模倣行動の下準備としても重要な気づきとなると思われます。
5.そこに映っている物体は、自分を映したものである。
これは、かなり後になってから生じる「気づき」だと思われますが、4.の気づきから自然に導かれます。
なぜなら、手や足が自分と「同じ」だとすれば、その手や足がつながっている物体は、やはり「同じ」なのではないか、という推論を働かせることができるからです。
ただし、これは容易に生じる気づきではないでしょう。健常の子どもでも鏡に映っているのが「自分」だと気づくには、2歳前くらいの知的発達が必要です。(参考記事)
とはいえ、実際に療育する自閉症児は、そのくらいの年齢にはなっているでしょうから、諦めずにチャレンジすれば意外と早くこの段階に到達するかもしれません。
私の娘の場合も、遅くとも3歳になる前には、鏡に映る姿を「自分」として捉えるようになっていたと思います。
6.自分は、周囲のヒトと同様の存在である。
私たちの体には、直接見えない部分がたくさんあり(その最たるものが「顔」です)、鏡を見なければ、私たちは自分の体全体がどのようなものであるのかを知ることはできません。
鏡に映ったのが「自分」であるとわかれば、その姿が、周囲にいる大人や子どもと同じようなものであることも分かり、自分もまた、周囲にいるヒトたちと同じ「ヒト」なのである、という気づきに至るでしょう。
これは、とりも直さず、自分が世界の中にたくさんいる「ヒト」の一人だという認識につながり、世界と自分を客観視する、より本格的な意味での「世界と自分への気づき」につながっていくでしょう。
これらのさまざまな「気づき」が徐々に進行し、あるとき全体として像を結ぶことによって、「世界と自分との相互作用への気づき」へと至るのです。
鏡の療育の魅力は、子どもの発達段階が低くても、親が手をかけなくても、容易に「操作遊び」の段階に進めるという導入の容易さに加え、鏡が返してくる「反応」(鏡像の動き)が、自分と世界との二項関係への気づきにとってあらゆる意味において理想的なものである、ということにあるのです。
(次回に続きます。)
HACプログラムは、以前から存じ上げています。
今回せっかくご紹介いただいたので、リンクを追加して紹介することにしました。
「家庭での療育」という視点を早くから取り入れているのはすばらしいと思いますね。
これからもよろしくお願いします。
そのアイデアは面白いですね。
まあ、「鏡の療育」はフォーマルトレーニングではなく、日常生活のなかでのカジュアルトレーニングなので、「専用の服を着せる」というやり方とどう組み合わせていくのか、という問題は残るかもしれませんね。