自閉症児の親は、本ばかり読んで頭でっかちな自閉症評論家みたいになったらいけない。そんなことより、目の前の子どもに愛情を注ぎなさい、とよく言われることについて、前回は、短期的な目の前の療育実践と、中長期的なよりよい療育研究のバランスという観点から少し書きました。
しかし、このことばには、元来もう1つ別のニュアンスがあると思われます。
それは、「自閉症の勉強をして自閉症の一般論について知ることは、まさに目の前にいるかけがえのない個性としてのあなたの子どもの独自性とぶつかり合うためには何の役にも立たない。本なんか読んで自閉症について知るよりも、子どもと関わりあって子どもを知りなさい」というニュアンスです。
つまり、勉強で得られること=一般論、子育てに必要なこと=個別性、という対比の中で、自閉症について勉強することは子育て・療育にそのままつながるわけではないから、勉強する時間があったら子どもと関わりなさい、という主張です。
これは一見正論のように見えますし、表面的な意味としては私も賛成です。
でも、「だから勉強なんかせずに子育てに専念しなさい」といった「勉強不要論」までいってしまうと、やっぱりそれは違う、と感じずにはいられないのです。
一般論と個別の事案が必ずしも一致しないのは、自閉症に限らずむしろ当たり前のことです。
例えば、プロ野球の選手を考えたとき、実際の試合でのプレイと、普段のトレーニングとが「同じ」だとは到底いえません。トレーニングばかりしている人が試合で活躍できるとは限りませんが、トレーニングをまったくしないで「試合での一球一球に集中することこそが重要だ」とだけ考える選手が実際に活躍できることはありえないでしょう。
大リーグのイチローや松井が活躍できるのも、才能に加えて、並々ならぬ普段からのトレーニング、そして実際の試合経験、それらがすべて一体になっているからこそでしょう。
将棋や囲碁のプロが、二度と同じ対戦はないと分かっていても過去の棋譜を研究するのも、それによって培った基礎力が、次の実践での応用力につながるからです。
実践力、応用力は、基礎力があって初めてその上に成り立つ。私も、そう確信しています。
ところが、この当たり前に思えることが、こと人対人の問題になると、とたんに軽視されてしまう傾向があります。
ビジネスの交渉にしてもそうですし、教育にしてもそうですし、親子関係にしてもそうです。
営業マンはいまだに論理力よりもビジネス知識よりも「とにかく実践で経験を積んでハートと根性でぶちあたれ」と指導され、教育においても「教育論なんかより子どもと直接に触れ合うことだ」といわれ、子育て論は、これだけ発達心理学や行動理論が発達しても「子どもに愛情を注ぎましょう」という、これまたわけの分からないものになりがちです。
なぜでしょうか?
それは、私たちが、「人との付き合い方は、本で勉強しなくても常識として知っている」と信じているからだと、私は思います。
その「常識」だけで「基礎」は十分、あとは個別のケースでの実践あるのみだと考えるからこそ、それ以上勉強することを軽視し、実践と経験だけを極端に重視する傾向が出てくるのでしょう。
でも、私は断言したいと思います。
少なくとも自閉症児の療育・子育てに関しては、私たちが常識的に知っている「人との付き合い方」だけで何とかしようとするのは、明らかに不適切です。
自閉症児の行動をどう理解して、どんな風にコミュニケーションして、どう育てていくのか。そういったことを、私たちは「基礎トレーニング」で身に付けていかなければならないのです。
端的に書きましょう。
私たちは、常識的な他人との接し方に、「心の理論」を無意識のうちに使っています。「こんなとき、相手はこう考えているだろう」という常識を当てはめて、相手の行動を理解する(したつもりになる)わけです。
ところが、自閉症児にはこの方法がまったく役に立ちません。
結果、「なぜこんな行動を取るのか分からない、こちらの気持ちが伝わらない」ということの連続になります。ここで、「勉強不足」のままでただ「子どもとぶつかって」いてもいい成果は上がらず、親のみならず子どもまでもが不毛な消耗戦に巻き込まれていくでしょう。
このとき、例えば「常識」を一旦横において、「一般論として勉強した」自閉症児の行動パターンを念頭に違う対応をしてみる。期待通りになった場合はそのまま続け、ならなかった場合は少し変えてみる。そういった「基礎をともなった応用」ができれば、このような不毛な状況から抜け出すきっかけになると思うのです。
自閉症児に私たちの「常識」が通じないなら、まずは一般論としての自閉症の勉強をすべきなのです。その「基礎」なくして、真の意味で「子どもに愛情を注いでぶつかっていく」実践などできないでしょう。
私は、「自閉症児であっても人間なんだから、本音でぶつかっていけば愛情は通じる」といった意見を安直に語る人を、(その人がどんな地位にあっても)信用しません。その「愛情」は、こちらの常識を無理やり押し付けているだけの、ただの独りよがりなのではないでしょうか。
私が本を読み、このブログにいろいろ書いていることは、私なりの必死の「基礎トレーニング」だと思っています。
私にとってそれは、日常の「実践」のときに、本当に自分が(独りよがりでない)愛情を子どもに注げていることを確信するために、なくてはならない「基礎」なのです。
参考:自閉症について知るためのおすすめ本(レビューにリンクします)
自閉症児の保育・子育て入門
虹の架け橋―自閉症・アスペルガー症候群の心の世界を理解するために
自閉っ子、こういう風にできてます!
※その他のブックレビューはこちら。
言いたかった事のように感じちゃいました。
そらパパさんみたいなしっかりとした基礎を
身に付けてもいないし、勉強もそれほどして
いるわけじゃないけれど、周囲からは
頭デッカチ・のように言われ、当然「我が子」を
放っておいているように言われ続けていました。
でも「知りたかった」んです。我が子の世界が
どんなに見えているのか?知りたい気持ちの
方が強かったんです。今は本を極力読まないで
います。これ以上読む?字で知ることは、私的に
終了していいかな・・・って感じられたので。
相手を知る作業は大切だと思います。
例え親でも、作業は必要だった・と実感して
います。基礎作り・・・お互いが安心するため
に、大切な作業だと思います。
そらパパさんはいつもスゴイです~!
お気持ち、よく分かります。
自閉症がもつ、自分たちの「常識」のあまりの通用しなさを考えれば、「知りたい」という気持ちは、まったく自然なものだと思います。
ところで、私自身も、「自閉症」そのものに関する本は、最近はあまり読んでいません。自閉症だけについて述べられている本の内容は、だいたい目を通してしまったような気がします。
なのに、自閉症についてまだまったく分からないというのがちょっと信じられなかったりします。
だから、私の関心はいま自閉症の周辺領域に移っています。ここに、もしかするとまだ誰も気づいていないダイヤの原石が隠れているかもしれない、と期待しているからです。
ですので、私の読書はまだ当分終わりそうにありません(笑)。
なんて上質なブログなんでしょ。(パソコンに5時間張り付いたのは初めてです。)
息子の睡眠障害に付き合って寝そびれてパソコン開いたらこのブログにたどりついちゃいました。
養護学校の先生からそれとは知らされず行動分析に引きずり込まれ、とある気づきがありまして学校内にサポートブック教室をつくりました。これをはじめてから気がついたことがあります。保護者はみんな本を読むことから始まり、いろんな講演会や勉強会に参加し障害についてものすごく学習するわけなんですがまるで身についていないんです。
サポートッブックは自分の子供の記録をとって周りの支援して下さる方などにお見せしてこどもの特徴をわかっていただくためのものなんですが
途中で障害の一般的な特徴と自分の子の特徴を照らし合わせて記録するところがあります。ここでたいがいの親はいかに自分の子の問題行動が現実としてどうむきあえばいいのかわかっていないことに気がつきます。
そうなの、そういう意味では評論家になるほどの専門知識はたぶん必要ないんです。こどもにかかわりまくって失敗してわかっていけばいいことではあるんです。でも基本はすごく大切なんです。残念なことに基本に導いてくれる先生や場所が本当に少なくてみな迷走してしまうのです。
どうしたらいいいんだろ?ほんと考えちゃいます。
たぶん、そうなんだと思います。
「療育」ということばで「外」に対して期待するものは、ことばであったり自立であったり、そういうムツカシイコトだったりする一方で、普段の生活では実は多動やパニックや睡眠障害といったシンプルな問題行動に悩まされている、というのは少なくないパターンなんじゃないかな、と思います。
失敗は大事です。私もいつも失敗ばかりです。
でも、「失敗は成功の母」になるためには、その失敗がなぜ生じて、どうすれば次につながるかの適切なフィードバックが必要です。
このブログも、少しでもそういう役に立てればいいな、と思って、「家庭の療育」にこだわって書いていきたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
「教員の子育て」という言葉が教員の中にあります。よっぽどうまくいくか、その逆か・・・長年職員室の中で言われてきていることなので、当たらずとも遠からず、のメッセージだと思っています。家にかえっても先生をしてしまうことへ戒めだと。
お仕事柄、我が子を分析的にご覧になり、観察眼で取り組まれていることは大変敬意を表します。また、その綿密な観察により、新たなる発見が自閉症教育に寄与するところもあると思います。
感じ方の特性、コミュニケーション障害を補う手だて、そういったものを理解するために専門知識は確かに必要ですけれど、「家族」という単位の中で、他のご兄弟とのそだちあいを考えると、過度の「分析的対応」は余りよい結果を生まないように感じています。保護者も家族も楽しく生きられるための「アイディア」をお互いに交流しながら、専門的な対応はむしろ療育機関に主導権はゆだねることをおすすめしたいです。
2回に分けて書いたこの記事、特にまさにこの上にある「第2回」の記事をよく読んでいただければ、ここで私が志向していることは、まさにご指摘のような「保護者も家族も楽しく生きられる」ために絶対に必要なことなんだ、ということが理解していただけるのではないかと思います。
通常のコミュニケーションがほとんど通じない重度の自閉症児と24時間接している私たちにとっては、子どもが簡単に理解できる行動をとったときには逆に驚いてしまうくらい、いつも子どもがなぜその行動をとるのか、どう対応すればいいのかを悩みに悩んでいます。
ですから、その悩みのなかで、「楽しく生きられる」ために夫婦で勉強して、夫婦で頭をひねりあっているわけです。
観念的に対応していても、自閉症児とはまともに交流はできません。ちゃんと理解して、ちゃんと交流するためには、頭を絞る必要があります。
「分析的対応」と「保護者も家族も楽しく生きられる」とは対立する概念ではなく、自閉症児の療育的子育てにおいては、むしろ緊密につながっているものだと思っています。