2010年12月20日

殿堂入りおすすめ本・まとめて再レビュー(2)

過去に「殿堂入り」として、当ブログのブックレビューで高く評価した本を、現在の視点から改めてレビューしつつ、まとめなおすシリーズ記事の2回目です。
しばらくは、私が「自閉症を知る」というカテゴリに分類した「殿堂入り本」を、順にご紹介していきたいと思います。



あたし研究(レビュー記事

こちらは比較的最近殿堂入りさせた本ですが、自閉症スペクトラムを生きる本人が障害について書くという「当事者本」の傑作です。

当事者本は、本人でなければ分からないことが読めるという魅力がある一方で、たった一人の個別の経験でしかないところから、誤って「自閉症一般」の話を読み取ってしまいやすいといった問題などがあり、取っ付きやすそうに見えて、実は読む人と読むべき本も選ぶ、ある意味「上級者向け」のジャンルであり、誰にでもおすすめできる「当事者本」は決して多くありません

以下、「当事者本の難しさ」について、簡単に書いてみたいと思います。

1つめの問題。
当事者本はえてして、たった1人(アンソロジー的にまとめられた当事者本でもせいぜい数人)のエピソードに過ぎない話を、あたかも自閉症スペクトラム全般に当てはまるかのように一般化してしまって「自閉症というのはこういうもの(←じゃなくて、正確には著者がそうなだけでしょう!)」という結論を安易に導いてしまいがちです。
そして、エピソード自体を安易に一般化してはいけないのと同様に、「私はこういうトラブルをこうやって解決した」という当事者のエピソードから、「自閉症にまつわるこういうトラブルは、この方法で解決すればいい」と安易に「ソリューション」に結びつけることも、誤った一般化です。
これは、代替療法などでよくある「ナントカ療法を試した!よくなった!ナントカ療法が効いた!」という、「3た論法」そのものであり、多くの場合は正しくありません。
そういった「エピソードから導く問題解決のアイデア」は、当事者本の読者が自らの判断で参考にするのはいいと思いますが、わざわざページを割いてそういったことを本の中で語ることは、必ずしも根拠のないソリューションへと読者をミスリードする不適切な行為であると思います。

これが、当事者本についてまわる第1の問題、「(誤った)一般化」の問題です
特に、自閉症スペクトラムというのは極めて多様で決まった形のない障害だからこそ、この「誤った一般化」の問題は深刻で、当事者本を書くこと、読むことを難しくしています。

そして、当事者本にありがちなもう1つの問題は、当事者のエピソードに対して、専門家や周囲の「定型発達の人」が「当事者のこういう行動・こういう考えかた・感じ方がもつ意味とは、こういうことだ」、あるいは「当事者の人と定型発達の人との違いとは、こういうところにあるんだ」と勝手な「解釈」をくっつけてしまう、あるいは、当事者自身がそういう周囲の「解釈」を受け入れてしまって、自分の言動をその「解釈」に基づいて説明してしまいやすいという点にあります。

例えば、自閉症の人の感覚異常の問題は、脳の前頭葉のナントカ覚の機能が不全だから起こる、みたいな「感覚統合『理論』」の仮説があります。
この仮説はエビデンスによって支持されておらず、神経学的な知見ともリンクしていないため、少なくとも現時点では、この主張は単なるトートロジーです。(つまり、現にある「感覚異常」という現象を「ナントカ覚の不全」によって説明しているようでいて、実はその「ナントカ覚の不全」とは、単に「感覚異常があること」を説明する構成概念に過ぎない、ということです。言い換えると、「感覚異常」は「ナントカ覚の不全」によって説明され、「ナントカ覚の不全」があることは「感覚異常があること」によって説明されているという循環論法になっているわけです。もちろん、エビデンスが出てくればこの構図は変わってきますが、それがない現時点ではこの仮説はトートロジーである、ということは間違いありません。)

ところが、こういうトートロジーによる説明は、本当は分からないものを分かったかのように誤解させる非常に強い力を持っているので、たとえ当事者であってもその説明に納得してしまい、それ以降は自らの体験について、「本来の生々しいリアルな現象」ではなく、「解釈のフィルターをかけたあとの凡庸な説明」をしてしまいがちになります
これは自閉症スペクトラムの当事者本に限った話ではなく、たとえば自己啓発本とかビジネス書の類でも当たり前のように出てくる話で、「私があまり人と関わらないのは性格が内向的だから」「私が仕事を頑張れないのはやる気が足りていないから」のようなトートロジーはしばしば登場しますね。

こういうトートロジー的な解釈も問題ですし、例えばリビドーとかトラウマとか「無意識」のような、精神分析的な(目に見えない)構成概念による「解釈」も、結局「わからないものをわからないもののせいにする」だけであって、本を読む人にとって有益な情報を与えてくれるものではありません。

これが、当事者本についてまわる第2の問題、「(当事者体験のリアリティを失わせる)解釈」の問題です。解釈が加われば加わるほど、当事者本は手垢にまみれていってしまうわけです。

私が考える優れた当事者本とは、この「一般化」と「解釈」の問題をうまくクリアして、読者に誤解を与えず、また手垢にまみれていない新鮮な知見を与えてくれるものです。
一般化もせず解釈もしない当事者本は、当然にそれらの課題を読む人の側に投げかけてきます。ですから読むのが難しいですし、必ずしも「分かりやすく」もありませんが、そういう「一般化も解釈もされない生のエピソード」にこそ、私たちが学ぶべきもの、ダイヤの原石が隠れているのだと思います。

逆に、ダメな当事者本とは、少数のエピソードをやたらと一般化して「自閉症ってこういう障害」とか「この問題はこのやりかたで解決できる」といった結論を急いだり、またそれらのエピソードを、既存のナントカ理論みたいなもので解釈して整理して「分かった気にさせてしまう(実はまったく分かってない)」ものです
端的にいえば、当事者のエピソードの周りにたくさんの専門家や定型の人が群がって、一般化したり解釈したり類型化したり評論したりして、当事者本人もその流れに乗せられてそれらのフィルターをかけた後の凡庸な体験談を語ってしまう、そういうのがダメ当事者本の典型でしょう。

さて、このように当事者本というのは見た目の印象よりもはるかに「難しいカテゴリ」なので、なかなかおすすめできる本が少ないのですが、この本はその辺りのバランス感覚が非常によく、しかもイラスト中心で読みやすく、気軽に読めて自閉症スペクトラムへの理解が深まる、素晴らしい本に仕上がっています。

本書の中の豊富なイラストを著者自身が描いているところも、この本の「当事者本」としての価値をますます高めているといっていいでしょう。
なぜなら、文章を書くこともイラストを描くことも要はある問題をある角度から切り取る「解釈」そのものに他ならず、本書の大きな要素となっている「イラスト」が当事者本人によるものであることは、その「解釈」の度合いを減らす(少なくとも、本人以外の第三者ではなく本人自身の解釈に基づいたものになる)ことに一役買っていると考えられるからです。

元のレビュー記事でも触れていますが、途中に感動的な展開、エピソードも盛り込まれていて、読んでみれば、きっと充実した読後感が味わえると思います。稀有なバランスの上に立った当事者本として、高く評価できる本だと思います。

(次回に続きます。)

※ブックレビュー一覧をまとめた記事はこちら
posted by そらパパ at 21:36| Comment(4) | TrackBack(0) | 療育一般 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
当事者本からの一般化の問題は、そらパパさんが言われるように、私たちが陥りやすい問題ですね。私も当事者本を読むと自閉症児の行動への自分の解釈の根拠を探してしまうところがあります。
ご存知かもしれませんが、この問題のひとつの解決策として、多くの当事者本からアスペルガーの特性と思われるものを抽出し、それを75名のアスペルガーの人々にアンケートで確認した論文があります。
髙橋智・増渕美穂「アスペルガー症候群・高機能自閉症における「感覚過敏・鈍麻」の実態と支援に関する研究―本人へのニーズ調査から―」です。ネットで読めます。
Posted by とよべい at 2010年12月26日 22:07
とよべいさん、

コメントありがとうございました。

「一般化」の問題はほんとに難しいです。
私たちは、経験を一般化することで「知識」に変えていくという傾向を非常に強く持っていますから、エピソードを読んで、それを一般化せずに「そのままでおいておく」ことはそう簡単にはできません。
だからこそ、当事者本というのは書くのも難しく、出すのも難しく、読むのも難しいのだと思います。

ご指摘の研究はこちらですね。

http://ir.u-gakugei.ac.jp/handle/2309/89177

そうですね、こういった多数へのアンケートにすれば、エピソード主義の問題は薄れます。
でも今度は、「個々の生き生きとしたエピソード」は失われ、最大公約数的な特性描写になってしまうんですよね。
そこが難しいなあ、と思います。
Posted by そらパパ at 2010年12月29日 21:58
論文の所在を示していただいてありがとうございます。
そらパパさんが書かれていた当事者本の「個々の生き生きとしたエピソード」と「最大公約数的な特性描写」について考えていました。この二つの関係は、「ポチというじゃれつく犬」と「犬という言葉」との関係とも考えられないでしょうか。
そらパパさんは「ライブ・自閉症の認知システム」で、とても大雑把なまとめですが、「ポチというじゃれつく犬」を「犬という言葉」に一般化しにくいのが自閉症の特性と言われていました。
ということは、「個々の生き生きとしたエピソード」にとらわれてしまうのが自閉症の特性ということになります。
ところで、私たちが自らの経験を表現する時に、やはり自らの経験にとらわれ、他の人にとっても有益な経験として描写することは難しいものです。
このことを考えていると、健常者と自閉症者と間の線はそれほど太いものではないのではないかという思いも生まれてきます。そして、この健常者と自閉症者の連続性は政治的な意味を持つと思います。
翻って、そらパパさんの議論でいつも惹かれるのはその厳密な科学性です。その武器は「分ける」ということだと思います。そしてそれは一時的ではあっても健常者と自閉症者の間に線を引くことでしょう。
そのそらパパさんが「名誉健常者」というテーマでtwitterをされています。その科学性とともに「障害の政治」にも積極的に関わろうとされているのだと思います。twitterの読み方もよく分かりませんが、ぜひ読んでみたいと思っています。
Posted by とよべい at 2011年01月12日 23:29
とよべいさん、

改めてのコメントありがとうございます。

エピソードについての「定型の人」の受け止め方について、私はちょっと違う考えです。

私たちは、エピソードを聞いているにもかかわらず、それをついつい「一般論」に拡大してしまいます。
だから、「他人」にもその個別エピソードが一般的に有効であるように錯覚してしまう(だからうまく伝わらない)のではないかな、と思います。

Twitterですが、Twitter自体が分からなくても、Twitterでの議論をまとめた記録(Togetter)があり、先日のエントリではそのTogetterによるまとめページを紹介しているので、通常のWebページと同じように読むことができます。
上から下に時間軸は流れています。
よろしければ、ご覧ください。
Posted by そらパパ at 2011年01月13日 23:02
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