今日、学校から急に連絡があり、何があったのかと思っていたら、娘が体育ホールで遊んでいるときに遊具にむこうずねをぶつけて、ちょっとしたケガをしてしまったそうです。
保健室でしばらく冷やして様子を見ていたそうですが、ひどいアザはできたものの、特に骨などには異常はないようで、帰宅後の様子を見ている限り、特に心配はなさそうです。
で、そのときの状況ですが、どうやら先生が目を離したすきにケガをしたらしく、先生は娘が痛みにギャーと叫んだところで気がついて、あわてて娘の様子を見に行ったということらしいです。
そしてそのとき、娘は先生にむかって「いたい」と言ったそうです。
私はその話を聞いて、ケガをしてしまったことはさておき、「いたい」とちゃんと言えたことはすごくいいことだな、と思いました。
娘の言語能力はまだかなり低く、現時点でもまだ1語文と2語文の中間くらい、2語文を言うときも1単語ごとにこちらがおうむ返しをしてイントラバーバル的に誘導しないと、2語目が出てこないくらいの水準です。(それでも、療育を始めた頃、あるいはその後の長きにわたる「音声言語のまったくない時期」を思い起こせば、よくぞここまで成長してくれたと感動するくらいではありますが)
そんな中で、(これは以前も書いた記憶がありますが)我が家でかなり初期のころから目標として取り組んでいたのが、「いたい」と言えるようになることでした。
体のどこかが痛いときに「いたい」と言える、というのは、娘のように重い障害をもっている場合には重要なサバイバルスキルになると思われます。
体のどこかをケガしているのに(例えば分かりにくいところの骨が折れているのに)、あるいは病気で内臓のどこかが非常に痛くなっているのに、それをうまく表現できなければ、周囲の人に気づいてもらえず、致命的な結果を招く可能性が高くなります。
ただ一言、痛いときに「いたい」と言えるようになること、何とかこれができるようになってほしいと、まだ娘がおうむ返しができるかできないかという時期から、「いたい」を意識して教えることを始めました。
そのとっかかりとなったのが、「いたい」ではなく「かゆい」ということばでした。
娘が蚊に刺されてかゆがっているときに、「かゆい」と音声模倣で言わせて、言えたら「よし」とほめてすぐにムヒを塗ってあげるようにしました。
ムヒには即効性があるせいか、これがかなりの強化子になったようで、まもなく、娘は蚊に刺されたり乾燥肌になったりして皮膚がかゆくなると「かゆい、かゆい、むひ、むひ」と言ってムヒを塗ることをせがむことができるようになりました。
そこで、「いたい」についても、これと同じ流れを汲んで教えることにしました。
娘がどこかに体を打ちつけたりして明らかに痛がっているのを見かけたら、すぐに飛んでいって音声模倣で「いたい」と言わせて、言えたら「よし」と言ってほめて、オロナインとかメンタームのような当たり障りのない薬を塗ってあげます。
そんな薬で痛みが取れるとは思えませんが、痛い患部を「さする」ことで、少なくとも娘は、痛みに対して私たちが何らかの働きかけをしている、ということには気づくことができるのではないか、それに気づいてくれれば、「かゆい」と同じような形で「いたい」も言えるようになるのではないか、そんな風に考えていたわけです。
そんな「かゆい」「いたい」の働きかけも、もう最初に始めてから4~5年がたとうとしています。
療育というのは、どんなに小さいことも、本当に気の長い取り組みだなあ、と改めて思います。
最近では、娘は私たちに対しては「かゆい」も「いたい」もかなり適切に言えるようになってきました。(特に「かゆい」については、自分でムヒを薬入れから出して持ってきて「早く塗ってくれ」とアピールするくらいです)
今回、それがちゃんと汎化していて、学校の先生にも言えた、ということは、私たちにとってはとても意義深い、嬉しいニュースでした。
そう言えば話題はちょっと変わりますが、おとといにはこんな嬉しい出来事もありました。
娘をスーパーに連れて行ったら、歩きながらティッシュ配りの人のティッシュを器用に受け取るなど。あまり役に立つライフスキルじゃないけど、随分器用になったなとちょっと感心。
http://twitter.com/sora_papa/status/28478497455
これは、実際受け取るところをすぐそばで見ていた(一緒に歩いていたわけですからね)んですが、微細運動の苦手な娘にしてはずいぶん器用にティッシュを受け取っていたので、驚きました。
こうやって折に触れて子どもの成長を実感できるということが、療育を続ける親にとって何よりの励みになりますね。
さまざまな困難に負けず、少しずつ、でも着実に成長してその成果をみせてくれる娘の姿には、いつも感動させられます。
そらまめさんのBlogは以前から時々拝読させていただいていました。
太陽もあまり語彙を持ってはいません。
自分の気持ちを単語でも何でも伝えるということは、とても大切なスキルですね^^
同じような体験だったので、思わずコメントしてしまいました^^;
コメントありがとうございます。
語彙が増えるスピードがゆっくりなお子さんであればあるほど、「どんなことばを優先的に教えるのか」について、厳選して考えていかなければいけないですよね。
我が家もまさにそうですが、そんな中で、体の不調を訴えるための「いたい」は、何とか教えていきたいことばだと考えて、がんばってきました。
まだ、内科的な痛みやだるさについては(例えば風邪のときなど)うまく訴えられないようなので、これからはそういった症状についてもうまくことばにできることを目指していきたいと思っています。
これからもよろしくお願いします。
うちの娘も発語に遅れがあり、意識的に教えたのはやはりサバイバルスキルとしての言葉でした。
「あつい」「いたい」はまず最初に理解させようとしました。
痛みを訴えるのと同じで
「熱さ」に関する言葉に反応する事で
事故や怪我を未然に防ぐ事に気をつけていました。
火傷しないのを確認して、少し熱めのお風呂のお湯を触らせたり
焚き火などを見ながら「あちいね」と話しかけたりして
「熱いものは避ける」を意識づけようとしました。
痛みも同時に、転んだりぶつかったりしたタイミングで
「痛かったね。あぶないね」と声をかける繰り返しで
大きな怪我に気をつけています。
今は手を繋いで歩きながら
「ストップ!」というかけ声に反応してピタッと止まる、という
遊びを通して、危ない場所で人の制止に反応する練習をしています。
コメントありがとうございます。
こういったことばは、重要性はよく分かっていても、同時に抽象的でもあるので、言葉に遅れがあるお子さんに教えるのはほんとに一筋縄ではいかないですよね。
コメントでもいただいたとおり、日常生活のなかにあるいろいろなチャンスを逃さず、最大限に活かして教えていくことが、ほとんど唯一のやりかただろうと思います。
うちも、「あぶない!」というと動きを止めたり、「ゆっくり!」と言うと走るのをやめたりしますけど、全然完璧ではないので、これからも着実に教えていきたいところです。
Twitterの方からこちらのブログのことを知り、時々拝見させていただいています。
私のブログとリンクを張らせていただいたのですが、よろしいでしょうか?
もしご都合悪い時は、お知らせいただけると幸いです。
ところで、自閉症傾向のある方は大人でも痛みに気づいていても表出しないということは珍しくないようです。知的なレベルにはあまり関係ないようで、痛みの知覚と表出の間には何らかの伝達障害があるのかもしれません。逆に痛みに過敏すぎる人もいて、第三者としては、どのくらい痛むのかが本人の行動では計りにくいのでどう評価すればいいか試行錯誤の日々です。
では、これからもよろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。
リンクについては、ご自由に付け外ししていただいて構いませんので、よろしくお願いします。
ヒトの知覚というのはなかなか奥が深いもので、例えば私たちは、視覚のなかに常に自分の鼻が見えていることに気づきませんし、心臓の音や周辺の雑音にも気づきません。
つまり、私たちの知覚というのは、外界や体調を「ありのままに」映しているというのはまったくの幻想で、それらを「自分にとって意味があるように」再構成して感じ取っているということになるわけです。
ですから、自閉症スペクトラムの方の痛みの知覚や表出(そしてそれについての障害)についても、いろいろな仮説が考えられるだろうな、と思います。
そういったことをいろいろ考え、試行錯誤しながら取り組んでいくのが、自閉症の方に対する支援、療育ということになるんだろうな、と思っています。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。