2006年08月04日

私はどうして私なのか(ブックレビュー)


私はどうして私なのか
著:大庭 健
講談社現代新書

1 自分がいる、ということ
2 他人との関わりと、自己意識
3 言語―ないものについての考え
4 「自称語」の意味と指示対象
5 指示対象の与えられ方
6 「私」という指標語
7 内的な自己…?
8 私は大庭健である、という事実の特別さ…?
9 意義(センス)と指示対象、そのスリかえ
10 「私が思うに」―聞き手へのコミットメント

私が分析哲学に関する本を読み続けている理由。
それは、分析哲学が問いつづけている、「私とは何か、他者とは何か、意識とは何か、時間とは何か」といった問題意識の中に、まだ誰もはっきりとつかまえきれていない自閉症の本質、あるいは自閉症児が感じている「世界」を知るカギが隠れているかもしれない、と感じているからです。

本書も、「自己・他者」論で有名な哲学者が新書レベルにかみくだいて易しく解説した、「自己」についての哲学的考察ですが、読んでいていきなり、私のアンテナが振れるフレーズが登場しました。

そのフレーズの1つは、第4章で登場します。

「私」という語が、自分を指す。これは、あまりにも当たり前に響く。しかし、このことを理解するのは、「たぁくん」(そらパパ注:著者の名前を幼児語的に呼んだもの)という固有名が自分を指している、ということを理解するよりも、はるかに難しい。じっさい、幼児は、固有名を用いて自分について語れるようになったあとも、当初は「ぼく」・「あたし」という一人称の代名詞を使えない。他人が自分に呼びかけてくるときの名を、いわば、おうむ返しに用いることしかできないのである。
「私」という一人称の習得が難しいのは、誰もがそれを用いるから、である。(中略)「私」という代名詞は、自分が語ったときには、自分を指すが、他人の口から出たときには、この自分を指さない。「私」という語の指示作用は、固有名の指示作用よりも、はるかに複雑なのである。
(初版68~69ページ)

何だかこれを読んでいて、分析哲学の本ではなくて自閉症児のコミュニケーション障害の解説本を読んでいるような気がしませんか?

実際、この部分は、自閉症児のコミュニケーションにおけるある種の困難がどのように生じているかという謎の解明に、かなり近づいている気がします。

そして、私はこの内容を見て、以前偶然見たことがある、アスペルガー症候群の方のHPにこんな記述があったことを思い出しました。

自分のことを名前で呼ぶ子供(最近では、大人も)なんて、珍しくありません。私が、人との会話の中で自分のことを「私」と言えなかったからといって、そして、「私」という言葉を使うに当たって一大決心をしたからといって、それが何だ!?と言われれば、それまでです。

HP「理解to理解」の中の「ペンギン日記」-「私」がいない間の私より

・・・どうでしょう?
この2つの文章は、本質的に同じことについて書かれているように感じられないでしょうか? 私には、そう思えます。

また、本書において著者は、「自分を意識する」ということは、他人によって意識されている、と意識するということだと述べています。
そして、幼児が、この「他人によって意識される存在としての自分」というものを「発見」する重要なきっかけの1つが、鏡に映った自分の姿を自分だと認識する過程だと言っています。

鏡に見えているのが自分の姿だ、と分かるためには、

・じっさいに存在するのだけれども、それが見えているところ(つまり鏡の向こう)に存在しておらず、
・じっさいに存在している場所(つまり鏡のこちら側)にいても、それをじかに見ることはできない、

という、特別のあり方をしているものが存在する、ということが理解できねばならない。こうしたあり方をしているものとは、言うまでもなく、見ている自分自身である。しかし、そう言えるのは、自分がそうしたあり方をしている、ということを理解できるようになった者だけである。
(初版32~33ページ)

この辺りは、私が鏡の療育で考えていて、最近別の本でも改めて確認した、「鏡を見せることによる自他区別、自己意識の発達の療育」が、自閉症児の認知構造にどのように働きかけて、どのような有効性があるのかについて、大きなヒントを与えてくれそうな記述になっています。

私は、ここに書かれていることも含め、さまざまな知見を総合して、中度~重度の「何から手をつけていいか分からない」ような自閉症児の最初の療育に、鏡を見せることが有効である可能性が高いと、最近ますます感じるようになってきており、機会をみて改めて「鏡の療育」について本格的に書いてみたいと考えています。

自閉症の認知レベルの障害というのは、どうやら、私たちが(例えば自分のことを「私」と一人称で呼べる、といったような)ごく当たり前だと思っていることが当たり前に理解できないことにより、この「世界」を、私たちとは違った形で理解していることから生じるもののようです。

だとすれば、その「当たり前のこと」をゼロから疑ってかかり、当たり前に思えることを正確に説明するとどうなるのか、に徹底的にこだわる分析哲学の世界には、自閉症を考えるヒントの原石がごろごろ転がっているはずです。
私には、そう思えてなりません。だからこそ、分析哲学という、つい半年ほど前には見向きもしなかった世界に、いま、強く惹かれているわけです。

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posted by そらパパ at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | 更新情報をチェックする
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